凄まじい痛みで意識が浮上したのは、もう夜の事だった。だが同時に、その痛みで再び意識が朦朧
 
 とした。右の脇腹が、大天使の炎の槍で貫かれたように痛い。だらだらと肌を伝う汗は脂汗で、自
 
 分の状態が決して芳しくない事が分かる。だが、扉の向こう側で繰り返される言葉と沈黙と、そこ
 
 から広がる悪魔の気配が、堪らない。



 善良なる町の人々の気持ちが分からぬわけではない。彼らはきっと賭博師の沈黙など受け入れない
 
 だろう。だが、賭博師の気持ちも分からぬでもない。彼は、貴族としての最後の矜持を振り絞って、
 
 愛する女を守ろうとしているのだ。



 ああ、でも。



 悪魔の気配が濃い。今まで何処かに閉じ込められていたかのように大人しかった、荒野の悪魔が、
 
 その気配を声高に翻している。けれどその理由だけが、分からない。それでもそんな混沌とした状
 
 況を止める為に、萎えてしまいそうな両足と痛みに呻く右半身を引き摺って、半ばのた打ち回るよ
 
 うに扉へと近づく。こじ開けた扉は、何よりも重かった。






 夜の狩人達













 一番最初にぶつかったのは、僅かに見開かれた青い双眸だった。荒野の空と同じ色のそれが微かに
 
 見せた驚愕に、マッドはほんの少し痛みで萎えていた心が浮上した。この何事にも動じない男をほ
 
 んの少しでも揺るがす事が出来たのなら、それは快挙と言っていい。それから、廊下に集まったサ
 
 クセズ・タウンの住人に、マッドは笑みを浮かべる。そして全員が揃っている事に安堵を覚えた。

 誰一人として、まだ、欠けていない。



「あんまり、虐めてやるんじゃねぇよ。」



 てめぇらの言っている事は大体あってるんだから。
 
 

