うらぶれた小さな酒場は、麗しい劇団員達の手によって、瞬く間に立派な一つの劇場と化していく。翻る緞帳や、飾り立
 
 てられた書き割りや、舞台を彩る為に必要な物が次々と運び込まれていく。そしてそれらを引き立てる為の音楽を掻き鳴
 
 らす楽器達が。滑らかな光を弾くその外骨格に、マッドは思わず手を伸ばしそうになって苦笑いを浮かべる。触れたとこ
 
 ろで何もありはしないが、それでもやはり手を出す事に、らしくもない罪の意識が浮上する。



 一つ首を振って、過去をやたらと刺激するそれらから眼を逸らし、代わりに目の保養とも言える役者達に視線を巡らせた。

 簡素な服装をした者や豪勢な衣装を身に纏った者と、その姿はまちまちだが、それでも娯楽に乏しいこの町の中ではどう
 
 したって、その美しさは際立つ。妙に沈んでいたマッドの気分は、その賑やかな様子に少し上向きになった。





 舞台の前哨








 クリスタル・バーで劇を催したいと申し出たのは、ファビアンだった。

 その言葉にマスターや若者達は恐縮しながらも狂喜乱舞し、良く分からないながらもビリーは眼を輝かせ、アニーはほん
 
 の少し眉根を寄せた。



「舞台の準備は勿論、我々だけでしますし、舞台の後始末も我々でします。きちんと元通りにしますから。」



 アニーの顰めた表情に、ファビアンは有名な役者であるにも関わらず、柔らかな物腰でそう告げた。妹の不遜とも言える
 
 態度に、慌てたのはマスターだ。



「いいじゃないか、せっかくの申し出なんだ。」

「別にあたいは良いけどさ。仕事の邪魔にならないんなら。」

「なるわけないだろう!」



 何処となく膨れた妹と、やたらと腰の低い兄の遣り取りを眺めながら、マッドは口を挟んだ。



「見に来た客に酒でも出せばいいんじゃねぇか?そしたら店に損にはなんねぇだろ。」

「そうそう!」



 マッドの口車にあっさりと乗っかったマスターは、こうしちゃいられないと酒の在庫を確認しに、店の奥へと引っ込んで
 
 いった。残されたアニーは、むくれた表情でマッドを睨みつける。その表情に薄く笑みを浮かべて、首を傾げる。



「随分とご機嫌斜めじゃねぇか?何が気にいらねぇんだ?」

「うるさいね。そっちこそ死にかけてたくせに、えらく元気じゃないの。」

「一時的なもんさ。」



 アニーの言葉を無視して、マッドは短く言った。その言葉にアニーは怪訝な表情を浮かべる。それに流し眼を一つ送り、
 
 マッドは飄々とした口調で告げる。



「有名な俳優達に皆浮かれてんだ。なんせこの町には娯楽なんかねぇからな。あいつらが出て行って、しばらくすりゃあ、

 またもとに戻る。」



 お前の機嫌の悪い理由はそれだろ、と言うと、アニーの顔が真っ赤になる。どうやら図星だったようだ。この町には若い
 
 女はアニーくらいしかいない。それ故、若い男達はアニーに頭が上がらないのだ。しかし、それが劇団員の――リリーの
 
 登場によって覆されてしまった。若い男達はこれまでアニーに向けていた眼差しをリリーに向けている。きっとそんな事
 
 はないとは思うが、若者の中にはリリーに対して奇妙な騎士道精神を発揮してしまう者もいるかもしれない。それは、こ
 
 の町にとっては決して喜ばしい事態を招かないだろう。



 マッドがリリーをエスコートするのは、美女をもてなすという事で沈みがちな思考回路を忘れようという目的も確かにあ
 
 るのだが、それ以上に、この町の人間が身の程知らずにも騎士を気取らないようにという考えもあっての事だ。少なくと
 
 も、サンダウンと共にディオを倒したマッドが最初に手を出していれば、そう簡単にはおかしな考えを持つような事はな
 
 いだろう。尤も、そんな話をアニーにするつもりはないが。



「ま、それまではお前も劇を楽しめばいいんじゃねぇ?こんな本格的な舞台は見た事ねぇだろ?」



 すると、アニーはむくれた表情のまま、そっぽを向いた。



「ないよ、舞台を見に行った事なんか。」



 口を尖らせているアニーに、マッドはおや、と首を傾げた。もしかしたら自分は何か間違いをしでかしたのかもしれない。

