荒れ狂う風の音が風呂場にまで聞こえる。夜も更けて、昼間は少しばかり大人しくなっていた白い
 
 悪魔が、再び嬉々として暴れ始めたのだ。しかも、その暴れ方はこれまでの比ではない。窓硝子を
 
 打ち破るのではないかと思うくらい、激しく甲高い声を上げて、家々を揺さぶっている。
 
 

 正に百鬼夜行の声とも言える風の声は、過去に知っている誰かの声が混ざっているように感じられ
 
 て、マッドの神経を掻き乱す。
 
 

 裏切りの罪悪感に苛まれ、狩りの悪魔であるザミエルの声に怯える狩人のように耳を塞ぎ、呼吸が
 
 出来なくなるくらい湯船に沈み込んだ。






 吹雪の夜の夢









 危なかった、と思う。
 
 
 
 酒場で襲いかかってきた言葉の群れは、マッドが決して持つまいと心に決めた言葉達だった。退廃
 
 的で屈折したそれらは、それを吐いた賭博師や賞金稼ぎにとっては誇りだったものかもしれない。



 貴族としての矜持。

 名門であることの名誉。



 南部の人間でそれを心の底辺に置いて生きる者は少なくない。どれだけ落ちても、その身に流れる
 
 血筋や培った教養を芯にして生きるのだ。それはそれで立派だろう。しかしそれは、きちんと頭を
 
 上げて生きる事が出来たならの話だ。



 ブレントやクレイグのように、曲折してしまった生は、マッドにしてみれば見苦しいだけだ。そん
 
 な事になるくらいなら、貴族としての矜持や矜持になど、縋りつきたくはない。自分の与り知らぬ
 
 ところでいつの間にか出来あがっていたそんなものよりも、何もない青空の下にある荒野での自由
 
 のほうが、価値がある。



 曲がるくらいなら、壊れたほうがいい。
 
 

 壊れて狂って、荒野を駆け巡る。この乾いた地を生きる場所とした時に、マッドはそう決めた。し
 
 かしそれでも、心の中に残る後ろめたさは、薄れない。



 ―――あんたに似た人間を、俺は見た事がある。



 クレイグの言葉に、脳天を揺さぶられたような気がした。あの場に座りこまずに、表情を崩さなか
 
 った事が不思議なくらいだ。



 それは誰だ、それはあの人なのか、今はどうしているのか、元気なのか、一人で生きているのか、
 
 誰か側にいるのか、恨んでいるか。



 一瞬で思い巡った誰にも言えない言葉達が、喉の奥底で痛いくらいに硬化した。表情こそ変えなか
 
 ったが、喉から血が噴き出すのではないかと思く程、固くごつごつとした痛みに泣きそうだった。

 それは永久結晶のように、今も喉の奥で叫ぶ瞬間を待っている。



 凍えた喉を抱えたまま、マッドはのろのろと湯船から上がった。身体は湯気を纏うくらいに温まっ
 
 たが、クレイグによって引き摺りだされた自分の内側で縮こまっていた言葉達が、芯から冷気を放
 
 っている。それに身震いしながらマッドは風呂場から出た。


 
 白い湯気と一都に、宛がわれた部屋に戻ると、そこではサンダウンが何やら古ぼけた本のような物
 
 を持って立ち尽くしていた。部屋に広がる男の気配と、部屋に入った瞬間に向けられた眼差しに、
 
 マッドは一瞬、膝から崩れ落ちそうなくらい身体が弛緩した。それが何に起因するものなのかとい
 
 う事には眼を瞑り、マッドは代わりにサンダウンが手にしている本に眼を向ける。それは、マッド
 
 が昼間教会に忍び込んだ時に持ち出した、楽譜だった。



「なんだよ、あんた、そんなもんに興味があったのか?」



 髪を拭きながら問い掛けると、サンダウンはマッドから視線を逸らし、テーブルの上に楽譜を置く。

 それ以上は特に言及しない男に、マッドは手放されたばかりの楽譜を取り上げて、今にも崩れそう
 
 なページを慎重に捲る。



「昔、この町にいた神父の持ち物らしいぜ。教会のピアノの中に落ちてた。なんでそんなとこに落ち

 たのかは分からねぇが。」



 案外、わざと落としたのかもな。



 マッドは楽譜に挟みこまれていた紙切れ――写真を思い出して、そう言った。その台詞にサンダウ
 
 ンが怪訝な表情を浮かべた事に気付き、苦笑する。



「神父だって人間だって事だよ。」



 楽譜に隠されるように挟みこまれていたのは、女の写真だった。しかも、ただの写真ではない。こ
 
 の町のマスターが隠し持っていたポスターのような、あられもない女の姿の写真だったのだ。聖職
 
 者としては禁忌に属するそれを隠してでも持っていた気持ちは、分からないでもないような気もす
 
 るが。
 
 

 苦笑いを浮かべながらベッドに腰掛け、マッドは茶色く変色した紙の上で音符が踊る様をなぞる。

 その意味する音を拾い上げる事が出来る自分の特性が、再び身体の芯に凍えを流し込んだ。鼓膜を
 
 震わせる事もせずに、それでも耳の奥ではっきりと彼女が奏でるピアノの音が幻聴のように木霊し
 
 ている。その音に合わせて今にも動き出せそうな指を握りつぶし、マッドは楽譜を閉じた。
 
 

