一つ一つの事は覚えているのに、全体としては覚えていない。自分の奇妙な記憶能力に、腹立たし
 
 ささえ覚える。全てを一つの絵として覚えていたのなら、神父が来た朝、いや、それよりももっと
 
 前――教会であの楽譜を見つけた時に、何もかもが分かっていたに違いない。それが出来なかった
 
 のは、単に自分が過去を断片にする事で、そこから眼を逸らしていたからだ。



 無論、過去を繋ぎ合わせて一つの絵が出来上がったから、それで何がどうなるかは今の時点では分
 
 からない。何が起きたところで、それが自分に降りかかる火の粉と化すかも分からない。だが、少
 
 なくとも、この町に漂う火薬にも似た一触即発の香りに苛立つ前に、さっさと消し去る事が出来た
 
 はずだ。



 この、荒野には似つかわしくない、白い悪魔共を。



 立ち込めるその臭いに顔を顰めながら、マッドは遅すぎるかもしれないが、悪魔を祓うために動き
 
 始めた。






 魔王の封印












 宛がわれた部屋に放り出していたコートを引っ掴み、マッドはもどかしげにそれに手を通す。ふわ
 
 ふわと漂っていた過去の残像と現実で感じていた違和感の間を繋ぐものについて、ある程度の推測
 
 が成り立つと、マッドはいそいそと出かける準備を始めた。そっと腰に帯びた銃に手を伸ばすと、
 
 ひんやりとした感触が指を濡らす。



 正直なところ、放っておいても良いのではないかとも思う。このまま、最悪死人が出たとしても、
 
 それは自分には関係のない事だろう。かつて南部人だった人間の諍いに、今更マッドが加わる必要
 
 もない。
 
 
 
 しかし、マッドが止めねば誰も真相に近づけないだろうとも思う。この町の人間に――西部の人間
 
 に、南部の人間関係を、しかも過去の事を知る事は困難だろう。



 ――分かってて止めなかった事がばれたら、何を言われるか分かったもんじゃないしな。



 心の中で自分に言い聞かすように告げて、マッドは部屋から出る。



 実を言えば、マッドにも分かっているのだ。思い出した以上、そこから逃げられない事は。ずるず
 
 ると隠して眼を背けてきた過去の残像が、この雪の中で浮き彫りになった時から、これ以上暗い掃
 
 き溜めの中に放り込んでおく事は出来なくなった。今、刈り取らねば、きっと自分も彼らのように
 
 捻じ曲がって生きるだろう。



 ――曲がるくらいなら壊れたほうがいい。



 広がる荒野を踏みしめた時から、ずっとそう言い聞かせてきた。



 壊れてやろう。

 その残滓さえ分からないくらい、粉々に。

 狂って狂って、血みどろで、自分で自分の腸を引き千切るくらいに、壊れてやろう。

 その為にも、この荒野に似つかわしくない白い悪魔を切り捨てねばならない。



 紀元の頃から荒野には悪魔が棲みつくものだが、この白い悪魔は荒野にいるべきものではない。荒
 
 野に棲む悪魔は人の欲に付け込んで破滅を誘う、救世主さえも唆した、貪欲で荒々しいものだ。間
 
 違っても、過去の残像を見せ、人を縛り上げ、停止させたりはしない。



 此処にいるべき悪魔は、傲慢なルシフェルでも怠惰なベルフェゴールでもなく、ひたすらに貪欲に
 
 命を刈り取るザミエルだ。



 ぎしりと軋んだ音を立てて、マッドは階段を降りる。建てつけが悪いのか、それとも砂の侵食に耐
 
 えられないのか、きしきしと高い音を立てる階段の途中で、自分を見上げるサンダウンと眼が合っ
 
 た。今まさに階段を上がろうとしていた男の脇を通り過ぎようとした時、



「…………何処に行く?」



 思いもよらなかった事に、声を掛けられた。普段、不必要なくらいに声を発しない男が、マッドの
 
 なす事になど微塵も興味を見せない男が、唐突に割りこんできた。想定外の事に思わず立ち止まる
 
 と、青い静かな双眸の奥に真剣な色が見え隠れしている。
 
 
 
 一瞬、言葉に詰まっていると、サンダウンはそんなマッドを一瞥して一言、待っていろとだけ告げ
 
 ると、足早に階段を上がっていった。



 その、待っていろ、は俺に言ったのか。



 疑問を投げかける暇さえ与えられず、背中を呆然として見送るマッドの耳に、くすくすという小さ
 
 な笑い声が聞こえてきた。



「何を吹き込んだ?」



 毒婦のように何か秘密を孕んだ麗しい女に、マッドは薄い剃刀のような鋭さを小さく含ませて尋ね
 
 た。これまでの態度をひっくり返すようなマッドの声音を、貴族の空気さえ演じきる旅芸人は、ひ
 
 らりと躱してのけた。



「何も。ただ、貴方が感じている事を推測して話してみただけ。」



 リリーの声に、マッドは表情のない顔で、そうか、と短く答えた。リリーが何を推測したのかは知
 
 らないけれど、サンダウンはこの町を覆う空気に気付かぬはずがないだろう。尤も、それはサンダ
 
 ウンの行動の理由を完全に説明するには至らない。だが、リリーの言った言葉は、男の琴線に触れ
 
 たのだ。



「貴方は、何をするつもり?」

「ルシファーとベルフェゴールを追い払うだけさ。」

「そこに私達は含まれるのかしら?」



 嘆きの川の名を持つ私達一座は?



 恐らく、マッドの意図するところなど半分も理解していないだろう。しかし、それでもマッドの吐
 
 いた言葉に上辺だけでも乗りかかってくるところは、それは彼女が役者だからか。マッドは、ザミ
 
 エルの封印の一端を解いた女に、ゆっくりと向き直った。美しい女は、確かに魔王を呼び起こす為
 
 の生贄には十分かもしれないが。



「………サタンとリリスとリリン共には興味ねぇよ。」



 そして、ルシファーとベルフェゴールを撃ち殺す現場に、ザミエルは必要ないだろう。



 マッドは口の中だけでそう呟いて、宿の扉へと向かう。サンダウンを待つ必要も、義理もない。



 いや、そうではない。

 白の悪魔と対峙する己など、誰にも見て欲しくない。

 きっとその時の自分は、神話に出てくる如何なる英雄の足元にも及ばない顔をしているだろうから。

 ましてや、サンダウンにだけは、決して。
 


 だが、そう思ったその背中に、すっと切り込まれるような気配が覆い被さってきた。砂塵混じりの
 
 良く知った気配が、今までにない鋭さでマッドの足を掬い、喉元に忍び寄る。あまりの圧迫感にぐ
 
 らりと足元が揺れそうになって、なんとか踏みとどまっていると、その隙に足音が近づいてくる。

 ぞわぞわと、白の悪魔達に追いやられていた荒野の魔王が、膨れ上がってくる。



 まだ、完全に封印は解かれていないのに。



 視界の端に映った擦り切れたポンチョに、あんたそれで寒くねぇのか、と本気でどうでも良い事を
 
 思った。



「行くぞ、マッド…………。」



 かつてこの町を訪れた時、夜明けの襲撃を迎え撃つ時に、確か同じ事を言われた。けれど、それに
 
 対する答えも心境も、今のマッドは同じではない。
 


 なんで俺があんたと一緒に行かなきゃなんねぇんだよ。



 勝手に宿の扉を開けているサンダウンに、思わずそう突っ込みかけたが、口から出たのはもっと別
 
 の突っ込みだった。



「あんた、俺が何処に行くか、知ってるわけ?」