ざくざくざくざく。



 日が照っても一向に消える気配のない雪は、踏み潰しても水に戻る事はなく、逆に凍りついて更にその上に雪
 
 を積もらせる。あちこちに点々と足跡は付いているはずなのに、その跡は無駄な努力のように一晩経てば完全
 
 に消し去られてしまう。



 賭博師を酒場に残し、やや乱れた神経を抱え込んで、マッドは身震いした。付けても付けても、あっと言う間
 
 に消されてしまう足跡が、自分自身のように見えたのだ。嘲笑うように世界を白紙に戻す雪は、遥か昔に自分
 
 で切り落としたはずの血筋と習慣のようだ。忘れたと思っても、関係ないものだと思っても簡単に許してはく
 
 れず、振り出しに戻そうとする。





 真昼の亡霊
 
 







 名を知りたい、というのは、人として当然の欲望でありながら、しかし同時に他人の家に無断で入り込むのと
 
 同じくらい不躾な事だと思う。賭博師がマッドに叩きつけた挑戦状は、その場で白い手袋を投げつけてやって
 
 も良いくらい、無神経な要求だった。
 
 

 戦利品である葉巻を苦々しげに噛みつぶしながら、マッドは腹が立つほど白い雪を踏みつける。日が差さずに
 
 どんよりと曇った空が、いっそう神経を逆なでした。



 空が見たい。



 西部は決して住みよい土地とは言えない。牧場主や銀行員、賭博の胴元ならともかく、普通の市民には発展途
 
 上で農業もなかなか望めない土地は、金鉱が近くにあったとしても住みやすくはないだろう。そもそも金脈が
 
 あってもその利を得る事ができるのは、ほんの一握りの人間だけで、後の工夫達はその日の糊口を凌ぐ程度の
 
 賃金しか手に入れる事は出来ない。しかも、金を見つけた事で起こる犯罪に常日頃から曝されねばならないの
 
 だ。そして金を採り尽くされた大地は、もはや何も望めない。人々は再び、金を求めて当てもなく彷徨うしか
 
 ない。



 何も生まず、何も育てず。



 そんな西部で、マッドは、この地の空だけは何の理由もなしに気に入っている。幼い頃に見た空よりも遥かに
 
 濃くきつい色の空は、絵画に出るどの青よりも強く、神がいる場所さえないような気がする。それが、マッド
 
 を高揚させるのだ。
 
 

 だが、今、その空は分厚い雲に覆われている。下降気味の機嫌は、やはり低空飛行を否めない。 踏み潰す雪
 
 の感覚がまた最悪だ。 せいぜい膝下までしか埋まらないのだが、心境的には地球の裏側までめり込みそうだ。



 そんな最悪な機嫌状態のマッドに恐れも知らず体当たりをしたのは、賭博師との勝負の前に追い払ったビリー
 
 だった。無事に雪だるまを作り上げたビリーは、マッドの腰のあたりに軽くぶつかり、鳶色の眼で見上げてく
 
 る。



「兄ちゃん、アニーは何か言ってた?」



 そういえば、見なかった。というか、マッドが気付かなかっただけだろうか。 ブラントとの遣り取りにばか
 
 り気がいっていて、アニーの気配に――マスターはいたのは視界の端に映ったのだが――気づかなかった。ア
 
 ニーに知られたら殴られそうではある。



 ごまかすようにマッドは薄く笑って、ビリーから視線を外す。真摯な眼差しを向ける少年の視線を感じつつ視
 
 線を巡らせていると、ふっと思いついた。



「なあ、ビリー。あの崩れかけた教会の中って入れんのか?」



 急に想定していなかった話を振られて、ビリーは眼をぱちぱちさせた。それはそうだ。あんな古びて朽ちかけ
 
 た教会の事など、誰も気にしてこなかったに違いない。ビリーはマッドを見上げると、不思議そうに訊いた。



「入れると思うよ。神父さんが亡くなった時、教会の鍵はパパが預かったから。パパはそういうのは絶対に失く

したりしないから、錆びたりしてなきゃ、開けられると思う。」



 そうか、とマッドは頷く。胸の中でちり、と何かが焦げる音がした。それはきっと雪の所為だろうし、ブレン
 
 トの不躾な言葉の所為だ。



「悪いけどよ、その鍵を持ってきてくれねぇか?」

「いいけど、どうするの?」 

「ただの暇つぶしだ。」



 やる事もねぇし、と言うと、純朴な少年は納得したようだ。作り上げた雪だるまにはもはや見向きもせず、彼
 
 の家でもありこの町の保安官事務所でもある建物へと、膝まで雪に埋まりながら駆けていった。








 受け取った鍵は、家の中にあった為かそれとも少年に握り締められていた為か、仄かに温かかった。黒ずんだ
 
 青銅の鍵は、荒削りの教会には相応しく武骨な造りで、飾りなど何処にも掘り込まれていなかった。
 
 

