マッドは驚いて自分に圧し掛かる男を見上げた。冷たい湿気た空気が漂う中は、灯りの
 
 準備一つなくて小さな光一つでさえ眩しい。一度だけ偽りのミサで息を吹き返した礼拝
 
 堂は、きっとこれから再び長い眠りにつくのだろう。
 
 

 その眠りの前に訪れた二つの影は、唐突に些か乱暴すぎるきらいがある様子で重なり合
 
 った。抉られた傷がまだ癒えないマッドは、サンダウンの動きに小さく呻いた。そして、
 
 自分が押し倒された場所が、背後にひたりと吸い付く感触が何なのかを悟り、蒼褪めた。

 黒い外骨格のような硬い外装。長年の放置によって艶やかさを失っていても、艶めかし
 
 い曲線を見せる身体。



「っ………何しやがるんだ、てめぇは!」



 思わず上擦った声は、押し倒された事自体よりも、押し倒された場所の所為だ。






 最後から二番目の真実












 情けない事に、実に情けない事に、クレイグを撃ち落とした後、マッドは椅子から立ち
 
 上がろうとしてそのまま膝を床についてしまった。それは、その場にいた者達にしてみ
 
 れば当然の光景だった。そもそも脇腹を撃たれて、あそこまでうろつき回れた事のほう
 
 が、むしろおかしい。
 
 

 だが、マッドにしてみれば、大勢の眼の前で崩れ落ちたのは不覚としか言いようがない。

 いや寧ろそれ以上に、崩れた自分を受け止めたのがサンダウンだった事のほうが、そし
 
 てその後そのままサンダウンに抱え上げられ――しかも横抱き――ベッドまで運ばれた
 
 事のほうが醜態の極みだ。しかもその間中、マッドはろくに抵抗するだけの気力もなか
 
 った。
 
 

 結局ベッドに降ろされ、いい加減に眠れと囁かれ、それに反論する暇もなく苦痛と疲れ
 
 と目眩が襲ってきた。



 そこからの記憶は酷く曖昧だ。熱っぽい空気の向こう側で誰かが囁く声が時折聞こえ、
 
 冷えた手つきが頬に触れる感覚もあった。僅かに現実の境界まで浮上する意識の中で、
 
 もどかしげにシーツの上に指を辿らせながら、流石に今回ばかりはサンダウンとベッド
 
 を共にする事はないんだな、と本当にどうでも良い事を考えた。だが、それでも何処か
 
 らともなく漂ってくる男の気配に、マッドは呆れたように小さく呟く。



「……………。」



 その自分の声で眼が覚めた。薄く眼を開くと、そこには予想していた眩しい光はなく、
 
 しんとした星明かりの闇があるばかりだった。倒れた時も夜だった。では、一体どれく
 
 らいこうして眠っていたのか。考えても仕方ない事を思っていると、脇腹の苦痛は相変
 
 わらずだが身体から熱が引いている事に気付いた。 
 
 

 のそのそと頼りない腹筋に力を込めて身を起こすと、その衣擦れの音が静けさを強調す
 
 るように部屋の中に響いた。天秤を震わすように静寂を揺らしたマッドの気配の後、急
 
 激に部屋の中の空気が変質した。はっとして視線を動かすと、隣のベッドから黒い影が
 
 立ち昇っている。



 みしり、と床を鳴らして近付く男に、マッドは声を上げようとして失敗した。しばらく
 
 の間使っていなかった声帯は掠れていて、唇もかさついている。数回唾を呑み、唇を舐
 
 めてから再び声を出すと、ようやくまともな声が出た。

 
 