 楽譜を閉じ、しかしそのまま、鼓膜よりも更に深い場所で響き続ける音に耳を傾けるマッドの背に、
 
 不意にサンダウンの声が落とされた。



「冷える。」



 ぎしり、と背後でベッドが軋んだ音に、マッドは我に返った。中央に敷かれた枕を境にした反対側
 
 に、サンダウンが腰を下ろしたのだ。



「寝たほうが良い。」



 断片的に零される言葉から推測するに、今日は一段と冷えるから湯冷めする前に寝たほうが良い、
 
 というところだろうか。だったらそう言えば良いのに、と思いながらも、マッドは楽譜から手を
 
 放して頷く。床に降ろしていた脚を拾い上げ、ベッドの中に滑り込ませると、すっと灯りが消え
 
 た。
 
 

 しかし訪れた闇は、闇と言うには酷く明るいものだった。窓から覗く空は、曇っているにも拘らず、
 
 月明かりがある夜よりも遥かに明るい。しん、と降り積もる雪が僅かな光さえも反射し、奇妙な静
 
 けさを孕んだ灯りを広げているのだ。落ちつかない静寂は、マッドの眠りを妨げる。眠りが訪れな
 
 い静寂は、思考回路を活性化させ、しかしその思考に着地点など与えてくれない。

 

 くるくると回転するのは、クレイグとブレントの言葉。それに対する己の抗いの為の言葉が思い浮
 
 かぶ。そしてそこから溢れだすのは、自由の為に置き去りにした人々への罪悪感。解決手段のない
 
 想いには、言い訳や謝罪の為の、あらゆる言葉が思い浮かぶが、けれども思い浮かべたところでど
 
 うしようもない。



 結局、一歩も前に進まない考え事は、マッドの気分を逆撫でして凍えさせるだけなのだ。それでも、
 
 止める事が出来ないのは、もはやマッドに負わされた業としか言いようがない。



 舞い落ちる雪の断片を数えながら、マッドは思う。もしかしたら、この天変地異と言っても過言で
 
 はない大雪は、自分を追い詰める為のものではないのか、と。マッドが望む青空を覆い隠し、マッ
 
 ドが犯した罪を思い出させる為に、彼女が雪を請うたのかもしれない。人が犯す裏切りの中でも、
 
 最も罪の重い裏切りを犯したマッドを裁く為に。



 彼女の繊細さを受け継いだ指を、シーツに突き立てる。せめて、彼女と別の色を受け継いでいたの
 
 なら、良かったのかもしれない。髪も眼も、声も指も、何故か彼女と同じ色をしている。西部には
 
 似つかわしくないと、何度も揶揄される色。それがこんなにも深い糸となるのならば、もう一人の
 
 彼の色を受け継げば良かったのに。
 
 
 
 言っても仕方ない事だとは分かっている。それでも、ここまで苛まれるのならば、思わずにはいら
 
 れない。



 シーツを握り締め、身体を強張らせてマッドは窓の下に蹲る闇を見つめる。その視界に、突然背後
 
 から伸びてきた手が入ってきた。ぎょっとする暇もなく、その手はシーツを握り締めていたマッド
 
 の手に重ねられる。その様に、ようやくマッドはぎょっとした。
 
 

 自分の背後から手を伸ばしてくる人間など、今この状況では一人しかいない。境界線として敷いて
 
 いたはずの枕を取り外し、勝手に侵攻してきたサンダウンは、あろう事かマッドを背後から抱き竦
 
 めているのだ。その光景をうっかり想像し、マッドは危うく目眩を起こしそうになった。



「おいっ!キッド、てめぇ寝ぼけてんのか!?」



 ぴったりと身体を密着させてくる男の普段の様を知っていれば、寝ぼける事など万が一にも有り得
 
 ないが、しかし今は平和ボケしているから、そんな事も起こりえるのかもしれない。というか、そ
 
 うであって欲しい。そうでなくては男に抱かれている自分の状況が、とてもではないが今度こそ受
 
 け入れられない。
 
 

 が、全く以て残念な事に、返ってきたサンダウンの言葉は短かったが、非常に落ち着いた声だった。



「寒いんだ。」

「知るかよ!俺は別に………!」



 寒くねぇ、と言いかけると、身体に回された腕に力が込められ、本気で抱き竦められる形になり、
 
 マッドは内心で、ひぃ、と叫んだ。



「嘘を吐くな。」

「な…………!」



 なんとか引き剥がし、侵攻を防ごうと暴れるマッドに、サンダウンの静かな声が降り注いだ。その
 
 言葉にマッドは思わずサンダウンを見上げる。すると、思いも掛けず近くにあった青い双眸にぶつ
 
 かって、声を失くした。



「寒いんだろう……?」

「あ…………。」



 回された腕から、じわりと広がる温もり。嗅ぎ慣れたアルコールの匂いも紫煙の匂いも、風呂に入
 
 った所為か薄れているが、しかしこんな湿度の高い雪の日であっても、その身が纏う荒野の乾いた
 
 風は変わらない。
 
 

 荒野の砂の色と同じ髪と、何よりも望む空と同じ色の眼に見下ろされて、マッドは身体の力を抜い
 
 た。



 認めたくはない。
 
 が、そう思わざるを得ない。
 
 酒場にいた時も、さっき風呂場から出た時も、そうだった。
 
 

 この男の気配を感じるたびに、過去の残像に引き摺り回されそうな自分が、今いる場所に戻って来
 
 る事が出来るのだ。まるで、この場所が、自分の場所であるという事を証明するかのように。



 乾いた空気が、雪灯りに沈みそうだった心を拾い上げ、包み込む。喉の奥で血を噴き上げる瞬間を
 
 待っていた言葉が、ゆっくりと解けていく。凍えも痛みも、溶けていく。
 
 

 あまりにも呆気なく消え去ったそれらと同じくらい、無駄に同じ場所を彷徨っていた思考回路にも
 
 終止符が打たれた。それは、普段でも感じられないくらい深いまどろみ。





 はみ出していた手が毛布の中に引き摺りこまれた感触を最後に、マッドは意識を手放した。