 それを手にし、マッドは背後にビリーを従え――というか勝手についてくる――雪を割って誰も訪れる事のな
 
 い教会の扉の前に立った。その教会は、やはり西部の教会らしく突貫工事で造られたもので、薄い壁を持ち上
 
 げたような簡素なもので、辛うじて硝子が嵌めこまれてはいるが、ステンドグラスといった色つき窓には程遠
 
 い。鍵が掛かった扉も、両開きではあるが、飾り気もなく重厚でもない、ごく普通の扉だった。
 
 

 ただ、取っ手と鍵穴部分が鍵と鉄製で、その部分には神の家である事を示すかのように小さな飾りが掘り込ま
 
 れてあった。尤もそれらは錆びによってほとんど掻き消されてしまっているが。
 
 
 
 マッドはその錆びた鍵穴に、まだ部屋の温もりの灯る青銅の鍵を差し込む。思わず力を込めそうになったが、
 
 微かに擦れるような音を立てはしたものの、想定していた以上に滑らかに鍵はゆっくりと回った。 

 

 むしろ扉が凍っていた事のほうが難関だった。力を込めすぎれば今にも朽ちそうな木の扉は壊れてしまいそう
 
 で、湯でもぶっかけてやろうかという思いが頭の中を掠め去った。それはすぐに、湯が冷えてしまえばまた同
 
 じように凍ってしまうだろうという考えで消えてしまったが。



 それに、扉の鉄製の取っ手は、どう考えても触れれば手に張り付きそうな気配を放っている。素手で触れれば
 
 皮膚が裂ける事は避けられないだろうと思ったが、マッドは一瞬の躊躇を抑え込み、冷えた扉に手を掛けた。

 そして壊れそうだと思った扉を、その思いを捩じ伏せて抉じ開ける。
 
 

 力任せに押された古びた扉は、ごそっと、何かが抜け落ちるような音と共に口を開け、湿気た黴のような臭い
 
 を運んできた。扉の鉄の取っ手には、案の定、手が張り付いたがマッドは振り棄てるように引き剥がした。そ
 
 の瞬間に走った火傷のような痛みに顔を顰める。見れば、左の掌を斜めに走るように赤くなっており、その中
 
 心には血が滲んでおり、苦笑いする。



 別に大した事ではない。利き腕でもないのだ。 銃を扱うには困らないし、大体、日常生活に支障が出るほど
 
 の怪我でもない。こんな怪我は日常茶飯事だ。



 だが、そう思ったのは扉の奥に鎮座している黒い骨のような外観を見るまでだった。



 長年閉ざされていた教会の中は埃っぽさよりも、雪の所為で湿気のほうが強く感じられた。乾燥による風化よ
 
 りも、湿気による腐敗を心配しそうだが、この寒さではそれも難しいのかもしれない。風化も腐敗も止められ
 
 た教会の中は、迫害にあった者達が最後に駆け込む氷河の洞窟を思わせ、時間さえ止めてしまったかのような
 
 錯覚を生みだした。
 
 

 冷たい暗がりの中、神父がいる間は使われていたらしい礼拝者の為の椅子と、その奥にある説教壇がぼんやり
 
 と見える。その説教壇の隣。目立たぬように隅に縮こまっている黒い外骨格に、マッドは身震いしそうになっ
 
 た。



 長い間閉じ込められていた所為か、その肌からは艶やかさが失われている。曇った黒い骨は、本来ならば周囲
 
 を映すほど艶やかなはずなのに。赤い縁取りの覆いさえもなく、その肢体を空気に曝すしかない喉は、きっと
 
 既にかさつき、歌う事は出来ないに違いない。しかし、その外見はどうしたって見間違う事が出来ない。
 
 

