最近のマッドは、とみにあちこち動き回るようになりました。
  柔らかい肉球の付いた脚で、よちよちと動き回る姿は傍目に見れば可愛らしいものですが、マッ
 ドの保護者を自認するサンダウンは、気が気ではありません。
  一つの部屋には収まらず、部屋から部屋へと移動するマッドを、サンダウンを追いかけて移動す
 る日々が続いています。
  マッドがそうやって動き回れば動き回るにつれて、マッドの我儘も酷くなっていきます。
  その我儘の、最たるものが散歩です。

 「おれも、おさんぽにいきたい!」

  予防注射も受けていないのにそう主張するマッドは、サンダウンが散歩に言っている間一人ぼっ
 ちになる事が気に入らないのです。
  マッドはまだ小さいから外に出してはやれないと知っているサンダウンも、マッドにうるうるの
 眼で見つめられ『きっどといっしょにいたい』と言われると、置いていく事に物凄く罪悪感を覚え
 ます。
  ですが、真にマッドの事を思うのなら、まだ散歩につれていくわけにはいかないのです。
  なので、サンダウンは今日も心を鬼にして、マッドの訴えを無視します。

 「駄目だ。一人で留守番をしていろ。」
 「ずるいぞ!おれもおさんぽしたい!」

  きっどのけち!と叫ぶマッドの眼はうるうるとして、今にも泣きそうです。その頬を舐めてやろ
 うと身を屈めると、マッドはうるうるのままサンダウンを避けました。初めてマッドに避けられて、
 サンダウンは少し傷つきました。
  今までマッドは、サンダウンに慣れてから、ずっとサンダウンに甘えていました。サンダウンの
 身体に身を擦り寄せ、ぶつけて、サンダウンの気を惹こうとしてきました。サンダウンが少しでも
 マッドを構えば、嬉しそうに尻尾を振っていたのです。
  そんなマッドが、サンダウンを少しでも拒絶するような素振りを見せた事は、サンダウンには少
 なからずともショックでした。
  ですが、ショックだったからといって、マッドを散歩に連れ出す事など出来るはずがありません。
 小さいマッドを散歩に連れて行けば、後悔する事は眼に見えているからです。
  結局、けち、と叫ぶマッドを宥められないまま、サンダウンは無言でそれに耐え続けるしかあり
 ませんでした。

  けれども、マッドは『けち!』と叫ぶだけの子犬ではなかったのです。

 「あれ?」

  散歩の時間になった時、ビリーが首を傾げました。

 「紐がないよ?どこに行ったんだろう?」

  散歩に行く時にサンダウンの首輪に必ず付けるリードが、何処にもなかったのです。
  リードは散歩の後、必ず同じ場所に片付けられます。それはサンダウンも知っていますし、朝の
 散歩の後、ビリーが同じところに片付けたのをサンダウンも見ていました。なので、ビリーが片付
 け忘れたり、別の場所に置いたりしたわけではありません。誰かが、何処か別の場所に持って行っ
 てしまったのです。
  けれども、ビリーもビリーのお父さんも、そんな事はしません。
  なので、サンダウンはビリーの言葉を聞いた瞬間に、ぴん、ときました。そして、いそいそと小
 さな黒い子犬を探しにいきます。
  のそのそと部屋から部屋を探し歩いていると、黒い子犬はよちよちと何かを引き摺って人目を避
 けるようにして歩いています。もしかしたら走っているのかもしれませんが、小さいマッドの動く
 姿は、サンダウンにしてみれば、ぽてぽてと歩いているようにしか見えません。
  そして、ぽてぽてと歩くマッドが引き摺っているのは、赤いリードです。

 「マッド。」

  低く唸って名前を呼ぶと、マッドがびくりと肩を震わせました。そして、先程よりも脚を速めて
 ぽてぽてと歩いていきます。サンダウンは、すぐさまそれを追いかけました。
  けれど、小さな見た目以上に賢いマッドは、小さい自分の利点を良く理解していました。身体の
 大きなサンダウンには入れない、戸棚と戸棚の小さな隙間の中に滑り込んでしまったのです。

 「マッド!」

  埃っぽい隙間に潜り込んで、その奥で身を丸めてしまったマッドを見て、サンダウンは少し声を
 荒げました。マッドが滑り込んだ隙間は、サンダウンには鼻先までしか入らず、マッドには届かな
 いのです。
  ですが、マッドはサンダウンの声に顔を上げる事もせず、リードを抱え込んでいます。
  小さいけれども賢いマッドは、サンダウンが散歩に行く時にそれをしているのを見て、それがな
 ければサンダウンが散歩に行けないと理解したのでしょう。だから、こんな強行に及んだのです。

 「マッド、出てくるんだ。」
 「いやだ。」

  でていったら、きっどはおさんぽにいっちゃうじゃないか。
  狭い隙間の奥で、マッドはそう言います。

 「きっどはおさんぽにいきたいから、これをかえせっていうんだ。おれのことなんか、どうでもい
  いんだ。」
 「私は、リードを返せなんて言っていない。」
 「でも、おれがここからでていったら、これをとりあげて、おさんぽにいくんだ。」

    狭い隙間の薄暗い中で、少しだけマッドの眼が見えました。きらっと光る眼が、潤んで見えるの
 は、気の所為ではないでしょう。潤むマッドを優しく舐めてやるのはサンダウンの役目なのですが、
 マッドが手の届かないところにいる以上、それは出来ません。
  きゅうきゅうと今にも泣き出しそうなマッドを、どう説得しようかと考えたサンダウンは、考え
 考え、言葉を口にします。

 「マッド……散歩は私の仕事だ。」

  うるうるのマッドの耳が、ぴく、と動いたような気がしました。

 「私が散歩に行かなくては、ビリーが叱られてしまう。ビリーが叱られないようにする為にも、私
  は散歩に行かなくてはならない。」

  けれどもお前は子供だから、とサンダウンは続けます。

 「お前は子供だから、仕事の事を考える必要はないんだ。散歩なんかいかず、遊んでいればいい。」
 「でも、おれは、そとであそびたいんだ。」
 「もう少ししたら、庭で遊ばせてやる。それまで、我慢するんだ。」
 「やっぱりけちだ!」

  きゃうんと吠えたマッドに、サンダウンはこれ以上は話しても無駄だと判断しました。素早く前
 脚を隙間に突っ込むと、マッドを引き摺り出します。

 「きゅっ!?」

  突然引き摺り出されたマッドは、あえなく日の下に曝され、思わず声をあげました。その隙に、
 サンダウンはマッドからリードを奪い取ります。そして、埃だらけになったマッドを見下ろして、
 黒い毛に纏わりついた白い毛玉を払ってやります。
  マッドが十分に綺麗になったところで、マッドを一舐めして囁きます。

    「良い子にして待っていろ。」

  そう言い置いて、サンダウンはリードをビリーの所に持って行きました。
  それを見送るマッドは、再びうるうるになりながら呟きます。

    「きっどのばか。」

     くすん、と鼻を啜り、マッドはケージの中に入り、毛布に顔を埋めました。