 葉巻を銜えたまま、しばらく自分が女をエスコートする時の事を思い返し、マッドはようやく思い至った。



 なるほど、確かに女にとっては重要な事だ。



 思い至ると、早めに手を打っておくべきだろう。女の機嫌を悪いまま放っておく気は、マッドにはさらささない。マッド
 
 はひらりとカウンターから身を放すと、しなやかに酒場を出て行った。その背に、アニーが怨みがましい視線を投げつけ
 
 ている事は、ひしひしと感じていたが。









「おい、キッド!」



 ひとまず宿に帰り、自分に宛がわれた部屋に戻ると、そこではサンダウンが窓辺に凭れて葉巻をくゆらせていた。その姿
 
 にこれ幸いとばかりに声を掛ける。



「てめぇも今夜の舞台に行くだろ?頼みてぇ事があるんだけどよ………。」

「行かん。」



 話している途中で、全否定するような答えが返ってきた。というか、声が何となく機嫌の悪さを告げている。そう言えば
 
 アニーのほかにこいつも機嫌が悪かった、とマッドは頭を抱えそうになった。アニーの場合は原因は分かったが、サンダ
 
 ウンの場合は良く分からない。まあ賑やかなのが嫌なだけだろうと見当を付けてはいるが。
 
 

 そんな事よりも問題は、マッドの計画の腰を根底から折ろうとした男を、どうにかして舞台へと連れ出さねばならない事
 
 だ。それはもしかしたら、この男を撃ち取る事よりも困難を極める事なのかもしれない。



「いや、そこは行っとけよ。今を逃したら、もう二度と行けねぇかもしれねぇぜ。」



 説得とはとてもではないが言えないような台詞を吐くマッドに、サンダウンは溜め息を吐いた。



「行きたければ行けば良いだろう。」

「俺は言われなくたって行くさ。リリーが待ってるからな。」

「……………。」



 何故だろう。部屋の空気が冷たくなった。



 
「悪いが、舞台を見に行けるような服を持っていない。」

「…………あんた、なんでアニーと同じ事言うかね。」



 アニーは別に口には出さなかったけれど。というか、このおっさんが服の事云々を口にしても、可愛くない。



「わかったよ。てめぇの服も一緒に買ってきてやるよ。ああ。それぐらいしてやるよ。」



 全裸で抱きあって暖を取らずとも服屋で服を買ったら良いだけだったんじゃねぇのかという事も、一瞬脳裏に浮かんだが、
 
 それは堪えた。



「だから、てめぇがアニーをエスコートしてやれ。あんた無駄に長生きしてんだから、それくらい出来るだろ。」

「…………お前がすれば良いだけだと思うが。」

「言ったろ?俺はリリーのとこにいなきゃなんねぇんだよ。」



 また、部屋の温度が下がった。

 なんで?



 表情こそ変わらないが、はっきりと機嫌の悪さを告げているサンダウンに、マッドははっとする。もしやこのおっさん、
 
 久しぶりに見た美女に心を奪われたのではなかろうか。そうかそうかと一人納得したマッドは、それはもう素晴らしい笑
 
 みを浮かべてサンダウンの肩を叩く。



「仕方ねぇなぁ。ここは一つてめぇに花を持たせてやる。」

「……………?」

「てめぇにリリーのエスコートを頼むっつってんだ。アニーのエスコートは俺と、もう一人、将来有望な若者でするからよ。」

「……………何を。」



 言っているんだ、というサンダウンの言葉は、もはやマッドには届いていない。今のマッドの中は、これからの計画をう
 
 まく運ぶ事でいっぱいいっぱいだ。沈んでいた気分など、あっと言う間に吹き飛んでしまった。



「よし、そうとなりゃ、てめぇとアニーの服を探しに行ってくるぜ。安心しな。俺の見立てだ。間違いはねぇ。」



 ぐっと握り拳を作って、それはもうきらきらと眼を輝かせる様は、サンダウンが見惚れるほどであったが、如何せん内容
 
 はあまりにも馬鹿馬鹿しい。マッドも客観的に見たならば馬鹿馬鹿しいと思うだろうが、悪戯心を――しかもサンダウン
 
 に対するものである為、歯止めが一切かからない――無駄に擽られているので、もはや主観的になるしかない。
 
 
 
 呆気にとられるサンダウンを残し、マッドは勢いよく宿から飛び出した。

 そして途中、保安官事務所に立ち寄り、将来有望な若者を捕まえていく。







 



