繊細な手が、何の準備もなく霜の張った扉に手を這わせる。そんな事をすれば、皮膚が貼りつくの
 
 は眼に見えているだろうに。けれど、そんな事にはお構いなしに、白い指が同じくらい白く霞んだ
 
 鋼鉄の金具に絡む。
 
 

 ゆっくりと慎重に開かれた扉からは、積もった雪が降り落ちる音と、軋んだ音が産み落とされた。
 
 だが、そこからは予想された埃っぽい臭いはしない。漂うのは冷たい水の臭いばかりだ。積もった
 
 雪の中にあらゆる過去の匂いが沈みこんでしまったかのようだ。



 小さく開いた隙間から薄暗い教会の中に、一筋の光が貫く。それを踏みしめるように、マッドは無
 
 造作に扉から手を離し、教会の中に入っていった。白い指の間から、懸念していた通りに赤い滴が
 
 浮かんだのが見えて、サンダウンは眉を顰めた。







 悪魔の讃美歌













「あんたは、二階を見てこいよ。」



 まるで誰にも聞かせたくない秘密の話をするかのように、マッドは囁いた。その言葉に、サンダウ
 
 ンは何を言っているのかと思う。二階を見る必要などないだろう。誰が何処にいるのか、すでに気
 
 配で分かるのに、わざわざ誰もいない二階へ行く必要などないではないか。それとも、まさか気配
 
 に気づかないとでも言うつもりか。すると、マッドは酷く不機嫌そうな顔を見せた。



「あんたがいると、逃げちまうだろうが。」



 ほんの少し膨れっ面をした賞金稼ぎに、お前がいても逃げるだろうと思う。サンダウンを見て逃げ
 
 るのなら、マッドを見ても反応は同じだ。だが、マッドは首を振る。それが、お前には分からない
 
 と言われているようで、微かな苛立ちを覚える。まるで、マッドが自分の立ち位置は此処ではない
 
 と言っているようだ。しかしマッドは、サンダウンの無表情の裏にある機微になど気付かない。



「とにかく、姿が見えないような場所に隠れてろよ。ばれたら逃げられちまうぜ。」



 逃げられてどっかの家に立て籠られたら面倒だろ。
 
 

 逃げようとしているのはお前ではないのか。腹の底で湧き上がった言葉は、しかし口にすればどう
 
 なるか分からない。決然とした色を浮かべて宿の二階から降りてきた時、雪に降り込められた日か
 
 らずっと続いているマッドの危うい何かが、今本気で爆ぜようとしていると感じた。何か一つでも
 
 間違えば、全部壊れてしまう。そうならないようにと、その身を引き止めた。きっと、普段の荒野
 
 でならばそんな事はしなかった。けれど、今は白く塗り潰されている。その白の中に奪われてしま
 
 うではないかという埒もない考えを打ち消す為に、こうしてついてきたというのに、当のマッドは
 
 サンダウンがその現場に居合わせる事を拒む。



 そもそも、サンダウンはマッドが今から何をするつもりなのか知らない。此処に消え失せた賭博師
 
 がいる事は、気配からも明白に分かっている。しかし、それで何をするつもりなのか。賭博師を捕
 
 えるつもりなのか他に何かあるのか。だが、普段からお喋りな男は肝心な部分は何一つ話さない。

 ただ、サンダウンを隅へと追いやって、自分は恐ろしいほど綺麗な感情に欠ける表情を浮かべて、
 
 教会の奥へと進んでいく。古びて褐色に変色した赤い絨毯の上を歩き、祈りを捧げる祭壇の更に奥
 
 を見据えて。



 仕方なく崩れかけた戸棚の影に身を潜め――よくよく考えてみれば、マッドの言う事を聞く必要な
 
 どないのだが――細い影が壁に打ち付けられた救世主の下に行く様は、今何か邪魔をすれば粉々に
 
 砕けそうな雰囲気を漂わせている。それは、獲物を見つけた賞金稼ぎというよりも、悪魔に立ち向
 
 かう騎士のようだ。その後ろ姿に何か不吉なものを感じたけれど、それを理由にサンダウンが動く
 
 よりも早く、マッドの声がミサの為にほんの少し清掃された礼拝堂に響く。



「そんな所で何をしているんだ、ブレント・アール・グリーンフォールド卿。」



 いっそ、冷徹とさえ思えるくらい完璧な発音。それに、はっきりと教会で蠢いていた気配が震えた。
 
 その気配さえ踏み潰すように、マッドは暗がりに潜む静かな影に視線を固定した。それは、薄汚れ
 
 て曇っているが、艶めかしい曲線と黒い外骨格を保っている。その前にいるのは、やつれた様な顔
 
 をした賭博師だ。



「神の家に勝手に上がり込んで、金目のものでも探してるのか?落ちぶれたとはいえ、南部の大貴族

 が?」

「先に家探しをしたのは君のほうだったと思うんだが。」



 マッドが教会から楽譜を持ち帰った事を揶揄しているのだろうが、マッドはブレントの台詞など一
 
 向に介さない。むしろ、それを話を進める切欠とさえ思ったようだ。



「ああそうだな。グリーンフォールド卿、あの楽譜こそ、あんたが探しているものの一つだったんだ

 ろうな。」



 だってあの楽譜は、オールブライト家の本当に個人的な遺産の一つだったんだから。
 
 
 
