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 オレンジ色の光がほの暗い酒場の中にぼんやりと揺れている。その様子は、渋みの強い琥珀色の中
 
 で、その色を薄める氷のようだ。震える光の中で、酒場の中の何処に蹲っている闇よりも深い黒を
 
 した髪が、その毛先に光を受け止めてより一層色を濃くしていた。

 今にも爆ぜそうな気配は焦げ付きそうなくらい熱いが、しかしその眼に灯っている光は恐ろしく冷
 
 たい。浮かべた笑みも酷薄を通り越して、残酷だ。きゅっと笑みが吊り上がる。



「どんなに気取った台詞吐いても、もとには戻れねぇんだよ。」



 刑を言い渡す判事のように、マッドは冷然として宣告した。






 バベルの塔









 冷え冷えとした声に、微かな震えがあった事に、誰が気付いただろう。辛うじてサンダウンに聞こ
 
 えた震えは、賭博師の捻じれた声によって掻き消された。



「その通り、これは矜持さ。」



 カードから手を離し、ブレントはマッドと同じように冷然とした色を浮かべる。そこにあるのは先
 
 程までのやさぐれた賭博師ではなく、零落しても威厳を失わない貴族だ。



「俺には俺の矜持がある。それはこうしないと保てない酷く安っぽいものだが、それでも俺の矜持だ。」



 きっぱりと言い放った台詞に、しかしマッドは眉一つ動かさなかった。代わりに、ブレントが纏っ
 
 ていた紳士の気配がたちどころに消え去り、再び賭博師の仮面が現れる。いや寧ろ既にこちらが顔
 
 になっているのか。



「それにそれは君だって同じだろう?他の誰よりも過去の空気を漂わせている癖に、それを切り捨て

 るような事を言うのかい?」



 もはや紳士の欠片も残っていない男。
 
 なるほど、これがマッドの言う『曲がった人間のなれの果て』か。



「マッド・ドッグ。西部一の賞金稼ぎが、誰よりも西部から遠い色を持っているなんてね。そして君

 がそれに縛られている事を、俺は知っているよ。」



 ねっとりと絡みつく様子を見せ始めたブレントに、マッドが眉を顰めるのが見えた。その顔に、ブ
 
 レントは斧を振り降ろすかのように告げた。



「だってそうだろう?マッド・ドッグなんて通り名を使って生きてる時点で、君は過去に縛られてる

 のさ。」



 何も苛むものがないのなら本名を轟かせば良いじゃないか。
 
 

 しかしそれに対するマッドの顔には、一筋のひび割れもない。寧ろ笑ってさえいる。



「てめぇこそ、中途半端な偽名使ってんじゃねぇよ。もしかして、誰かに気付いて貰おうだなんて思

 ってんのか?」



 ブレントの言葉を弾き返したマッドの声は、弾丸の如く硬度を以ってブレントの顔面に叩きつけら
 
 れる。ひび割れるブレントの顔。だが、銃弾のようなマッドの声に、何処か壊れた様な響きがある
 
 事には誰も気づかない。



「確かにな………ブレント・グリーンと聞けば、知っている者ならばすぐに、名門グリーンフォール

 ドの長兄の名前を連想するだろうな。だが………。」



 危険すぎる色を点滅させている男の視線は、表情を失った賭博師ではなく、マッドを見据えている。

 ぎらついた瞳は、声が冷静で考え抜かれたものであるが故に、いっそう狂気を引き立てる。



「その事に気付いたあんたも、結局は同じ世界の人間という事だろう?」



 俺は知っている。



「あんたに似た人間を、俺は見た事がある。」



 ぐらぐらと揺れる地面のように不安定な声音が、クレイグの手の代わりにマッドの髪にねっとりと
 
 纏わりついた。それをマッドは振り払おうとはせずに、受け止めている。



「その、黒い髪と、眼は、あんたに生き写しだ。」

「黒い髪と眼なんざ、珍しくもねぇよ。」



 葉巻の煙と共にマッドは、クレイグを牽制する為の言葉を吐いた。クレイグと同じくらい退廃的
 
 な姿勢を見せながら、しかしクレイグにはない上品さを瞳に浮かべる。クレイグとマッドの間に、
 
 どうしようもなく深く引かれた線にクレイグは気付いたのか、更に執拗にマッドに声を伸ばす。



「その指は、そのへんから湧いて出たようなものじゃないな。その、声も。」



 蛇のようなクレイグの声が、マッドの銃を扱うには繊細すぎる指に絡みつくのが、はっきりと見え
 
 た。隙あらば、声にさえ絡みついて締め上げようとしている。誰も知らないマッドの過去に絡みつ
 
 いて、牙を突き立てようと、赤い舌をちらつかせている。



 だがマッドは、クレイグの牙に気付きながらも、その表情を変えない。冷然とした態度を一貫して
 
 貫き、退廃した矜持を持つ歪んだ彼らを見つめている。

 

