マッドはその日から、西へ西へと歩を進めていった。
乾いたような背丈の低い草を掻き分け、乾いた砂に支配された荒地を抜けて行く。赤い肌を見せ
た岩が、ぽつりぽつりと立っているだけの変わり映えのしない風景は、けれども永遠にそんな風景
ばかりが続くはずもなく、徐々に不毛の色をしていた草が、しっとりとした緑へと変わり始めた。
根本から立ち上がった草に覆われた大地は、荒地と言うよりも大草原であり、そうなって来ると、
先程まで影と言えば立ち上がった岩のものだけであったのが、いつの間にやら背の高い木陰へと変
化していた。
緑が増えたとなれば、当然、湿度も増える。
肌に、水の気配を感じつつ、マッドは尚も西へと進む。
マッドを乗せている砂色の馬も、黙々と西へと向かっていた。馬は、マッドのする事に対して特
に異論は挟まない。
ただ、時折人間の眼差しでマッドを見るだけだ。
マッドが、彼の為に西へと向かっていることも、おそらく承知しているだろうが、だがそれにつ
いて何か感情を持って行動に移すという事はないようだ。
ただ、馬であるサンダウンにとっても、固い砂と岩の土地から、緑の大地へと場所が移り変わっ
た事は、その身への負担が減るらしく、微かに見えていた疲れの色が消えうせていた。
確かに、この場所なら食事には困らない。
しばらく、此処にいてはどうか。
マッドは、だがその考えを打ち消す。サンダウンも、此処に長居するつもりはないと言わんばか
りに、既に出発出来る態勢を整えている。
マッドも、そしてサンダウンも、マッドの右腕に絡む呪いの事を、忘れているわけではないのだ。
龍の尾によって巻きつけられた呪い。
その効果が一体どのようなものなのか、マッドは知らない。しかし、どうやら放っておいて良い
ものではなさそうだった。
昨夜、水浴びした時に見た、痣。
どす黒く、マッドの白い肌を内面から貪って行くような様相を見せる、おぞましいそれは、次第
にその範囲を広めているようだった。
もしかしたら、このままマッドを食い潰していくつもりなのかもしれない。
賞金稼ぎとして生きてきて、生と死の匂いについては普通の人間よりも長けているつもりだ。右
腕の痣からは、確かにはっきりと、死の匂いが漂っている。
すり、とサンダウンが長い鼻先をマッドの右腕に擦り付けた。
特に意味はないのかもしれないし、或はマッドを労わっているつもりなのかもしれないし、それ
とも自らを呪いにかけた男がそうする事で何か効果があるのかもしれない。
だが、結局のところサンダウンの意図するところはマッドには分からないし、分からない以上、
それに甘んじているわけにもいかない。マッドは自らでこの状況を打開せねばならないのだ。
マッドは右腕に顔を摺り寄せたままのサンダウンを押しのけ、ひらりと立ち上がると、鞍に足を
かけてサンダウンの背中に乗る。
出発である。
西へ西へと、再び歩を進める。
と言っても、サンダウンは馬なので草を食べるだけで良いだろうが、マッドは人間だ。人間であ
る以上、人間が食べる物を食べなくてはならない。
要するに、食料を確保せねばならない。
マッドは、道なき道から街道沿いへと歩み寄り、街道沿いにあるであろう宿場町を探し始めた。
西は未だ人の脚が踏み込んでいない地は多いが、だが同時に未踏の地に自由と金を求めてやって
来る者もおり、彼らが実を寄せ合って作り上げた町は、西を開拓する拠点としてそれなりに大きく、
繁栄している。
そういった町は宿場町としての機能も果たす為、必然的に人の交流も多くなるものだった。
そして勿論、行商人も多くいて、そこで商いを始める者もいる。珍しい物も集まるし、食料も事
欠かないだろう。
マッドはサンダウンを引き連れて、喧噪深い宿場町へと足を踏み入れた。人嫌いな面のあるサン
ダウンが嫌がらないかと途中振り返ったが、サンダウンは凪いだ青空をそのまま映しこんだ静かな
眼をして、大人しくマッドについてきていた。
だが、サンダウンは大人しくとも、サンダウンを見る人々の眼は奇異そのものである。
サンダウンのように毛が長めの馬は珍しいのだろう。何よりもサンダウンは鬣と尾が素晴らしく
長い。砂色の鬣は背中から尾まで繋がっており、その長さは背中を完全に覆うほどである。尾も、
地面につくほどの長さである。
実を言えば砂色に見えるサンダウンの毛は薄い金色であり、整えればそれなりに見られる成りな
のだが、根っからの風呂嫌いと鬣に櫛を入れられるのを嫌う所為で、小汚い姿となっている。
しかし、如何に小汚くとも毛の長い馬は珍しいのだろう。
所謂、珍獣である。
従って、商人達もこちらを見ているし、宿場の女達も客になるかと見定めをしている――珍獣を
連れているから、金を持っているだろうという考えだろう。
今にも襲い掛かって来るハイエナのような人々を一瞥し、マッドはサンダウンを連れて食料を選
んでいく。酒と干し肉と、雑穀を幾つか選んで店の店主に金貨を一枚差し出す。
途端に、周囲の人間の眼の色が一斉に変わった。
たった今までサンダウンを好奇の目で見ていた人々が、我も我もと商品を突き付けてくる。
だが、マッドはそれらを丸ごと無視してサンダウンの背に飛び乗ると、押し寄せてくる商人や客
引きの群れを一瞬で飛び越えた。素晴らしい脚力で人々の頭上を通り過ぎて行ったサンダウンは、
先程までの大人しさが嘘のように、長い鬣と尾を靡かせて、宿場町を荒々しく駆けて通り過ぎ去っ
