雪の言葉に良い印象はない。
 
 
 
 幼い頃、家族と共に雪を見に行った事はある。その時は何も感じなかったが、長じて――と言っても十歳になるかどうかだったが―
 
 ―ドナー隊の遭難の悲劇を聞いた時、不覚にも吐きそうになった。その頃から、雪が珍しい地方の子供の持つ、憧れのようなものは
 
 一瞬にして消えてしまった。あの頃から十年以上が経った今でも、雪の白さを喜ぶ事は出来そうにない。それほどまでに、子供の頃
 
 に聞いた話は心に残り、また、そんな感情がまだ自分に残っていたのかと驚く。



 白い闇と極限を越えた飢餓。  
 
 それを想像できる心が残っている事と、それを痛ましいと思う自分がまだいる事が、驚きだ。  
 
 
 そして、今、その白い闇に囲まれて崩れている自分がいる。愛馬の温もりだけに縋りながら、生きようと足掻く自分と、ここで死ぬ
 
 のかと妙に達観している自分がいる事に、マッドは小さく嗤った。



 流石にこんな死に方は想像していなかった、と。
 




 英雄達の帰還






 寝たら死ぬ。
 
 

 良くそんな言葉を聞くが、だとしたら自分は正にその状態なのだろう。ぼんやりとした頭でマッドはそう思った。吹雪の中、視界が
 
 白い斑紋に支配された瞬間、自分の命は死神に刈り取られたのか。天国も地獄も信じていないが――自分が行くのだとしたら地獄か
 
 ――まどろみの中で感じる温もりは、このまま懐いていたくなるほど心地よい。



 死んでいるのなら別にこのままでも良いんじゃないかとも思ったが、その心地良さの中で、妙に嗅ぎ慣れた匂いがするのだ。敢えて
 
 言うなら、紫煙の匂いが。地獄にも煙草や葉巻があるのかと馬鹿馬鹿しい事を考えて、その考えが所謂現実逃避だという事に思い至
 
 った時点で、マッドは仕方なく眼を覚ます事にした。



 ランプが灯り、仄かに明るい部屋。その光は、マッドの眼が物を見るという働きを成すには十分に明るかった。ぱかりと開いたマッ
 
 ドの眼は、己の状態を見つめるよりも先に、すぐ前にあった砂色の髪と髭と青い眼を認識した。マッドは数回瞬きを繰り返し、その
 
 顔を見つめる。



 心臓が一拍打つほどの時間が流れただろうか。



「ぎゃああああああっ!」

 

 白い闇の中から生還したマッドの第一声は、それだった。






「な、な、ななななんで、てめぇが此処に!?」


 簡素な部屋は普段自分が利用している安宿に良く似ていたが、降って湧いた砂色の髪を持つ男――サンダウンの顔が眼前に迫ってい

 るマッドには、周囲に気を配る余裕はない。マッドは脊髄反射と言ってもよい反応で、絶叫と共に眼の前にいる男から身を離そうと
 
 した。しかし、逃げを打った身体は、何故だかぴくりとも動かない。それもそのはず、マッドの身体はサンダウンの腕にがっちりと
 
 囲い込まれた上で、毛布を被せられているのだ。



 しかも服を着ていない。
 
 なんで?



 途方もなく考えられない事を想像しかけ、マッドは吐きそうになった。そんな事はあるわけないと――生々しいが自分の身体が――
 
 叫んでいるが、しかし朦朧としていたとはいえ、その腕の中でうっとりとしていた自分を信じる事は出来そうになかった。そういっ
 
 た自分の状態もひっくるめて、遠い眼をして現実逃避してしまいたい。何が起きたのかと問いただす事も恐ろしく、マッドはサンダ
 
 ウンから眼を逸らし、ひとまず手を放せというに留まった。
 
 

 呆気なく解かれた手の隙間から逃げるように、やたらと無駄に密着していた身体を急いで離す。しかしその瞬間、空いた身体と身体  
 の間に冷気が吹きこんだ。



 寒い。



 ぶるっと身を震わせたマッドは、たった今自分を解放し、そして何故だか一人毛布に包まっている男を見た。



「てめぇ、その毛布を寄こせ!」



 裸だ何だというのはもうなかった事にして、マッドはサンダウン一人を包み込んでいる毛布をぐいぐいと引っ張る。とにかく、寒い
 
 のだ。一秒だってこんな姿でいたくない。



 しかしサンダウンは毛布を渡そうとはしない。無言のまま、頑なに一人毛布に包まっている。くそ、無表情で渋い面してるんだった
 
 ら寒さくらいなんとでもなるだろうが。



 もはや言い掛かりとしか思えない事を考え始めたマッドに、サンダウンはその無表情な眼差しを向ける。



「…………毛布から出て行ったのはお前だろう。」

「男に抱かれてたら誰でも逃げるわ!」



 叫んで、マッドは先程までの己の状態を思い出し――というか眼を逸らしていた過去を見つめ直す羽目に陥り、悶絶しかけた。一人
 
 で騒がしくしているそんなマッドの様子を、毛布に包まって見ていたサンダウンは、煩悶している彼の傍に近寄ると、毛布を広げた。

 翼のように腕と毛布を広げると、シーツの上で悶えている身体を包み込む。 突然降りかかった大鷲のような影にぽかんとしたマッ
 
 ドは、身体を包んでいた冷気が温もりに取って代わった時、何が起きたのかに思い至るまでに少しの時間を要した。思い至った瞬間、
 
 正しくポカンと開いた口は、絶叫を生み出したわけだが。 



「ぎゃーーーっ!何しやがんだてめぇ!」
 
 
 