 そう言って、葉巻を取り出すと、横合いからアニーに掻っ攫われた。葉巻でも吸っていないと、痛
 
 みに全部持って行かれそうになるのだが。だが、その表情から見るに返してくれる気配はなさそう
 
 だ。仕方なく、こっそりと壁に凭れて口を開く事で意識を繋ぎとめる。背中に、夜のひんやりとし
 
 た冷たさが這った。しかし対照的に、廊下を満たしている気配は酷く暑苦しい。



「此処にいるグリーンフォールド卿を、偽神父とロッシュ、クレイグが脅していた理由は、あんたら

 も察している通り、この男の妻になる予定だった女――つまり、オールブライト家の娘に関する事
 
 さ。いや、多分、脅されていたのは寧ろ女のほうだったんじゃねぇかな。」



 ブレントは女に対する脅迫のネタを、より強固にするための布石だ。



「女がオールブライト家の人間である事を確固たるものにして、それをネタに脅す。これが、多分、

 奴らの計画だったんだろう。」

「でも、それこそ何の為に?脅すって言っても、オールブライトだって落ちぶれたんでしょ?」



 アニーの言葉に、ブレントが鋭い眼差しを向け、マッドは苦笑する。



「落ちぶれているとは限らねぇさ。オールブライトが落ちぶれてても、女自身は、もしかしたら、も

 っと裕福になってるかもしれねぇ。」

「だったら。」

「アニー。」



 マッドは、ブレントの憤死しそうな表情と、その理由に思い至る事ができないアニーの間に割り込
 
 む。それは、貴族にしか分からぬ悩み。



「自分が貴族だったって事を、隠したがる奴だっているんだ。」



 だからマッドは、ブレントの女が今何をしているのか、察してはいても決して語らない。それに、
 
 今はそんな事よりも。



「考えないといけねぇ事が、あるだろうが。」



 廊下に集まったサクセズ・タウンの住人と、劇団員達を見回す。それから、サンダウンを――とい
 
 うかこのおっさんまで忘れているわけじゃあるまいな。



「クレイグが、まだ、いるんだろうが。」


 
 この場にいる人間が、誰一人として欠けていない事に安堵した理由が、それだ。それとも、自分が
 
 気絶している間に、サンダウンが撃ち取ったのか。だが、そう思ったのは一瞬の事で、保安官が、
 
 あっという顔をした事で、まだクレイグがいる事が分かる。



「あの後、見てねぇんだろ?」



 自分を撃った、あの後。それから姿を見ていないのだとすれば。けれどもこの雪の中、逃げるとい
 
 うことは難しい。ならば、まだ、この町の何処かに潜んでいる。



「捜しに行って捕まえなくては!」

「止めとけって。」



 慌てて外へ向かおうとする保安官を、マッドは気だるげな声で止める。本当なら大声で一喝してや
 
 りたいが、今の体力を考えると、それをした瞬間、痛みで悶絶する事は間違いない。



「いいか、クレイグの奴は銃を持ってる。しかもその腕はブレントなんかよりもずっと上だぜ。」



 そしてそれ以上に、クレイグは狡猾だ。はっきりと言ってしまえば、田舎の保安官なんぞが勝てる
 
 わけがない。その気になれば、町の人間を一人ずつ嬲り殺しにしかねない男だ。



「でも、でも!」



 幼い声が高く空気を打った。



「でも、おじちゃんがいるから、大丈夫だよね!」



 ビリーが、信頼感に満ちた表情でサンダウンを見上げた。そこには子供特有の、無邪気な光が灯っ
 
 ている。それに付随するように、大人達もサンダウンを見つめる。不安と、期待が入り混じった視
 
 線に射抜かれ、それでも動じない男はしばらく無言だったが、



「………ああ。」



 あまりにもあっさりと請け負った。その瞬間に、ほっとした溜め息が辺りに広がる。良かった、こ
 
 れで大丈夫だ。そのさざめきを呆気にとられて見つめ、マッドは慌ててサンダウンに詰め寄った。



「おい、何をそんな安請け合いしてんだよ。」



 本当ならば詰め寄って胸倉を掴んでやりたいところだか、動く事はおろか怒鳴る事も辛い。だが、
 
 それでも言わずにはいられない。



「あんた、クレイグがどんな人間か知らねぇってわけじゃねぇよな?」



 たった一人の賞金首を殺す為に、宿の鍋に毒を盛ったとさえ言われる男だ。この夜の闇の中、何を
 
 仕掛けているのか分からない。だが、サンダウンは答えない。代わりにマッドの腕を恐ろしい勢い
 
 で引いた。唐突すぎるのと、身体に力が入らない所為で、マッドは呆気なくつんのめりそうになっ
 
 た。その脇の下に、サンダウンの腕が滑り込み、そのまま抱え上げられる。その衝撃で痛みのあま
 
 り呻きそうになったが、そうじゃなくて。



「お、おい、何すっ………うぐ!」



 いとも容易く持ち上げられて、思わず叫ぶと案の定、痛みで悶絶した。いや悶絶なんて可愛いもの
 
 ではない。意識が飛びそうだ。だが、サンダウンはといえば、そんなマッドの様子に頓着せずに、
 
 マッドを部屋の中に押し込み、器用に足で扉を閉じた。途端に消える喧騒。呆然としているマッド
 
 を余所に、サンダウンは先程までマッドを繋ぎとめていたベッドに近寄った。そしてその上にマッ
 