 笑い含みの声で、けだるげにさえ見えるほど優美な仕草で絶妙の角度で首を傾げた男は、無頓着に
 
 過去を暴く。



「故オールブライト卿の遺産の中には、彼の息女に関するものがあるのかもしれないからな。あんた

 の妻になる予定だった、女の。」



 それは、親族と、彼らと親しいものしか知らなかったという、まだ公にされていなかった婚姻の話。
 
 それをマッドが知っている理由は、考える必要もない。マッドも明確に説明する気はないようだ。
 
 自分の知っている事だけを、自分には絡めずに語っていく。



「グリーンフォールド家とオールブライト家には、内々だったけれど婚姻が交わされていた。けれど、

 それは戦争のごたごたで取り消されてしまった。オールブライト家が分断され、凋落した事が一番
 
 の原因だろうな。」



 音楽で身を立てる家が、戦後生きていくのは難しい。だが、それでも。



「あんたは、オールブライトの名前を捜してたわけか。」

「君は、誰だ。」



 賭博師の眼に、貴族特有の傲慢な光が見え隠れする。命令の意図を存分に孕んだ問いに、マッドは
 
 低く笑った。



「俺の事なんか、どうだっていいんだよ。」

「良くはない。」



 ぴしゃりと放つやつれた男は、それでも大貴族であった当時の威圧感を噴き上げ始めた。典雅で優
 
 美で傲慢で、けれども退廃的な気配が満ち溢れる。



「あの婚姻を知る者はほとんどいない。そしてその者達のほとんどは、戦争で凋落していった。そし

 て彼らは貧困ゆえに友であった俺に脅しをかけるようにさえなった。」



 ぞわぞわと染み出る殺気。サンダウンは顔を顰め、出ていくべきかと考える。だが、マッドは出て
 
 くる事を拒んでいる。マッドも殺気には気付いているから問題はないだろうが、しかし。



「俺も、そんな脅しをかけるような連中の一人だと?」

「そうでなければ、落ちぶれた大貴族に声をかける必要はないだろう?何よりも、図ったかのように

 この教会で楽譜を見つけてきた。普通の人間ならば打ち捨てるような紙屑を、だ。疑うなと言うほ
 
 うが無理な話だ。」

「――――ああ、そうだな。確かにあんたの妻となる予定だった女は、脅迫のネタになる。」

「…………貴様!」



 ぶわっと噴き上げた怒りと共に跳ね上げられた銃口に、しかしマッドは微笑んでさえいるようだ。
 
 サンダウンのいる場所からはマッドの顔は見えないが、それが良く分かる。自身を取り囲む殺気
 
 に気付いて尚、笑って迎え撃とうとしているのだ。



「…………Melius frangi quam flecti.」



 笑い含みの声は、けれども、その底辺には信じられないくらいの真剣さが横たわっていた。事実、
 
 その台詞を吐いた瞬間、マッドの気配も濃くなる。



「何度も言わせるな、グリーンフォールド卿。俺はお前やお前の友と同じように曲がって生きるくら

 いなら、壊れるほうを選ぶ。」



 ぞっとするくらい冷たいマッドの声は、ブレントのそれよりも遥かに優美で典雅で傲慢で、しかし
 
 冷徹だ。その冷徹さそのままの動きで、雷鳴のように早く引き抜かれたバントラインは、礼拝堂の
 
 更に奥に通じる扉を打ち砕いた。



「こいつらなんかと、一緒にするんじゃねぇよ。」



 砕かれた扉の隙間から覗く顔は二つ。ロッシュと、そのロッシュの手によって何処かに連れされら
 
 れたはずの神父。一瞬で露わになった殺気のもとに、マッドはいつもの賞金稼ぎとしての獲物を見
 
 つけた時の獰猛な笑みを浮かべる。



「本当に、もっと早く気付くべきだった。」



 神父には似つかわしくない厳めしい銃を手にした男に、マッドは吐き捨てた。



「あんたが、オールブライトと友人でも何でもない事に。本当にオールブライトと友人だったなら、

 あの楽譜が、故オールブライト卿本人のものじゃねぇ事を知ってたはずだからな。」



 偉大なる音楽家であるオールブライト卿が、あんな子供の練習曲ばっかり集めた曲を、わざわざ楽
 
 譜を見ながら弾いたりしない。マッドにしか分からぬ理論に、ロッシュも神父も顔を顰めるばかり
 
 だ。



「あれは、オールブライトの娘のものだ。だから、後生大事に持ってたんだろうよ。あんたはそれを

 知らなかった。」



 だってあんたは友人でも何でもないんだから。



「で、てめぇらはいつから手を組んでるんだ?ミサを行った後か?それとも、神父、てめぇが来て直

 ぐか?それとも、もっと前からか?」



 例えば、ロッシュとクレイグがブレントを追い始めた時から?
 