「キッド…………。」

「………………。」



 ようやく出した声には、いつもと同じ沈黙が返されてきた。しかし行動は沈黙ではない。
 
 マッドの肩を掴んで、再びベッドへと戻そうとする。



「おい………放せよ。」

「まだ寝ていろ。」



 低い声には、有無を言わせぬ響きがあった。だがマッドは、その声と微かに込められた
 
 その腕の力に抗う。



「なんでてめぇの指図を受けなきゃならねぇんだよ。」

「そういう問題ではないだろう。」

「俺が大丈夫だっつってんだから、大丈夫なんだよ。」

「お前を見張っていろと言われている。」

「あんたに迷惑はかけねぇよ。」

「そうじゃない……………。」



 迷惑だとかそういうのではなくてと、ぶつぶつ言っている男にマッドは眉を顰めた。し
 
 かしサンダウンはマッドを解放しようとしない。



「俺は水を飲みに行く事もできねぇのか。」

「水なら、そこに。」



 サンダウンはサイドテーブルに置かれた水差しを見やり、そしてそれに手を伸ばす。そ
 
 の隙にマッドはサンダウンの手を掻い潜る。が、サンダウンの手が伸びてきて再び掴ま
 
 れる。闇の中で睨み合う賞金稼ぎと賞金首。無言の応酬に、先に眼を逸らしたのはマッ
 
 ドだった。



「…………ブレントは?」



 眼を逸らしたマッドの口から出てきた男の名前に、サンダウンが怪訝な顔をした。その
 
 気配に、マッドは薄く笑みを浮かべた。



「いや、もしかしてまだ教会に通いつめて、何か探してるんじゃねぇのかと思ってよ。」

「…………遺品をか?」

「それもあるだろうけどな。あいつの女にとって不都合なものとか、な。」



 俯きがちに笑うマッドの肩にサンダウンの手が回り、マッドの身体を支える。だがマッ
 
 ドはその腕から少し身体を浮かし、問い掛けた。



「クレイグとロッシュがいた部屋は、どうなった?」

「片付けた。」



 何も出て来なかったが、と答えるサンダウンに、マッドは笑って頷いた。
 
 