 その夕べ、アニーは眼の前に現れた男にあんぐりと口を開いた。夜色のコートを羽織り、颯爽と現れたマッドは黒の三つ
 
 揃えに身を包んでいる。これはあまり普段と変わらない。ただ、その隣に、同じような恰好をしているビリーがいる。



「あんた達、何、そのペアルック。」

「お前はもうちょっと言葉を選べねぇのか。」



 箱を抱えたマッドは、アニーのあんまりな台詞に顔を顰めた。だが、直ぐにそんな事を言っている暇はない事に気付く。



「すぐにこれに着替えろ。あと一時間もすりゃ舞台が始まる。」



 手にした箱をアニーに、それはそれは丁寧に渡す。が、アニーは何それと言わんばかりの胡散臭げな眼をして受け取り、
 
 綺麗に包装されていた箱を引き裂いた。その包装紙の破れっぷりに、マッドが一瞬凍りついたのは此処だけの話だ。それ
 
 は、箱を開いた瞬間のアニーの表情で相殺されたので、良しとする。ひらりと舞い上がった、ボルドーのドレスに、アニ
 
 ーは今度こそ呆けた様な表情をし、次の瞬間真っ赤になった。



「こ、こここれは、何!?」

「お前が欲しがってたもんだろうが。さっさと着替えてこい。」



 何やら一人でジタバタしてしどろもどろなアニーを、エスコートと言うには些か乱暴に彼女の部屋に放り込んで、マッド
 
 とビリーはその部屋の前で待機する。



「アニー………物凄く恥ずかしがってたね。」

「ま、服を贈るような甲斐性のある男もいねぇだろうしな。」
 


 ビリーに答えながら、マッドはサクセズ・タウンの若者達の顔を順に思い出しながら、駄目だなと呟く。そして仕方なく、
 
 将来のあるビリーに言い聞かせる。



「いいか、女には優しくしねぇと駄目だぞ。」



 後が怖いからな、という言葉は飲み込んだのは、流石と言うべきか。そんな言葉が続いているとは知らないビリーは、分
 
 かってるよと答える。この少年が世の中を知るのはまだ先なのかもしれない。
 
 

 それにしても。



「遅いね………。」

「ああ…………。」



 女の準備には色々と時間がかかる。そんな事、マッドは嫌というほど知っており、女を急かすのは愚か者のやる事だとも
 
 思っている。しかし、それを別にしても妙に遅い。舞台が上がるまで、あと十五分ほどしかない。意を決してドアをノッ
 
 クし、入るぞとだけ声を掛けて部屋に入った。そしてマッドは、文字通りぽかんとする。ビリーもあんぐりと口を開けて
 
 いる。



 マッドの選んだボルドーの濃い色のドレスは、アニーの気の強い顔立ちに似合っていた。そのブロンドにも良く映える。

 マッドの見立ては間違っていなかったのだ。が、それを忘れるほどの惨状が眼の前に広がっていた。涙眼になっているア
 
 ニーに、マッドは軽く目眩を起こし、小さく呟いた。



「………髪も結えねぇのかよ。」

「うるさいわね!こんなカッコした事ないんだから!」



 マッドの呟きを聞き咎めて、アニーは寝ぐせ以上に好き勝手に跳ね回った髪を抱えて叫んだ。そんな二人に、一番幼いビ
 
 リーが心配そうに、極めて現実的な質問をした。



「ねえ、もう時間がないよ?」



 ウェイン夫人に頼みに行こうにも、そんな暇もないだろう。マッドはやれやれと肩を竦め、悲しいくらいに放り出された
 
 ブラシを手に取る。



「安心しろ………マッド・ドッグ様に出来ねぇ事なんかねぇんだよ。」



 散々、サンダウンに負けている男が放った台詞に、その光景を見てきた二人が若干不安そうな表情を見せた事は、幸いに
 
 してマッドには気付かれなかった。スーツの上を脱いで腕まくりをしたマッドは、アニーの髪にぶら下がったままになっ
 
 ているピンを取ると、ブラシでその髪を整え、素早く髪束を分けていく。その光景をぽかんと見ていたビリーに、ピンを
 
 持ってこいと告げると、ビリーは慌てたようにその細い指の上にピンを置く。型崩れがしないようにとピンを差し込んで
 
 いくマッドの前で、あれほど抵抗の激しかったアニーの髪は滑らかに収まっていく。



「よし………これで文句ねぇだろ。」

「すげえや、兄ちゃん!」



 満足そうに己の仕事を見るマッドの横で、ビリーが感嘆の声を上げる。アニーに至っては声も出ないらしい。



「よし、行くぞ!」



 なんだか今から賞金首でも取りに行くような勢いでマッドは脱いでいた上着を羽織り、その後にビリーが続く。しかし、
 
 流石に自分のするべき事は忘れていなかったらしい。未だに呆然としているアニーの手を取り、マッドは恭しくその指先
 
 に口付ける。
 
 
 
 その瞬間、ぼんっとでも言いそうなくらいに真っ赤になったアニーに、次はビリーがとことこと寄ってきて、同じように
 
 その手にキスをする。しばし、ぱくぱくと口を開閉させていたアニーは、ようやく声を上げた。



「あんた、ビリーになんて事を教えてんの!」

「お前は淑女みたいに扱って欲しいんじゃねぇのか!」



 この後席に着くまで、マッドがアニーを淑女として扱う度にアニーに怒鳴られた事は言うまでもない。