 

 その問いの答えはロッシュの哄笑だった。ひぃひぃと腹を抱えるロッシュは、その笑いの合間合間
 
 に言葉を紡ぐ。



「ああ、流石だ!流石は西部一の賞金稼ぎだ!なあ、貴族育ちの賞金稼ぎ様!てめぇでなきゃ、そこ

 まで分からなかっただろうよ!俺でさえほとんど理解できてねぇのに、あんた良く分かったよ!」

「黙れ、馬鹿者。」



 ロッシュを窘めたのは神父だ。喪服のような黒い服に身を包んだ男は、あの柔和な顔は何処へやら、
 
 酷薄な顔をしてマッドを見やる。



「だが確かにロッシュの言うとおり、大した情報もないのにそこまで考え切れたこと、褒めてやろう。」

「嬉しくねぇな。」



 面倒臭そうに呟くと、マッドは銃を持っていないほうの手を伸ばし、ブレントの首根っこを掴むと
 
 自分の背後へと押しやった。その動作に呆気に取られたのはブレントだけでなく、ロッシュも神父
 
 もだ。いや、サンダウンも呆けた。



「てめぇ、そいつを庇うのか。」

「同郷の誼か、それは。」

「いや、正直この男がどうなろうが俺には知ったこっちゃねぇんだが。」



 口々に言う二人に、マッドは馬鹿にしきった声で告げる。



「それ以上にてめぇらが気にくわねぇ。」



 落ちぶれた貴族を自身の背で隠し、らしいといえばらしい台詞を吐くマッドは、普段と変わりない。
 
 という事は気付いているはずだ。殺気が、眼の前にいる二つだけでない事に。



 狙われている。

 教会の外から。

 逃げ出すには、間に合わない。

 いや、それ以前に狙われているのは。



 マッドの銃口が吠えるのと、その身体が飛び退ってブレントを庇うのはほぼ同時だった。そしてそ
 
 れに被さった銃声は二つ。うち一つはロッシュの手を打ち抜いている。それはサンダウンが放った
 
 銃声。マッドが投じた銃弾は神父の肩を噛み砕いている。では、残る最後の銃声は。



 雪をびっしりと張り付けた窓硝子が、外部からの圧力で一気に粉々に砕ける。高い澄んだ音を立て
 
 て床に落ちる中にいるのは、突き抜けて黒い髪。その身体から、一瞬噴き上げた赤に今度こそサン
 
 ダウンは呆けた。



 何故避けなかった。弾道くらい見極めれたはずなのに。ああそうではない。その弾道の先に大貴族
 
 が転がっているから、避けられなかったのか。



 一瞬で事情が呑み込めた頃には、燦然とばら撒かれた硝子の破片の中にマッドが蹲っている。そこ
 
 に間髪入れずに入った呻き声混じりの言葉は、苦々しい。



「このガキ……調子に乗りやがって………。」



 司祭服を纏うにはあまりにも粗野な言葉を吐いた男は、肩からだらだらと血を流しながら、その血
 
 以上にどす黒い声を出す。



「ちょうどいい、こいつもブレントと一緒に連れて行こう。こいつなら、身体の部分だけでも十分に

 値がつくだろう。」



 クレイグが来たら、こいつを連れて逃げるぞ。そんな事を吐く神父は、本気で気付いていないらし
 
 い。脇腹を押えて蹲るマッドの背後で立ち昇る気配に。マッドは気付いている。だから、床に血を
 
 滴らせながらも笑っているのだ。サンダウンの気配が爆ぜそうなくらいに膨れ上がっている事に気
 
 付いている。



「魔の猟師が………狩りをしている………。その音を聞いたものは……全て、逃げ失せる。」



 掠れた声で途切れ途切れに囁くマッドの言葉に、ロッシュと神父がびくりとした。ああ、やっと気
 
 付いたのか。だが、もう遅い。お前達は何を撃って、そして何を言ったのか分かっているのか。眼
 
 が合った。崩れたマッドの身体の向こう側で、荒野が雪に覆われている事を良い事に傍若無人に振
 
 舞っていた罪人が、後退る。もう遅い。



「神を試したものは、罰を受ける…………。」



 その神が、堕ちた神であっても。
 
 

 銃を慌てて取り出すロッシュと逃げを打つ神父と。赤く広がったマッドの血が、やけに映える。も
 
 う遅い。懺悔しても、遅すぎる。窓の外にいるクレイグも間に合わない。



 ―――ザミエル!ザミエル!



 マッドがそう小さく呟いたのを合図に、もう一度銃声が轟いた。