 ドを降ろす。その様は、酷く手早く、けれども硝子細工を扱うような丁寧さが込められている。



「何考えてんだよ、てめぇは。」



 色々と問い質したい事はあったが、何から聞いたら良いのか分からないので、とりあえず色んな問
 
 いを含有している問いを吐く。すると、爆発間近の爆弾のような、何事もなさそうでありながら実
 
 は物騒な顔で、サンダウンはマッドを見下ろした。そして、マッドの問いに問い返す。



「何、とは?」

「っ、そのまんまの意味だよ。クレイグを倒すなんて安請け合いした事とか。」

「放っておくわけにもいかないだろう。」

「そんな生易しい理由じゃねぇだろう。」



 今にも放たれそうな銃弾と同じ気配をしているくせに。そう言うと、サンダウンの眼がほんの少し
 
 細くなった。そして、ベッドに腰掛けていたマッドの身体を押し倒す。



「大人しくしていろ………動けるような状態ではないはずだ。」

「うるせぇよ。」

「怒鳴れないお前とやり合うつもりはない。」



 さっきから、ずっと平坦な口調で話している事に、やはり気付かれていた。もしかしたら、喉の奥
 
 に血の味が溢れかえっている事も気付かれているのかもしれない。だが、それを無視して、マッド
 
 は今にもせり上がってきそうな熱い塊を呑み込む。その様子に、痛みを耐えていると思ったのだろ
 
 うか、サンダウンの声が、いつもよりほんの僅かだが穏やかに振ってきた。



「眠れ。」

「やなこった。」



 マッドはさっくりと切り返す。



「こんな時に眠れるかよ。」

「私が…………。」

「あんたは。」



 サンダウンの言葉を遮って、マッドは告げる。



「あんたは、あいつらの側にいないといけねぇだろうが。クレイグを始末するって言ったのは、あん

 ただぜ。俺の側になんかいる暇は、ねぇだろう。」



 あいつは、来るぜ。



「あいつはな、闇打ちが得意なんだよ。暗がりに潜むのが、好きなんだ。それは、ロッシュと組む前

 からずっとだ。それで、自分が一人きりになっても、周りが敵だらけでも、自分が間違ってるだな
 
 んて思わねぇ。死ぬ時は周りも巻き込まないと気がすまねぇんだよ。」



 だから、きっと、この夜に乗じて、やってくる。雪の中、逃げ場がない中、この町を赤に染めるつ
 
 もりだ。そして一人残るつもりだ。



 それと同時に、銃声が聞こえた。咄嗟にサンダウンごと床に転げ落ちた頭上に、壊れた窓硝子の欠
 
 片が降り注ぐ。だがそんなものを気にしている余裕がないほど、急に動いた所為で脇腹が痛い。し
 
 かしそんな悠長な事をしている暇もない。



「………さっさと行けよ。」



 物騒な気配を濃くして、けれどもマッドの身体を気遣う素振りを見せる男に、マッドは殊更素気無
 
 く言った。その背後で、狂ったように銃が吠えている。ランプが弾け飛び、部屋に闇の手が広がっ
 
 た。



「始末するって言った以上、きっちり止め刺してこいよ。俺は、あんたが勝手にした約束の事まで、

 知らねぇぜ。」

「……一つ訊く。」



 マッドから身を引きながら、サンダウンが問うた。暗がりの中で光る青に、マッドは億劫そうに黒
 
 い眼差しを向ける。



「お前は、あの男の事も知っているのか?」

「知らねぇよ。」



 何処かで再び窓硝子が割れる音がして、それがマッドの声に重なった。わっと喧騒が溢れ出す。悲
 
 鳴と慌てふためく足音が、ひっきりなしに聞こえてくる。



「俺は、あの男が賞金稼ぎだった頃からの事しか知らねぇ。」



 また、銃声が聞こえた。放っておいたら、この宿に人が集まっているのを良い事に、焼き打ちでも
 
 始めるかもしれない。



「さっさと行ってきてやれよ。てめぇで決めた事なんだから、てめぇで何とかしやがれ。」

「………………。」



 微かに青い双眸が頷いたような気がした。転瞬、その背の高い身体が持っているであろう体重を感
 
 じさせないくらい素早く翻り、擦り切れたポンチョが僅かな残像を残して消える。サンダウンが消
 
 えた扉を、銃声を耳に受けつつしばらく眺めやって、マッドは大きく息を吐いた。その瞬間込み上
 
 げる胸を焼くような熱い焦がれに、息が詰まりそうになった。



 本当のところを言えばこのまま床に倒れ伏してしまいたいが、そんな甘ったれた事を言っている場
 
 合ではない。クレイグ一人ならば、サンダウン一人で十分だとは思うのだが、そんな簡単には話は
 
 進まないだろう。物事の瓦解は、総じて内部から起こるものだ。それを止めている暇は、サンダウ
 
 ンにはないだろう。ぞわぞわと沸き立つ荒野の悪魔の気配に、マッドは嘆息する。白い雪に閉ざさ
 
 れていた狩りの魔王の眼が覚める。狩りを楽しむ魔王に、人間の機微を悟れというのは、愚かな話
 
 だ。



 魔王の気配とは別の、人間同士の熱から生まれる不穏な気配に、マッドはずるずると立ち上がった。

 今この時、蔓延る悪魔を調停するのがあの男の役目だというのなら、人間どもの不和を纏めるのは
 
 マッドだろう。



 背後で再び、銃弾が唸り声を上げた。それを聞かぬ振りをして、マッドは銃を必要としない狩場へ
 
 と向かった。