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 人の感情は一度傾けば一気に転がり落ちていくものだ。それが負の感情であればある程、
 
 その速度は速い。
 
 

 そう言って、男は虚ろに笑った。何もかもを見下したような暗い眼で笑う男は、しかし
 
 何よりも自分を卑下しているように見える。そんな男に対して、マッドならば或いは何
 
 らかの言葉をかけたかもしれない。元来面倒見が良い男は、自分が撃たれた事を差し引
 
 いても、きっと何か柔らかい言葉を見つけ出して、刺に包みながらも伝えようとしただ
 
 ろう。


 けれど、今、クレイグの眼の前にいるのはサンダウンであって、マッドではない。しか
 
 も今のサンダウンは、クレイグに対して寛容であれるほど、心が平静なわけではなかっ
 
 た。マッドは銃で撃たれてもクレイグに対して寛容であるのなら、サンダウンはマッド
 
 が銃で撃たれた事で内面をさざめかせている。
 
 

 その事に気付いているのかいないのか、それともそんな事はどうでも良いのか、クレイ
 
 グは引き攣れた様な笑みを浮かべるばかりだ。

 




 魔弾の射手












 雪に膝まで浸かりながら、サンダウンは町を混沌に陥れて高笑いをする気配を追いかけ
 
 る。雲一つない宇宙の果てまで見渡せそうなくらい透き通った夜空は黒々と美しいが、
 
 その下に真っ白に広がる大地は見ているだけで盲になりそうだ。
 
 

 それを見てサンダウンは、マッドが雪を見て浮かない顔をしていた理由が何となくだが
 
 分かった。寒々しく広がるだけの世界は、転じれば酷く空虚だ。その中に一人取り残さ
 
 れたなら、きっと呑み込まれる事は必至だろう。その事に、マッドは何よりも真っ先に
 
 気付いていたに違いない。


 そして、その白の中を風のように気配だけを残して移動するクレイグは、呑み込まれた
 
 者の一人なのだろう。日の光が当たる昼間よりも、夜――しかもこんな透き通った夜空
 
 の下ではなく、曇天の闇が似合う男は、嬉々として、だが、狡猾に身を隠しつつ銃を撃


ち払っている。


「……………。」



 サンダウンは、腐臭のする気配に、そっと近づいた。頭上高くに聳える空さえも憎んで
 
 いるかのように、口元を歪めて笑う姿は、彼の相棒であるロッシュよりもずっと危険な
 
 臭いがする。ロッシュが喚き立てる子供の暴力ならば、クレイグは何かが壊れてしまっ
 
 たそれだ。遊ぶように宿に銃を叩きこみ、時折気まぐれのように何処かその辺を撃つ。



 その立ち姿は、何処となくマッドにも似通ったものがあるが、気配は全くの逆方向を向
 
 いているのだ。そもそもマッドは、こんなふうに陰湿に狂った暴れ方はしないだろう。
 
 そんな、薄暗くじめっとした色の銃で、マッドを撃ち抜いたのか。
 
 

