坂本の屋敷を辞したマッドは、夜風が妙に生温い事に顔を顰めた。
  何処からか吹いてくる風が、生温い上に、どこか生臭い。
  嫌な予感がする、と虫の知らせなど特に信じてもいないのだが、マッドは眉を顰めたまま坂本の
 屋敷から、元の炎魔忍軍のいる屋敷へと続く道を踏み締めていた。
  正直なところ、坂本の理論がマッドにとって好ましくないから、夜風一つについてもそんなふう
 に思うだけなのかもしれない。
  だが、人間の持つ憎しみをオディオ憑きと称して東の山に押し込め、最終的にはそれらを東の山
 ごと削り取っていくというやり方は、一見すれば理に適っているように見えるが、マッドの中では
 何か引っかかるものがあったのだ。
  そうする事で本当にオディオ憑きが綺麗さっぱりなくなるのかという疑問ではなく、ただ心底か
 ら怖気が走るような、生理的に相容れないものを感じたのだ。それ以外にも、あの龍を追い出して、
 それっきり放ったらかしにしていたという事にも、反発は覚えたのだが。
  だが、オディオに怯え、また己もオディオになるのではないかと恐れる者にとっては、坂本の申
 し出は渡りに船だったのだろう。船、というか藁にも思えるのだが、溺れているものにとっては、
 それでも十分だった。
  いや、それとも、オディオ憑きの可能性がある自分自身をああして屋敷に匿ってくれている事が
 忠誠を誓うに値する行為なのかもしれない。
  マッドにはさっぱり分からないが。
  オディオを――憎しみをそれ程に恐れる理由も。
  唐突に、鋭い悲鳴が耳を劈いた。
  むっつりと押し黙っていたマッドは、その声が、しかし一度きりではなく徐々に広がっているの
 を聞き取り顔を上げる。
  振り仰げば、衛士が焚いている篝火が夜の縁を焦がしているのが見えたが、その火の粉が大きく
 揺らいだのが分かった。劈く悲鳴にか、それとも瓦屋根を飛び退った影によってか。
  悲鳴が上がった方角からは、火の粉が一際大きく舞い起こり、篝火がぐらついて今にも倒れそう
 になっているのが見える。屋根の上を移動する影が、どうやら薙ぎ倒しかけたらしい。目まぐるし
 く動く頭上の陰に、マッドはそこに鬱金の閃きがある事に気づいていた。

 「魔王だーーー!」

  男達の声に、衛士達の槍が天を向き、女達が鉄砲を取り出す。
  鬱金の輝きは、そんな人間達の声など届いていないのか、何かを探すように屋根の上を駆け抜け
 ていた。瓦屋根を叩く音は、その間、全く途切れない。
  マッドは篝火に閃く鬱金の髪を見て、やはり、と思う。
  あの煌めきは、サモとユンを助けた時に見たものではないか。濃紺の機体の傍に侍っていた、何
 処からどう見ても、ただの人間にしか見えなかった若者。
  それが今、抜身の刃を握り締め、瓦屋根の上を駆け巡っている。
  ただ若いだけの男に向けて、炎魔忍軍は槍を掲げ、鉄砲を向け、今にも撃ち落さんとしているの
 だ。たった一人の若者に向けて、これだけの大勢の人間が。
  マッドが顰めていた顔を、ますます苦々しげに歪めていると、準備が整ったのだろう、鉄砲が火
 を噴いた。
  悲鳴よりも耳を引き裂く轟音は、しかし一発では終わらない。何度も何度も若者目掛けて撃ち放
 たれ、若者が駆け去った後を追って瓦を火花と共に打ち砕く。
  一撃でも当たれば、もしかしたら死ぬかもしれないのに。
  魔王と言う名前を付けて、東の山をオディオに憑かれていると称するように、そのまま削ぎ落と
 すつもりだろうか。そうして、全てがなかった事になるとでも言うのだろうか。

 「おのれ、ちょこまかと!」

  おぼろ丸が一向に当たらぬ鉄砲に業を煮やしたのか、背に負っていた刀を抜き放った。
  小柄な少年は、ひらりという音が立ちそうなほど身軽に屋根に舞い降り、そこで刀を構えて鬱金
 の煌めきを待ち望む。
  が、目の前に現れた少年忍者に対して、魔王は一切の怯みも、躊躇いも見せなかった。走る速度
 を緩める事無く、むしろ加速させて少年に突っ込んだのだ。流石にこれは予想していなかったのだ
 ろう。止まるか、避けるかを考えていたのだろう忍者は、咄嗟に刀で防御の態勢をとったものの、
 魔王の持つ幅広の重い剣に敵うはずもない。
  結果、あっさりと弾き飛ばされて宙を舞い、そのまま地面に倒れ伏す事になった。
  そんな、おぼろ丸の不甲斐なさに呆れたわけではないだろうが、収拾のつかぬ事態に、えっちら
 おっちらと坂本が駆けつけてきた。
  坂本は腰に刀と脇差を差して、村の大通りの突当り――炎魔忍軍の屋敷の前で仁王立ちする。
  そして屋根の上を駆ける魔王に向けて、朗々と声を上げた。