「ブレントは、真っ先に部屋に飛びこんでいかなかったか?」

「…………ウェインが片付けに入ったら、既に忍び込んでいた。」

「そうか。」



 可哀そうにな、と呟くと、怪訝な顔をされた。



「だってそうじゃねぇか。あいつはこの先、探してるものが見つかるまで、ずっと強迫観

 念に捕らわれるんだぜ?」

「…………何を、」



 探しているんだ、と問う男に、マッドはだるい腕を動かして肩に回された腕を外す。そ
 
 の腕は思いのほか、あっさりとマッドを解放した。マッドの傷の事を慮ってそうしたの
 
 かもしれない。



「多分、俺が持ってるんだ。」

「マッド……?」

「渡してやったほうがいいんだろうな。俺が持ってても意味がねぇし。」



 シーツの上を足を滑らせてベッドの下へと着地させると、サンダウンの腕が再びマッド
 
 の腕を捕えた。



「写真さ。」

「……………。」

「昔の女の、今現在の――いや、別れて間もない頃の、写真か。俺には何の価値もない。

 あの男や、女を脅す趣味もねぇしな。」

「渡しておいてやるから、お前は、」

「あんたが、他の奴が見たら、俺はあの男に一生恨まれるだろうな。」



 別にかまわねぇけど、と言いつつ両の脚を床につけると、腕を掴むサンダウンの手に力
 
 が加わった。その込められた熱を振り解くように身じろぎし、マッドは笑い含みの声で
 
 呟く。



「大体、あんたが俺の傷を心配する必要はねぇだろうが。誰に頼まれたのか知らねぇけど、

 それを聞く義理もないはずだぜ?俺にだってねぇし。」

「……………。」



 薄く揺らいだ僅かな光の中で、サンダウンの眼が物言いたげに瞬くのが見えた。その光
 
 の意図は分からなかったが、マッドは特に問い質さずに腹筋に力を込め、なんとか立ち
 
 上がる。しばらくの間使われていなかった腰は酷く弱っており、またいきなり身体に血
 
 が巡ったような感覚にくらりと目眩がした。だが、それを支えようというのか、伸びて
 
 きたサンダウンの手に、ふらつく足元をなんとか堪える。それをごまかすように、マッ
 
 ドは笑みを孕んだまま付け足した。



「それでも、そんなに気になるんなら、あんたがついてこればいいだけの話だろ。」
 








 それが、先刻までの話だった。そして再び教会の前に立ったマッドの後ろ隣りには、予
 
 想もしなかった事にサンダウンがいる。まさかついてくるとは思わなかった男に、マッ
 
 ドはしかし自分で妥協案を出した以上、咎める事も出来ずにいる。



「溶けたんだな。」



 教会の周りを見渡しながら誰に言うというわけでもなく呟くと、お前が眠っている間に、
 
 と返事が返ってきた。所々茶色の地肌が見え隠れし、白が逃げ場を探すように身を縮め
 
 ている荒野は、この男の気配が驚くほど濃い。その事に安堵している自分に舌打ちしつ
 
 つ、同時にそんな事はおくびにも出さずにマッドは教会の扉を開いた。そこは冷たくは
 
 あったが、皮膚を貼りつかせるような装飾を既に振り落としている。
 
 
 