 その瞬間、クレイグが螺子が止まったかのように銃を撃つのを止めた。そして、ぎこち
 
 ない動きで首を回してサンダウンを見る。人形のようなその様子を裏切る事もなく、そ
 
 の眼も人形のように光がなかった。



「やっぱり、あんたがお出ましか…………。」

「………………。」



 黙ったままのサンダウンに、しかしクレイグは構わずに向き直る。人が集まる宿になど
 
 もう興味を失せたような様子からは、その心内を量る事は難しいし、サンダウンもそん
 
 な事に時間を割くつもりもない。だが、クレイグはそうではなかったようだ。



「あんたさえいなくなれば、あの宿の中身は烏合の衆だけになる。」



 知っているんだろう?と唇を吊り上げる男の眼が、唐突に光を浮かべた。しかしそれは
 
 マッドが持つものとは全く違う、汚泥のようなぬめりの光だった。



「人の感情は一度傾けば一気に転がり落ちていくものだ。それが負の感情であればある程、

 その速度は速い。」



 眉を顰めたサンダウンに、クレイグはいよいよ笑みを深くした。上っ面だけで心底楽し
 
 くて仕方ないという笑みを浮かべた彼は、毒を吐くように言った。



「今、あの宿の中に、冷静に物事を考えられる人間が、一体何人いると思う?あの、田舎

 の泥臭い奴らの中に。」



 かかと今にも大笑しそうな男は、真実などいくらでも捻じ曲げる事が出来ると言う。



「この雪の中訪れた人間は、悉く敵だと思っても仕方なくはないか?俺やロッシュや、神

 父の姿を真似た奴が、示し合わせてグリーンフォールド卿を陥れた。その必然を、偶然
 
 にまで感じ取る事だってできるだろう。それは即ち、不和の種だ。」



 あの劇団員を俺達の仲間だと思ってもおかしくない。その台詞に、サンダウンはいつか
 
 感じた事がある寒気を思い出した。それは確か、あの寒々しい世界で聞いた呪詛の声と
 
 同じで、遠い昔失望の声と共に投げ出されたものだ。



「内部からの不和ほど、簡単に人を滅ぼすものはない。あんたのいなくなったあの宿の中

 は、今頃修羅場だ。」



 言うや否やクレイグはサンダウンに銃口を向ける。



「おっと、あんたは此処にいて貰うぜ。此処で、俺と一緒に奴らが殺し合う様を見て貰う。

 くくっ、ああ、そんな簡単に殺し合いなんかしないって顔をしてるな。だが、劇団員は
 
 町の人間全員に喜んで迎え入れられたわけじゃない。一つ不和があるだけで、それは十


分に波紋になる。」

「………………違う。」



 サンダウンは、熱狂的に話して荒廃の臭いを撒き散らす男に、冷や水のような低い言葉
 
 を浴びせかけた。



「あ?」



 話の腰を折られたクレイグは、呆けたと言っても良い表情でサンダウンを見た。魂が抜
 
 け去ったかのような表情は不気味以外の何物でもないが、その顔にサンダウンは変わら


ぬ低い声で告げる。


「不和など関係ない。あの場所には、マッドがいる。」


 あの、何もかもを呑み込む、男が。きっと、不和の一つも残らず平らげ、何事もないよ
 
 うな表情を浮かべるだろう。転瞬、クレイグが弾かれたように笑いだした。哄笑と言っ
 
 ても過言ではない声は、硝子どうしを擦り合わせるような不快感を催す。



「ああ、そうさ!だから、あの男を何よりも真っ先に撃ち落としたんだ!」



 奴が一番邪魔になるのは眼に見えていたから。だから現に奴は倒れている。



「むろん、それだけじゃない。」



 笑いが収まるもの唐突だった。クレイグはぴたりと高い声を常に戻し、しかし厭らしい
 
 笑みはそのままで囁く。



「あの男を、撃ってみたかった。」



 広がった笑みは形容しがたいものだった。裂けた唇は人間のものとは思えず、その陰影
 
 がいっそう奇妙な表情を作り上げている。



「あの男を撃ってみたかったのさ。あの小奇麗な指を一本一本へし折って、切り落として

 売り飛ばしたら、さぞかし良い値がつくだろう。それであの男が絶望に打ちひしがれて
 
 泣き叫ぶ様をみてやりたいのさ。」



 あの男にとって、指は何物にも代え難い。それを俺は知っている。

 勝ち誇るようなクレイグは、サンダウンの心の琴線をへし折った事に気付いていないの
 
 だろうか。いや気付いている。気付いて、わざと言っている。



「あんたの首を、あの男の前に持っていってやるよ。それとも逆がいいか?いずれにせよ、

 お前が斃れる頃はあの男も斃れている!」



 お前達の絶望が見たいんだ。

 水を強請るように望むクレイグの眼は邪気がない。それがいっそう禍々しい。



「お前達の絶望を寄こせ!」



 この憎らしい世界でそれでも誇って生きるお前達が、地に落ちて絶望に喘ぐ姿が見たい。
 
 吠えるや、火を噴き上げた銃。夜の底で、火花が小さく飛び散った。死人以上に蒼褪め
 
 た顔をしたクレイグの唇だけが血を呑んだように赤くぎらついている。銃を撃つたびに、
 
 クレイグの笑みは深くなり、満たされる事のない渇きが湿り気を帯びていくようだ。



「…………。」



 だが、クレイグの無軌道な銃声は、無言の鉛玉一つによって黙らされた。かすり傷一つ
 
 ないサンダウンが無造作に持ち上げた腕に光る銀色が、主人と同じ静謐さで炎を上げた
 
 のだ。びしゃり、と音がしそうな勢いで、クレイグの頬から血が噴き上げた。ぱたぱた
 
 と白に落ちた赤に、クレイグは再び呆けたが、すぐに勢いを取り戻した。歓喜の声を上

 げて、銃を掲げる。



「そうか、相手をしてくれるっていうのか、サンダウン・キッド!」



 お前は、そうか、マッド・ドッグよりも、この俺の相手をしてくれるのか。あの、忌々
 
 しい小僧ではなく、この俺の。
 
 