 「よっく聞け、魔王。おまんはこうして人を騒がせとるが、おまんの目的はこん儂じゃろう。なら、
  そげに他人を巻き込まずに、儂んとこに来たらどないじゃ。」

  好い声だ。
  はらはらと火の粉が降りしきる夜に、坂本の良い声は、遠吠えのように高く高く響いた。
  坂本の、まるで決闘の申し出のようにも聞こえる言葉は、魔王の耳にも届いたのだろうか。マッ
 ドは鬱金の髪が立てる、瓦を踏み締める音が、はたと止まった事に気が付く。
  そして、ようやく若者の姿を、改めて見る事が出来たのだ。
  瓦屋根の上に立ち止まった若者が、藍の眼で鋭く大通りの突当りを睨み付けている。その事は、
 坂本も勿論分かっている。
  そしてこれは、

 「馬鹿、止せ!罠だ!」

  マッドは、坂本の周りに集う衛士や忍の姿を見て、坂本がこの場で若者を処断するつもりなのだ
 と悟る。
  これは、正当な決闘にはならない。

 「魔王!これ以上何をしても無駄だ!このまま進めばお前は殺される!しかもこれは決闘じゃねぇ!
  卑怯な罠にかかって、お前は死ぬんだ!それが嫌なら、今日のところは退け!」

  鬱金色の煌めきに向けて怒鳴るマッドを見て、他の人々は何と思っただろうか。少なくとも坂本
 は気にしていないようだったが、地面に転がるおぼろ丸は苦々しい表情を隠しもしない。
  そして、魔王は。
  何一つ耳に入らぬと言わんばかりに、一切の前触れなく地面に飛び降りると、抜身の剣を右手に
 持ち、地面を這うように疾走し始めた。通りの両脇に人々がいる事もどうでも良い、ただただ坂本
 を抉る為に剣を持ち直し、掲げ、坂本に突き立てる。
  坂本の腹に広い剣が吸い込まれるかと思ったその一瞬、坂本も脇差と刀を抜き放ち、魔王の牙を
 払い除けた。
  払い落とされた魔王の牙は、けれどもくるりと回転して再び坂本に襲い掛かる。
  が、これもまた払われ、逆に日本の刀で腕を追われる。
  その間に、衛士や忍びが二人を取り囲み、魔王が逃げ出さぬように槍を円陣の内側へと向け、囃
 し立て始めた。
  ほら見ろ、正当な決闘じゃねぇ。
  魔王を囃し立てる村人の様子を見やるマッドは、若者一人に向けてそうした仕打ちをする光景に
 ほとほと呆れた。
  それは、坂本に感じた苛立ちに極めて近く、マッドの右腕は坂本と相対した時と同様に、じり、
 と熱を帯び始める。熱に伴い、痣が広がる感触が、そして、ぬるりと湧き立つ感触が。
  だが、それが再びマッドの意思を無視して動く事はなく、マッドは地面に落ちたおぼろ丸の脇を
 通り過ぎ、魔王と、坂本と、そして魔王に槍を突き付ける無数の村人の元へと歩き始めた。

   「き、貴様!その腕は!おのれ、やはり物の怪の類か!」

  マッドの右腕は、ぬらりぬらりと炎のような、蔓のような黒いものが幾重にも折り重なって蠢い
 ていた。そういうふうに、見えた。
  故に、おぼろ丸が慌てて地面から立ち上がり、刀を掲げても仕方のない事だった。
  しかし、マッドにはおぼろ丸の事など相手にする気にもなれない。右腕で掲げられた刀を受け止
 めると、そのまま、むにっと刀を折り曲げた。

 「ガキは帰ってミルクでも飲んでな。」

  折れた刀と台詞を吐き捨て、マッドはおぼろ丸の脇を素通りする。そして、円陣を組んで人垣と
 なっている衛士やら忍やら村人やらを、右手で強制排除し始めた。
  千切っては投げ、千切っては投げの様相で人垣を排する様子に、坂本も気が付いたらしい。
  ちらり、とマッドを見ながら、魔王の相手をしている。一方の魔王は、半ば獣のように、坂本の
 首を狙っている。
  そんな二人の間に割り込んだマッドは、右手で魔王を押さえつけ、左手にはバントラインを持っ
 て坂本の刀を受け止める。