 二度と逢えない恋人、もしくは過去の亡霊に出会ったかのように、マッドは細い息を、神の家で白く吐いた。



「あれは、神父さんが使っていたピアノだよ。」



 ビリーが黒い骨を指差して言った。



「神父さんが持ってきたんだ。馬車に積んで。大人四人がかりで降ろさなきゃいけないくらい、凄く重かったん

 だって。パパも運んだ人の一人なんだけど、中に何が詰まっているんだろうって思うくらい重いんだって。」



 その言葉にマッドは頷く。あの黒い骨はそういうものだ。 その他の楽器の中でも、あそこまで重いものは他
 
 にはないだろう。楽器は音を響かせる為、基本的には中を空洞にしているものだが、鍵盤の覆いピアノはその
 
 構造上どうしても他の楽器にはない器官が必要で、その分どうしても重量が増える。



「この町には神父さんしかピアノを弾ける人がいなかったから、神父さんが亡くなった後、こうしてずっとほっ

 たらかしにされてるんだ。」



 ビリーは恐れもせずにピアノに近づき、その蓋を開いた。その瞬間、眩しいまでの白と黒の配列が眼に飛び込
 
 んでくる。かつて、あれを弾いていたのは、この西部の青い空の下では生きていけないような人だ。



「………たぶん。」



 マッドは葉巻を口から離し、鍵盤に触れようとするビリーに言った。



「長い事ほったらかしにされてんだったら、音が狂ってるだろうな。」

「音が狂う?」



 ビリーはきょとんとしてマッドを振り返る。少年に頷き返し、マッドは続ける。



「楽器ってのは、ちゃんと使ってやらねぇと音が狂っていくもんなんだ。ちゃんと使ってても音がずれていく。

 だから、普通は定期的に調律してやるもんなんだよ。」

「兄ちゃんは、調律できないの?」

「できねぇ。」



 それにもうピアノ線自体が錆びてしまっているかもしれない。
 
 
 
 ふうんと頷くビリーは、それでも鍵盤に指を滑らせる。その光景に何かを思い出しそうになって、マッドは眼
 
 を逸らした。その耳に届いた音は、やはり錆びついていて、ビリーの『うわあ』という声が続けて聞こえてき
 
 た。あまりに酷い音に、マッドは苦笑いする。



「神父さんが弾いていた時はもっときれいだったのに。」

「仕方ねぇよ。」



 割れ鐘のような音を響かせるピアノの音は、どの音を叩いても、やはり聞くに堪えない。ぎぃんぎぃんという
 
 音に首を竦めたマッドは、不意に眉を顰めた。



「……………?」



 ビリーが適当に叩く音に、割れ鐘とはまた別の――強いて言うなら、物が何処かに挟まって音を出す事を無理
 
 やり止められているような――音が聞こえたのだ。ピアノの内部に何かが落ちてしまって、鍵盤の邪魔をして
 
 いるのだろうか。
 
 

 マッドは曇った黒い骨に近寄り、その背後に回った。そんなマッドをビリーは音を立てるのを止めて眺める。

 マッドは黒い身体の、唯一木肌の見えている背中に、その指を捩じ入れて内部を無理やり覗く。



 楽器を扱うにしてはあまりにも乱暴な――マッドとてまさか自分がピアノを乱暴に扱う日が来るとは思わなか
 
 ったが――行為だったが、その甲斐あってかマッドはピアノの鍵盤を支配している器官を見る事に成功した。

 見れば、やはりピアノ線の間に何かが挟まっている。指を突っ込み何とかそれを引き摺りだすと、それは小さ
 
 な冊子だった。



「何、それ?」



 ピアノの上から覗き込むビリーに、ぱらりと開いて見せる。



「楽譜だな。」



 黄ばんで、今にもぽろぽろと縁が欠けてしまいそうだが、それはどちらかと言えば初級者のピアノ曲をまとめ
 
 た楽譜だった。



「ま、これを取り除いたからって音が良くなるわけでもねぇしな。」



 マッドは首を竦めるとビリーを見返す。



「これ以上は何もなさそうだし、帰るか。」

「うん。ねぇ兄ちゃん、これから家に来ない?」

「お前の?」



 なんで、と訊くとビリーは鳶色の眼をきらっとさせる。



「昨日の劇って、本当は途中で終わっちゃたんでしょ?あれの続き、聞かせてよ。」

「ああ………。」



 魔弾の射手。狩りの大会の結果によって、恋人との結婚の是非を問われる男が、唆されて闇の世界を垣間見る
 
 話。



「ま、かまわねぇけどよ。」



 そんな面白い話でもねぇぜ、と付け加えマッドは楽譜を小脇に抱えて朽ちた扉に向かう。その途中、楽譜の隙
 
 間から何かが零れた。痛んだ紙が千切れて落ちたのかと思い、身を屈めて落ちた紙を見て、マッドは眉間に皺
 
 を寄せた。



「どうしたの?」

「………なんでもねぇ。」



 紙を拾い上げ、代わりに零れ落ちたのは溜め息だった。やれやれと呟き、ビリーに言った。



「お前のいう神父、大した坊さんだよ………。」