その日、サクセズ・タウンには、数年ぶりに聖歌が木霊した。
 
 
 
 聖書を口ずさみ、祈りの言葉を事あるごとに囁く事はあっても、一堂に集まって、神に対する歌を
 
 紡ぐ事はなかったに違いない。最後の町の神父が亡くなってからの、この町の変遷を思えば、神へ
 
 の祈りなど失った理由も理解できる。
 
 

 ゴールド・ラッシュが過ぎ去った後の物資の激減、それに伴い打ち切られていく支援の数々、正義
 
 の鉄鎚からも見放されたのならば、後は飢えた野獣の餌になるだけだ。きっと、神への祈りなど掃
 
 いて捨てるほどあっただろうが、それらは悉く地に落ちて届かなかった。
 
 

 そうして、いつの間にか祈る事など止めてしまうのだ。

 ミサの声を遠くで聞き流しながら、マッドは漂う空々しい空気に眉を顰めた。






 祈りの日











「ミサを行っても宜しいでしょうか?」



 唐突に現れた、かつてこの町にいた神父の友人だと言う彼は、そう言った。同じく神に仕える身で
 
 ある彼にしてみれば、神の家たる教会が寂れたままである事は耐えられない事だったのかもしれな
 
 い。マッドが渡した友の形見である楽譜を丹念に見終えた後、何か決意を秘めた眼していた。
 
 

 突然の申し出に町の人々がとまいどいながらも頷くや、神父は司祭服の裾を翻し、いそいそと雪が
 
 積もる外へと出ていった。
 
 
 
 それから数時間後、祈りの言葉を人々は久しぶりに口にしたのだ。
 
 
 
 その声を遠くで聞きながら、マッドは腑に落ちない何かが、一体何なのかを考えていた。今朝、神
 
 父が現れてから所々で引っ掛かっている『何か』。それは遠い過去を思い出せば解けるような、酷
 
 くもどかしい形をしている。



 突然現れた神父。

 その口から出た南部の旧家『オールブライト』の名前。

 それがかつてこの町の教会の神父だったと言う事。

 その神父には子供がいた。

 そして隠されるようにピアノの中に落とされた楽譜。



 そしてもう一つ。ミサに、賭博師が参加した理由が、腑に落ちない。とてもではないが、自分と同
 
 じでミサになど興味がないと思っていたのだが。神父の話を聞いた瞬間に蒼褪めた男の顔に、何か
 
 が分かったような気がしたのだが。脳裏を横切ったそれは、忽ちのうちに幼い記憶の中へと戻って
 
 しまった。

 
 