ていく。
どうやら、やはり内心、このような場所は嫌いだったようだ。
しばらくの間、マッドの制止も聞かず、マッドも特に止める事もなく、サンダウンは街道を横切
って再び道なき道を駆けていく。背後には喧噪も何も迫っていないのだが、サンダウンには人々の
呟きが聞こえているのかもしれない。
マッドはサンダウンの好きなように走らせておいて、ようやくサンダウンが立ち止まった時は既
に日は暮れ、しかも完全に山の中だった。
気が済んだサンダウンは、再びただの大人しい、毛深い馬に戻る。
山中でひたりと立ち止まった馬から、しかしマッドはその背から降りようとはしなかった。すら
りと背筋を伸ばしたまま、振り返りもせずに良く通る声で言い放った。
「よくもまあ追いかけてこれたもんだな。その点は褒めてやるよ。だが、この俺に何の用だ?盗賊
か、それともそれに類する輩か?だとしたら、獲物を見る目がなかった事を後悔するんだな。俺
はその辺の旅人ほど、優しくはねぇぞ。」
氷が割れるような澄んだ声音に、背後の草叢がさらさらと揺れた。何も知らぬ者が見れば、風か
何かと思うような揺れ方であった。
だが、マッドは伸ばした背筋を折り曲げようともしないし、サンダウンも足を折るつもりがない。
もう一度、草叢が揺れた。今度は、確かに風が吹き抜けた所為だった。
しかし、揺れる草叢の中から、からからと人間の笑い声が聞こえてきた。
「いやあ、ばれてるとは思てたけどなぁ。此処まであっさりと言われると流石としかいえねぇなあ。」
声は、若い男の声だった。少年と言っていい。
それを聞いて、マッドはようやく首だけを捻って背後を肩越しに振り返った。すると、揺れる草
叢の前に、派手な金の髪をした少年が悪びれもせずに立っていた。
着崩れた感じはあるが、盗賊のようにも、ならず者のようにも見えない。
「いやいや、あんたの宿場町での立ち回りを見てさ。気になってついてきちまったんだ。」
「立ち回りっていうような事は何もしてねえな。それよりも、俺の後をついてきたって事は、やっ
ぱり盗賊か。それとも物乞いか?どっちにしても優しくしてやる気にはならねぇな。」
「違うって。俺はほんと、あんたの動きに感銘を受けただけだって。」
まあ、もしも何か恵んでくれるって言うんなら恵まれるけども。
少年は恍けたようにそう言ってみせ、マッドを上目遣いで見やる。だが、生憎とその手の眼差し
に慣れているマッドには、それは何の効果もなかった。
効果のない己の眼差しに、あらぁ、と呟いて、それから少年は目を泳がせてから、遂にはマッド
の乗っている馬に眼を止めた。
「良い馬じゃねぇか。」
「欲しいのか?」
「欲しいって言ったらくれるのか?」
「さあ?聞いてみな。」
マッドは、そう言って、ひらりと馬の背から降りた。
少年以外の気配はない。サンダウンも特に騒ぎ立てる様子はない。ならばこれ以上進むよりも、
此処で野営をしたほうが良い。こんな少年一人なら、何かを心配する必要もないだろう。
マッドが野営の支度をする傍らで、少年はサンダウンに近寄っている。そしてサンダウンの鼻先
に手を触れようとして、物凄い勢いでサンダウンに鼻を鳴らされていた。振り払われたりはしなか
ったようだが、好まれてもいないらしい。
「あんた以外は、その背には乗せる気はねぇって?」
サンダウンの様子に、少年は少し顔を引き攣らせている。サンダウンが間近で見ればかなりの巨
躯である所為もあるだろう。少年など、その気になれば一瞬で蹴り飛ばせる。
「しっかし、こんなでかい馬連れて、何処に行くんだ?」
「別に、馬の大きさはどうでも良いだろ。行先には関係ねぇだろ。」
「当ててやろうか?西に行くんだろ?」
「当てられても特に驚かねぇな。この辺りじゃ、西に行く奴は珍しくもなんともねぇ。」
「呪いを解く方法を探しに。」
少年の言葉に、マッドは微かに動きを鈍らせた。
だがそれを取り繕う事もなく、ゆっくりと黒い眼で少年を眺めた。少年の背後ではサンダウンも
同じように青い眼で睥睨している。
少年は不敵な笑みを浮かべて、更に口を開いた。
「右腕にかけられた呪いを解く為に、西に向かってるんだろ、あんた?龍みたいな化け物に襲われ
て、呪いをかけられたんだ。」
当たってるだろ、とにやにやと笑う少年に、マッドは静かに向き直った。
ただし、特に少年を威圧したりはしない。
「で?それで、てめぇが俺に何か言える事でもあるってのか?」
ごくごく穏やかな声で問われて、少年はしばらくの間、黙り込んだ。その間も、マッドは少年を
眺めている。
微動だにしないマッドの視線に、やがて何かに根負けしたように少年は息を吐いた。
「けっ、こっちが人の心を読めると分かった途端、一つの事ばかり考えやがって。」
「つまり、てめぇはこちらが主として考えてる事しか読めねぇわけだ。」
「象の事を考えるなってなんだよ、おい!あんた一体何考えてんだ!象ってなんだ!」
「てめぇに象の事を考えさせるようにする為の、一種の手法だ。それよりも、質問に答えてねぇぞ。
俺の呪いの事を当てたところで、それでてめぇが俺に何か齎すもんでもあるのか。」
マッドの問いかけに、少年はもう一度息を吐いた。
「此処から更に西。そこに深い森に囲まれた、二つの山がある。そのうちの東の山に、奇妙な生き
物が暮らしている。あんたの言う龍も、そこから来たのかもな。」
そして西の山には、その地を開墾しようとする人々が集まっている、とも。