 嬉々としてそう叫んだクレイグは、次の瞬間、いきなり膝から崩れ落ちた。ぼすっと音
 
 を立てて雪の中に跪く男は、眼を瞬かせていたが、やがてヒューヒューという喉に何か
 
 が詰まったような呼吸音を吐き出し始めた。その肩に重く圧し掛かるのは、色さえ識別

 ができない、どろりとした気配だ。透き通った夜空でさえ覆い尽くしてしまいそうなそ
 
 れは、何の躊躇いもなく、クレイグの首を締め上げている。口から泡を噴きかねないク

 レイグに、無情にも何かが近付く足音が聞こえてくる。



「絶望を寄こせ、と言ったな…………。」



 大きく広がった不吉な影に、クレイグは先程までの歓喜を忘れた。青く光る双眸には、
 
 些かの人間的な揺らぎが見当たらない。無機質なその眼差しは、人形どころかこの世の
 
 ものであるかさえも疑わしい風合いをしている。知らぬもの、分からぬものほど恐ろし
 
 いものはない。クレイグにとって、眼の前にいる者ほど理解できぬものはいなかった。

 それ故、これほどまでに恐ろしい。


「どうした………?所望していたものだ。飲み下してみせろ。」



 平坦な声に、はっきりと嗤笑が混じった。次の瞬間、耳元で鳴る轟音。そして耳に焼き
 
 鏝が押し当てられたかのような熱が広がった。耳を千切り飛ばされたのだ。呆けた顔に
 
 徐々に深まる怯えに、魔王は嗤った。今更怯えて見せたところで、もう遅い。突然ぐる
 
 りと身体を一回転させて必死に逃げ出す男に、サンダウンは無作為に銃を撃つ。当てる
 
 気などない遊びのそれに、けれどもクレイグは本気で逃げ出してく。それほどまでに、

 豹変したサンダウンの気配は、海の果てよりも深い。


「絶望が、見たいんだろう?」



 だから、見せてやっているのに。サンダウンの腹の底で牙を磨いている、魔王の姿を。
 
 なのにクレイグは先程までの威勢は何処へやら、暴漢に襲われる処女のように逃げ惑っ

 ている。


「来るな!」



 来るな来るな来るな!
 
 

 時折銃を乱射して、転ぶように逃げ惑う。大の男が、しかも先程まで歌うように悦にい
 
 ったように退廃的な台詞を吐いていたのに。所詮それは形だけか。この男の中にあった
 
 ものも、所詮はその程度の荒廃でしかないのだ。ああ、そんな矮小な口が、サンダウン
 
 の為の勇者を穢す言葉を吐いたのか。ならばその口に、この絶望を垂れ流してやろうか。
 
 

 ひいひいと情けない叫び声を上げるクレイグは、サンダウンの銃の音に怯えながら、それ
 
 でも絶望を打ち払うように光の当たる場所へと進んでいく。それは虫が炎に呼び寄せられ
 
 るよう。火の灯った扉に手をかけ、それでも最後の虚勢のつもりか笑みを浮かべて叫ぶ。



「ああそうだな。あんたの絶望は最高だ。だが、この中の人間を見殺しにしてまでその態度

 を貫けるか?」 



 不和に傷つき、抵抗する気力もない連中だ。あっと言う間にこの手に落ちる。浮かんだ
 
 笑みは何処までも卑屈で、矮小だ。歩みを止めたサンダウンに、蔑むような表情をやっ
 
 との事で浮かべてみせると、勝利の女神を掴み取ったかのように、銃を掲げて扉を蹴り

 破った。


「そんなに扉を蹴り叩いて、蒼褪めた死を気取ったつもりかよ?」



 鼓膜を打ったのは、笑い含みの秀麗な声。血の気のない脂汗を浮かべた顔の中で、それ
 
 でも笑みを湛えている姿に、クレイグは本気で虚を突かれたようだった。町の人々を左
 
 右に侍らせ、ゆったりと椅子に座って長い脚を優雅に組んだマッドは、その手の中で黒

 い厳めしい光を携えている。


「でも、てめぇが出来そこないの死神になりきる前に、魔王が背後まで迫っているぜ?」



 不和など欠片もない宿の内部をクレイグの肩越しに覗き見て、サンダウンはクレイグの
 
 背に銃口を合わせる。サンダウンの魔王の気配は、マッドに呑み込まれ宿の中にまでは
 
 入り込まない。クレイグだけが、魔王の獲物だ。



「神を試すものは罰を受ける。お前はその罰を受けるべきだ。」

 

 この荒野を支配する魔王の絶望を欲しいなどという身の程知らずの望みを持った。

 マッドの薄い唇が、悩ましげに微笑んだ。



 ―――さあ、地獄の門にかけて。

 

 同時に吐き出される銃声。

 口を開く暇さえ与えられなかったクレイグの背と胸から、羽根のように赤が迸った。