 つまりそれは、西部で生きる賞金稼ぎマッド・ドッグには必要のない記憶と言う事だ。普段ならば
 
 捨て置いてしまうはずのそれ。だが、今はそれが無性に気になった。賞金稼ぎとしての本能と、幼
 
 い自分が今の状態に対して警鐘を鳴らしている。



 オールブライト。

 名門貴族の名前。

 音楽に秀でた家系。
 
 聞いたのは、きっと、今はもうない、あの家の何処かで。

 いつ、何処で、何の話をしていた時に聞いたのか。



「マッド。」



 不意に、低い声が耳朶を打った。顔を上げると、乾いた空気を纏う男が立っていた。ミサに出払っ
 
 て誰もいない宿のカウンターには、マッドとサンダウンしかいない。



「なんだよ、あんた、ミサにはいかねぇのか。」

「…………。」



 返事はなかったが、今此処にいる事が問いに対する答えなのだろう。そもそも聞いてみたものの、
 
 マッド自身ミサに行っていないのだから、人の事は言えないが。第一、神に懺悔したとしても、
 
 自分が地獄に落ちる事は日を見るよりも明らかだ。それは、きっとサンダウンも同じなのだろう。

 名を呼んだ以外は沈黙を保つ男に、マッドは小さく首を竦めてみせる。



「ま、俺も行かねぇけどよ。聖書やら讃美歌やら、そんなもんを読むよりも、こっちを読むほうがい

 い。」



 組んだ長い脚の上で開いた本を示してやると、サンダウンの無表情が微かに動いた。それが顔を顰
 
 めたのだと分かる人間は、きっとそれほど多くないだろう。そして、何が言いたいのかを分かる人
 
 間に至っては、ほとんどいないのかもしれない。その、ほとんどいない中に入っているマッドは、
 
 小さく笑みを浮かべた。



「ま、確かに好きじゃねぇんだけどよ、この話。」



 それはファビアンから借りたままになっている、魔弾の射手の原文だ。それを確かにこの男に向か
 
 って、あまり好きな話ではないと言ったが、別に顔を顰めるほどの事でもないと思う。



「ファビアンとリリーがこの前舞台でやってた場面があっただろ?狩りの悪魔ザミエルが登場する場

 面さ。あそこは、好きなんだよ。」



 恋人の手を振り払い、愚かにも神を欺く者の甘言を聞き入れる若者。恋人を手に入れる為とはいえ、
 
 到底共感できない若者の前に、嘲笑うように現れる狩りの魔王の登場する様が好きなのだ。恋人同
 
 士の不安や葛藤、彼らを引き裂こうとする友人の裏切りなどよりも、台詞はほとんどないのに圧倒
 
 的な存在感を植え付ける悪魔に惹かれるあたり、自分はおかしいのかもしれない。



 その言葉に、サンダウンがいよいよ顔を顰めた。確かに常人ならば理解できないだろう。だが、恋
 
 人を得る為の最終手段を神に祈るなどという、一番不確かなものに手を出した男には、残念ながら
 
 マッドは興味を惹かれない。むしろ最後まで揺るがなかった悪魔のほうが。



「ま、好みは人それぞれさ。外国じゃこの歌劇は人気みたいだし。」



 そう言ってから、マッドはつと口を閉ざした。その瞬間にひらりと瞬いたのは、微かな人のざわめ
 
 きだ。薄暗い劇場にはオレンジ色の光が灯り、香水や化粧の匂いに混じって、葉巻の匂いが漂って
 
 いる。これは、いつの記憶だっただろう。



『近々、両家の間で婚姻が交わされるそうだ。』



 不意に飛び込んできた声は、過去の幻だ。だって、この柔らかな南部訛りの声は、もう亡き人のも
 
 のだ。そこに被さる幼い声が。


『こんいん?』

『結婚式があるかもしれないって事さ。お前もいつか………。』



 不穏な色を帯び始めた声を、慌てて打ち消す。これ以上は聞いても無駄だ。そんな事よりも。



 両家の間で婚姻。

 どの家と、どの家が。

 あの夜は誰が主役だった。

 誰が主催者だった。

 主役はオールブライトの家の誰か。

 では、主催は。



「マッド。」

「あら、そう言えばいらっしゃらなかったわね。」



 再び名前を呼ぶだけの声に、甘やかな女性の声が被さった。同時に流れ込む香水の匂いは、娼婦が
 
 つけるそれよりもくどくなく、すっきりとしたものだ。その声に一瞬で現実に立ち返り、マッドは
 
 微笑んだ。



「よお、ミサに行ってたのか。物好きだな。」



 こんな寒い中あんなぼろい教会に良く行く、と言うと、彼女は深い笑みを見せた。



「それは貴方も同じ事でしょう?」



 以前此処にいた神父さんの形見を教会で見つけたのは貴方でしょう?



「用もないのに行く貴方のほうが上手だわ。」

「ああ、その通りかもな。」



 笑みを浮かべたまま、リリーの眼を探る。彼女は知っているのではないだろうか。この場でオール
 
 ブライトの名前が出てくる事による、奇妙なざわめきの理由を。



「オールブライトっていったら、あんたらも何か関係があるんじゃねぇのか?あの家は確か音楽家の

 家系だった。」

「残念だけど、付き合いはないわ。貴方が思うほど、私は貴族ではないのよ。」



 名前は知っているけれど、と言う彼女に、マッドは興味がなさそうに聞いた。



「あの家って、結局、戦争の後、分断されたんだよな?なんかその前に何処かの家と婚姻を結んだと

 か聞いたけれど。」

「知らないわ。」



 リリーはほんの少し困ったように首を振る。そして、まるで聞き分けのない子供にするような声で
 
 囁いた。



「言ったでしょう?私は貴族ではないの。婚姻の話も初めて聞いたわ。きっとそれは、まだ公にされ

 ていない、内々の話だったんじゃないかしら?付き合いのある、もしくは上層部だけで話がされる
 
 ような。」



 それはマッドの過去の属性が何処にあったのかが分かるような話。それをやんわりと指摘されて、
 
 マッドは笑みを声に孕ませる。



「さあ、どうだかな。ただの噂話かもしれねぇ。」



 するりと、これで話は終わりだ、と言うように矛先を引っ込めながら、マッドは思いを巡らせる。

 噂話でない事は、マッドが一番良く知っている。婚姻の話を口走ったのは、悪戯に噂話をするよう
 
 な人ではなかったから。だが、それ以降、結婚の話を聞かなかったのは、戦争の渦に巻き込まれた
 
 からか。



 オールブライトの名を冠した老いた神父。

 残された子供。

 この子供は今、一体いくつになったのだろう。

 そして、蒼褪めた男の顔。

 男の名前は。
 



 ドカン!
 