 軋んだ音を立てて、けれども澱みなく開いた扉と底から差し込んだ月白に、壁に打ちつ
 
 けられている救世主の前に身を投げ出していた男が、はっとして振り返った。やつれ切
 
 ったその顔に、マッドも蒼褪めた顔にそれでも笑みを浮かべて対峙する。



「何か見つかったか、グリーンフォールド卿。」



 その呼び名に、ブレントは苦い顔をする。自分ではどうする事もできないくらい曲がり
 
 きってしまい、もはや矯正すらできない男は、マッドから眼を逸らして吐き捨てるよう
 
 に言った。



「なんだ?庇ったから礼を言えとでも言うのか?」

「お前から礼を言って貰うほど、俺は落ちぶれていない。」



 大貴族の名が泣く程、脹れっ面を曝したブレントに、マッドは苦笑する。



「お前に渡す物があっただけだ。」



 懐に手を入れ、一枚の紙切れを取り出す。変色してしまったそれは、しかし未だに鮮明
 
 にそこに何が描かれているのかを見てとる事が出来る。それは、オールブライトの楽譜
 
 に挟まっていた写真。胡乱な眼を向けていたブレントの眼がみるみるうちに大きく見開
 
 かれ、次の瞬間、大きく飛びかかった。



「っ、寄こせ!」

「いらねぇよ。」



 必死の形相のブレントに対し、マッドはまるで木の葉を散らすようにあっさりと写真を
 
 手放した。ひらひらと舞い落ちる写真を、床に這いつくばって受け止めるブレントに、
 
 マッドは貼りついたような笑みを浮かべるしかない。



「どんなに守ったって、その女はあんたのもとには戻ってこねぇぞ。」

「知っている、それでも!」

「分かってるよ、あんたは、そうやって生きていくしかねぇんだろ。」



 あられもない姿をした女の写真。それが、南北戦争によって斜陽していった音楽家一族
 
 の娘の末路だ。だが、そうやって写真として出回るほどに、彼女はのし上がってみせた。

 それを、父親やかつての恋人はどんな思いで見ているのか、そんな経験のないマッドに
 
 は分からない。



「どうして分からないんだ!」



 貴族の声で叫ぶブレントに、マッドは首を薄く横に振る。



「そんな指を残しているくせに!」



 細く長い指をブレントが突然掴んだ。血が抜けた所為でいっそう白いマッドの肌に、跡
 
 がつくほど。それを咎めるふうでもなく、ただマッドは短く指摘した。



「指なんか、ただの一部分じゃねぇか。そんなもんで何が決まるって言うんだ。」



 そしてその指は今や銃の引き金を引く事に特化している。



「行けよ、もう。何処にでも。」



 マッドはブレントの手を振り払う。その瞬間、まるで拒絶されたかのように、ブレント
 
 の眼に傷ついた色が走った。その上にマッドは言葉を重ねる。



「なんで俺に、そんな眼をするんだ。相手が違うだろうが。」



 愛していると叫ぶならば、女のもとに参じれば良いだけだろうに。言葉と共に、突き飛
 
 ばす。転ぶように這うように背を向ける男が何処にいくつもりなのか、それはマッドの
 
 知る事ではない。マッドの中には、やっと最後の厄介事が片付いたという思いしかない。

 ずるずると身体を何処かに凭れさせようとしていると、ずっと沈黙を保ってマッドのす
 
 る事を眺めていたサンダウンの手が伸びてきて、今度こそマッドを抱き止めた。



「おい……………。」



 その行為に眉根を寄せていると、サンダウンが夜の底を行くような声で囁いた。



「これで、全部か?」

「何が…………?」

「お前が黙っていた事だ。」



 見上げた先にあった青い双眸が、酷く硬い事に気がついた。もしや、この男は怒ってい
 
 るのか。だが、何に。怒りには気付いたが、その理由に思い至らないマッドは、思わず
 
 身を引こうとして失敗した。サンダウンのほうが早く掴んだマッドの腕に力を込めたの
 
 だ。



「これで気が済んだのか?」



 言葉と共に身体が宙に浮いた。直後に背中に感じたひんやりと硬い感触に、マッドは顔
 
 を強張らせた。指が触れた艶めかしい曲線。自分の身体が何に乗り上げているのかなど。



「キッド!」

「これで気が済んだんだろう。それならお前こそ、そんな眼をするな。」



 この男は、自分の何に気付いたのか。青い双眸に映った自分の顔は、酷く情けない。だ
 
 が、背中に押し当てられた黒い感触に、息が詰まりそうになる。サンダウンの言うとお
 
 り、壊れる為に気が済むように動いたはずなのに、身体の下に敷いた曲線が、まるで凌
 
 辱してしまったかのように苛んでくる。マッドは指がその身体に触れないように腕を上
 
 げ、サンダウンを押しのける事に専念させる。が、傷が癒えない身体ではとてもではな
 
 いが敵うはずがない。それどころか、腕を取り、黒い身体に押し付けようとさえする。



「指などただの一部だと言ったのはお前だろう。」

「止めろって!」



 何かの蓋が開く音が聞こえた。何の、なんて考えたくもない。けれどもサンダウンはマ
 
 ッドの腕を掴んだまま、その中身へと導いていく。目指すのは骨のように白い鍵盤。そ
 
 の意図に気付いて、マッドは血の気のない顔を更に白くさせた。
 
 
 
 どうか、それだけは、まだ。



「嫌だ!」



 悲鳴に近い声で叫ぶや、拘束はあっさりと外れた。だが、代わりに腕の中に引き寄せら
 
 れる。がくがくと拒絶反応のように身体を痙攣させていると、耳鳴りに支配されている
 
 耳朶に、サンダウンの声が飛び込んできた。



「あれだけの事をしても結局こうして過去の残像に捕らわれるのなら、お前は一体何故、

 奴らの為に傷ついた?」



 聞き逃してしまいそうなくらい早口で囁かれた言葉の意味をマッドが解するよりも早く、
 
 サンダウンはマッドの身体を抱え上げた。



「え………ちょっと………!」

「………………まだ冷える。戻るぞ。」

「自分で歩ける!」

「………………。」



 返されたのは沈黙だった。太ってはいないが長身のマッドをあっさりと抱え上げる男は、
 
 マッドの言葉など一向に聞く耳持たず、さっさと足早に礼拝堂を突っ切っていく。扉の
 
 前で一瞬立ち止まっその顔に、何か固いものが横切るのを、マッドは見た様な気がした。
 
 そして何事か口の中でのみ呟いたようだったが、それは結局聞こえない。

 黒い曲線を残して、扉は閉ざされた。