 屠殺される豚のような悲鳴を上げて身を捩るマッドに、サンダウンは溜め息を吐く。そんなサンダウンを蹴り飛ばす勢いで逃げよう
 
 とするマッドは、しかしぴったりとひっつく心地良い温もりに負けてしまいそうだ。皮膚が喜んで、身を委ねそうになる。ふるふる
 
 と首を振ってまどろみを振り払おうとしているマッドの耳元で、サンダウンは囁いた。



「暖房器具がない。」

「は?」

「毛布の数も限られている。」



 こんな雪は誰も想定していなかった、と続ける男に、マッドは捩っていた身体の動きを止め、怪訝な表情を浮かべる。

 一体何の話だ。



「だから、あとは自分達で何とかしてくれと言われた。」

「誰に?」

「アニーに。」



 短い返答に、マッドはようやく自分が何処にいるのかに思い至った。というかそこまで頭が回ったと言うべきか。
 
 

 5000ドルの賞金首であるサンダウンとそれを追いかける賞金稼ぎである自分を、いくらこんな天変地異が突き上げているような時で
 
 あっても、喜んで一つの部屋に突っ込む宿屋など、普通は、ない。後ろ黒い性癖のある人間を対象とした宿ならともかく、安宿とは
 
 いえ――売春宿であっても――面倒を抱え込むのはごめんだろう。にも拘らず、自分達を同じ部屋に入れても大丈夫だと判断する宿
 
 など、思いつく限り一つしかない。
 
 

 変に空回りしていたマッドの思考回路は、此処にきて正常に動き始めたようだ。そこに追い打ちをかけるようにサンダウンが、お前
 
 は荒野のど真ん中で雪に埋もれていたんだぞ、と言った。そうなるともはや乾いた笑みしかでない。



 つまり、これはあれか。自分は、狙っている賞金首に生き倒れているところを拾われた挙句、その賞金首の人肌で温められていたわ
 
 けか。



 色々と釈然としないものも感じるが、一通りは理解出来た。否定してやりたい事実ばかりではあったが。その思いを、マッドは容赦
 
 なく口にする。
 
 
 
「くそ、とんでもねぇ奴に借りが出来た………!」



 そのとんでもない奴に抱きかかえられている状態である事を忘れているのか、マッドは苦々しげに呟いた。マッドの中では、寒さ対
 
 策であるという理由があるのなら、この状況も仕方ないものとして処理されるようだ。しかし、釈然としないものの一つは、仕方な
 
 いという言葉で完全に処理されずにすんだらしい。眼の前の――このまま身を動かせばとんでもない状態になるくらい近くにある顔
 
 を睨みつけると、マッドは地を這うような声で尋ねた。



「それで、俺の服は?」



 いくら防寒対策とは言え、何も服を脱いで抱き合う必要はないはずだ。にも拘らず、何故自分達は裸なのか。ぎりぎりと人を射殺せ
 
 そうな視線で睨み上げると、サンダウンはそれをさらりと躱し、言った。



「濡れていたからな。」



 あの吹雪の中で埋もれていたマッドと、その中を駆け抜けたサンダウンと。 服を濡らさずに此処まで来る事は、至難の業どころか
 
 神でもなければ出来ない芸当だ。荷物の中にあった着替えも、ほとんどが濡れていた。だから着替えさせようにも出来なかったのだ、
 
 とぽつりぽつりと呟く男に、マッドは苦い声を出す。



「だったら、借りりゃいいじゃねぇか。」

「サイズがなかった。」



 マッドの切実な言葉を、サンダウンは一瞬に切り裂いた。上背のある二人と同じサイズの服を着るものは、この小さな町にはいない
 
 のだ、と。そうだったっけか、と思い巡らすマッドの記憶の中には、確かにサンダウンの言うとおり、自分より背の高い影はなかっ
 
 た。



「……服は乾かしてくれるとは言っていた。」

「あたりめぇだ。」



 行き倒れた人間の服も乾かしてくれないなんて、どんだけ鬼なんだ。

 なんだか物凄く疲れてしまったマッドの耳を、勢いよく開いたドアの音が劈いた。



「どうだい?眼が覚めたかい!?」



 歯切れの良い声が、ブルネットの髪と長いスカートを振るって部屋に入ってきた。ややきつめの顔立ちは、男二人が裸で抱き合って
 
 いる姿を見ても何一つ動じない。



「服、乾いたよ!食事の準備も出来てるから降りといで!」



 どんどんと添え付けのテーブルに景気良く置かれた各々の服に、男達は、どうも、と言うしかない。



「二人とも、顔色は良さそうだね!あとはお腹いっぱいになれば大丈夫さね!」



 豪快にそう言い放つと、嵐のようにスカートの裾を翻してウェイン夫人は階段を下りていく。その後姿に、サンダウンとマッドは思
 
 わず顔を見合わせ、どちらが先にと言うわけでもなく、服をのろのろと着こみ始めた。



 これが、雪の降り積もるサクセズタウンに英雄達が戻ってきた、その時だった。