 あちこちで、てんでばらばらに明滅するそれらを繋ぎ合わせようとマッドが意識の海に沈み込んだ
 
 時、まるでその隙を見計らったかのように、激しい物音が響いた。宿の薄っぺらい扉を叩き壊す勢
 
 いで、黒い司祭服に身を包んだ小柄な影が、まろぶように床に転がり入ってきた。乱暴な空気を纏
 
 わりつかせて突然入ってきた神父に、マッドは思わず思考を中断させた。思考に割り込むような司
 
 祭服の黒に、猛々しい赤が混ざる。真っ赤なシャツを着たロッシュがやってきたのだ。



「てめぇ、俺に説教たぁ良い度胸じゃねぇか。」



 肩を怒らせる荒々しい男の声に、しかし神父はひるむ事なく言い募る。



「どれだけ肉体を傷つけても無駄です。肉体は滅びても魂は滅びない。生前の行いによりて神は裁き

 を下し、善き者が高みへ行くのです。貴方も悔い改めなさい。終末のその日が来る前に。」

「うるせぇな!」

「うるせぇのはてめぇだ!」



 振り上げた脚を、今まさに神父に振り降ろそうとしているロッシュに向かって、マッドは怒鳴り声
 
 と共に灰皿を投げつけた。それは回転をくわえつつ、見事なまでにロッシュの顔面に当たった。ぐ
 
 わん、という鈍い音と共にロッシュが仰け反る。鼻血を噴き上げなかったのが不思議なくらいだ。

 ロッシュのような男までがミサに言っていた事も不思議だが。流石にクレイグはいないようだ。



「神父さんよ、あんたも変な事言って煽るんじゃねぇよ。」



 いっそ歯の浮くような台詞のほうがましとまで思える馬鹿正直な言葉は、すれた人間にとっては神
 
 経を逆撫でするだけのものだ。これがクレイグだったなら容赦なく、しかも何の感慨もなく撃ち殺
 
 していただろう。ロッシュだったから、蹴り飛ばされるだけで済んだのだ。だが、神父は止めない。



「迷える子羊を導くのも我らの役目。」

「だったら自分の身くらい自分で守りな。」



 神父の言葉に鋭い違和感を感じながら、マッドは低く言い捨てる。何なのだろう、先程から感じる、
 
 この、薄っぺらい空気は。



「誰が羊だ、この野郎!」



 いちいち小さい事に突っかかるロッシュの手が、神父の胸元を掴む。小柄な神父の身体は、今にも
 
 宙に浮きそうなくらい、爪先脚立っている。



「おい………。」



 そのままずるずると引き摺って行こうとする男を見咎めて、組んでいた脚を解き、立ち上がろうと
 
 した時、思いもかけない強い力で引き止められた。



「マッド。」



 何事だと思うよりも前に、低い声が囁いた。振り返ると、サンダウンが無表情を貫いて、その手だ
 
 けがしっかりとマッドを掴んでいる。行くな、と。だが、その意図までは分からない。マッドがサ
 
 ンダウンに視線を向けている間に、ならず者と紙一重の賞金稼ぎは、薄い言葉しか語れない神父を
 
 連れ去ってしまう。



「てめぇ、なんだよ、さっきから。」



 マッドが考えこもうとするたびに邪魔をするかのように名前を呼んだり。まさか寂しいから構えと
 
 か言う気かこのおっさん。やや斜め方向にすっとんだ事を考えていると、サンダウンはマッドの不
 
 穏な想像を読み取ったわけではないだろうが、短く言った。



「放っておけ。」



 構う必要はない、と。その台詞に眉を顰める。



「なんでだよ。」

「銃を持っていた。」



 気付かなかったのか。視線でそう問われ、マッドはようやく神父が持っていた奇妙な違和感に気付
 
 いた。それは、神に仕える者にはあるまじき、刃物の切っ先のような鋭さ。一昔前の、十字軍が進
 
 軍していた時代ならともかく、司祭が銃剣の鋭さを持つ事などあるだろうか。確かに、この西部を
 
 渡り歩くのに銃はあるにこした事はないのだが、しかし銃を持つ神父などマッドは聞いた事がない。


 ならば――――。


 二人が出ていった後の扉から、宿を出払っていた人々が戻ってくる。ウェイン夫妻がいそいそと仕
 
 事に取り掛かり、劇団員達も思い思いに寛ぎ始める。その様子を、薄っぺらな神父の台詞を反芻し
 
 ながら、マッドはぼんやりと眺める。今度ばかりは、サンダウンも止めない。
 
 

 サンダウンは最初から分かっていたのだ。神父が現れたその日から。そこに漂う猟犬の眼差しに。

 それを見破れなかった事は悔しいが、しかし神父の属性が暴かれようとしている今、底にある何か
 
 が、マッドの記憶に引っ掛かろうとしている。
 
 
 
 そして、宿に戻ってきた人々を眺めて、ただ一人戻らない人間の名前をマッドは呟いた。



「ブレントは、何処に行きやがった………。」