 しかし、その様子はサンダウンから見れば、十分に常日頃の彼とは違うのだ。普段のマッドならば、
 
 此処まで全面的に氷のような表情を浮かべたりはしないだろう。もっと余裕に満ちた表情で、もっ
 
 と余裕のある気取った受け答えをするはずだ。それが今、防御と攻撃を前面に押し出した表情と言
 
 葉を見せている。それは、マッドが彼らの言葉を肯定している事を意味しているのではないだろう
 
 か。完全な攻撃と防御の裏に、微かな軋みを隠してはいないか。確かにクレイグ以上に危うい音が、
 
 マッドの何処からか聞こえてくる事に、サンダウンは気付いている。



 己を追いかける時とは全く異なる姿を見せる賞金稼ぎに、サンダウンは気配を濃くする事でその姿
 
 勢を揺さぶった。



 此処は、彼が持っている過去の世界ではないのだと。

 サンダウンの知らぬ言葉が横行する世界ではないのだと。



 マッドがいる世界には、サンダウンがいるはずだ。

 現に、此処にはサンダウンがいる。

 その事を忘れているわけではないだろう?



 剥き出しのサンダウンの気配に気づいたのだろうか―――気付かぬはずがない。

 マッドほど、サンダウンの気配を知る者はいないのだ。

 忘れる事だって、有り得ない。


 ぎしぎしと軋んでいたマッドの気配が、すっと震えを止めたのが、眼に見えた。まるで、酷い喘息
 
 が突然穏やかになったかのような変貌。不意に、葉巻を咥えた口元に皮肉げな笑みが浮かんだのを、
 
 サンダウンは眼の端で認めた。



「あんたも、この指と声がお気に入りかい、クレイグ?」



 瞳には、まだ、薄く冷ややかさが残っている。しかし、笑みは普段のもの。口調も気取った、けれ
 
 ど余裕に満ちた声。



「でも残念だったな。この指も声も、てめぇには、やれねぇんだよ。これは、キッドの為にあるもん

 だからな。」



 些か、語弊を生み出すような口調。だが、薄く刷いた笑みが、それがある種の言い回しである事を
 
 物語っている。そしてその言い回しが、マッドの様子が普段に戻り始めた事を示唆する。同時に、
 
 酒場の中に漂っていた温度を下げた空気も、徐々に上がり始めた。マッドが余裕を取り戻し、意識
 
 をクレイグ達以外にも拡散させた事で、何処かで縮こまっていた熱がそれに触発されて巡り始めた
 
 ようだ。



 主役が熱を帯びた事で、舞台にも温かみが戻ってきた。息を詰めていたマスターとアニーも、成り
 
 行きを見守っていた舞台役者も、ようやく呼吸が上手く出来るようになったようだ。安堵に満ちた
 
 気配がそこかしこから浮かび上がり、それは床に天井にと広がっていく。
 
 
 
 その中で笑みを湛えるマッドに、これ以上の攻撃は無駄だと悟ったのだろう。クレイグはぎらつい
 
 た眼のまま、低く短い笑いを吐き捨てると急に立ち上がり、テーブルに霧散したカードをそのまま
 
 に背を向けた。
 
 
 
 相棒のその様子に、ロッシュが慌てて席を立つ。誰にも噛みつかないところを見ると、ロッシュ自
 
 身が先程の空気に呑まれていたのだろし、そしてその事に言及する余裕もないのだろう。ウエスタ
 
 ン・ドアに手を掛け、風の冷たい外へと出ていくクレイグを追い、ロッシュも足音高く酒場から出
 
 ていく。 



 乱暴に開いたウエスタン・ドアから黒々とした闇が覗き、その闇の中に退廃的な魂が呑み込まれて
 
 いった。代わりに、一瞬の冷たく荒んだ風が流れ込む。



 湿気たそれに、マッドが小さく顔を顰めた。