 「何の真似じゃ、こりゃあ。」

  割り込まれた坂本は、幾分か不機嫌そうにマッドに抗議したが、抗議されたマッドはそれ以上に
 不機嫌そうだった。

 「何の真似だ?そりゃこっちの台詞だぜ。客人の前でやる座興にしちゃ、一人のガキ相手に大人が
  寄ってたかって棒切れ振り回すってのは、胸糞悪い代物だと思わねぇのか。」
 「客人がいようがいまいが、儂にゃあこん村を守る責任があるんぜよ。おまんの言い分は聞けんが
  ね。」
 「守るって言う言葉を、都合よく使ってるだけにも聞こえるがな。てめぇはこのガキをオディオだ、
  憎しみだ、と言って自分を納得させてるみてぇだが、俺の眼にはあんたらも同じに見えるぜ。」

  マッドの右腕がぞわりと湧き立つ。それに抑え込まれた魔王も、流石に瞠目している。
  そう、マッドこそが、これこそがオディオ憑きではないのか。

 「てめぇら、良く見やがれ!てめぇらが恐れているもんは、これだ!俺の腕にはてめぇらが追い出
  した龍の呪いが染みついている!オディオ憑きってのは、こういう事を言うんだ!一人のガキを
  捕まえて騒ぐもんじゃねぇ!」

     何かを求めるように、天に、地に、虚空に蔓を伸ばす黒い影に、人々の口からはくぐもった声が
 漏れ、眼を背ける。
  一方で鬱金の髪の若者には、一切存在していないそれを。

    「賢しいぜよ、そげに見せびらかすな。やったら切り落としてやるが。」
 「それで、切り落とした腕からまたオディオが広がったらどうすんだ?俺にはてめぇらみたいに、
  問題を先延ばしにする趣味はねぇぜ。」

  言うなり、マッドは坂本の腹に思い切り蹴りを入れ吹き飛ばし、気を失わさせる。魔王にも同じ
 事をして、同じように失神させる。

 「さ、坂本殿!」

  駆け寄るハヤテに、気を失っているだけだ、と告げ、魔王を肩に担ぎ上げる。固唾を飲んでいる
 村人達を睥睨すると、マッドは端正な声音で、傲慢に言い放った。

 「この勝負の行方は俺が預からせて貰う。なんせどう考えてもフェアじゃねぇからな。坂本はてめ

  ぇらが預かれ。このガキは、俺が貰い受ける。」

     村人の言い分など、聞くつもりはなかった。
  マッドはきっぱりと言い捨てると、それ以上の言葉も質問も無用とばかりに彼らに背を向け、サ
 ンダウンがいる厩に声を投げる。

 「キッド!」

  かつて人であり、人語を解する毛の長い馬となったサンダウンは、マッドの思考など既に読んで
 いたのだろう。驚く村人を他所に、厩から悠々と出てきて、マッドの傍らに侍った。
  サンダウンが出てきたマッドは、一秒でも早く此処から去るつもりなのか、長靴で砂地を踏み締
 め、重々しい門へと歩を進める。
  だが、それでは腹の虫の収まらぬものがいた。

 「よくも坂本様を!」
 「止めろ、おぼろ丸!」

  ハヤテの制止も虚しく、おぼろ丸は坂本の銃を手にして、背を向けて遠ざかるマッド目掛けて引
 き金を引いたのだ。
  よもや、威力を知らなかったわけがない。
  銃弾は、マッドの背から腹へと貫通し、どぷっと赤い血が地面に迸った。
  だが、マッドは微かに眉を顰めたものの、そのまま崩れ落ちる事はなく、淡々と歩を進め続けた。

 「……あんた!」

  慌てて屋敷から出てきたレイが、マッドの様子に思わず口を開いて、しかしそのまま絶句する。
 マッドもまた、レイに対して何らかの反応はしなかった。

 「駄目だよ!その怪我じゃ!それに勝手に村から出す事は出来ないよ!」

  閉ざされた門の前に立つマッドに、レイはようやく声をかけたが、マッドはマッドにしては冷や
 やかな口調で吐き捨てただけだった。

 「俺がてめぇらの言う事を聞いてやる義理が、何処にある?」

  キッド。
  背後でおぼろ丸を甚振っていたサンダウンに呼びかけると、おぼろ丸を踏みつけていたサンダウ
 ンは、のそのそと門の前に行き、頭でぐいぐいと門を押し始めた。徐々に開いていく門戸が、とう
 とうサンダウンの背丈まで上がったところで、マッドは門戸を潜る。

 「一応、世話にはなった。礼は言っておく。」

  黒い眼で睥睨した後、マッドは背を向けた。