レイは未明の空を見上げて、襲撃がない事を確認していた。
夜明けに近い空気はひやりとしていて、鼻を蠢かせてみても、炎と煙の臭いは何処からもしない。
いつも通りの、ただ、いつもよりも静けさの勝った夜明けだった。
「魔法使いの奴ら、こないね。」
防壁の隙間から辺りを窺い、レイは小さく呟く。その足元ではサモが幸せそうに涎を垂らして眠
っていた。
「坂本さんは大丈夫でしょうか?」
レイとの間にサモを挟みながら、不安そうに問うのはようやく身動きが取れるようになったばか
りのユンだ。マザーCOMの襲撃からの怪我は、未だ痛々しく残っているが、動けぬほどではない。
男達を連れて、オディオ殺しに向かった坂本からは、一向に音信がない。共に言ったはずの男達
からもだ。
「マッドの奴が連れて帰って来るって言ってたけどね。」
「あの人、信用できるんですか?」
「助けて貰ったのはあんたじゃないか。」
「それはそうですけど……。確かにサモさんは信用してるみたいでしたけど。」
ちらりと、二人の間で眠っている巨漢を見下ろして、ユンは溜め息を吐き、レイは力なく笑う。
「まあ、サモの奴は人の事を悪く言う事はないからね。ただ、あれだけの怪我をして戻って来た男
なんだ。軟弱者よりかはその点では信用できるんじゃないかい?」
レイは防壁に凭れかかり、夜明けを待つ空を眺める。未だ朝日の帯は来ないが、遠くで登る太陽
が世界の色を変えつつある。
だが、妙だ、とレイはふと思った。
静かすぎる。
確かに夜明けは静かなものだが、けれども鳥の声どころが虫の音、それどころか風で揺らされる
草木のさざめきさえ聞こえぬとはどういう事か。
言い知れぬ予感に身を起こし、レイは野生の獣が耳を立てるように、辺りの様子を窺う。
魔法使い共が何かをしたわけではなさそうだ。何せ、この静寂は、東の山から広がりを見せつつ
ある。
静寂は、死の色を帯びていた。
レイがそれを察するのと、東の山の木々が、もともと色味のないものではあったのだが、完全に
灰になりつつあるのを目前にするのは、同時だった。
そして、山の高くから伸ばされてくる、ぶよぶよと透明な、粘菌のようなものが。
「なんだい、あれは!」
叫ぶレイの声に惹かれるように、そちらを見たユンも小さく叫び声を上げる。その声に、サモも
ようやく眼を覚ました。
「あれは、液体人間……?」
「でも、それにしては様子がおかしすぎます!」
液体人間は確かに得体の知れぬものとして、日暮里の者達は恐れられていた。が、少なくともあ
んなふうに無秩序に手を広げてきたりはしなかった。
それに、遠くに見える液体人間の身体――透明な、まさに人間と同じような身体をしているもの
も、異様なほどに大きい。まるで、東の山が灰になっている事と比例するかのように。
「ど、どうしましょう、レイさん!」
ユンの声に、レイは眼を見開き歯を食いしばる以外に答える術がない。レイもこんな事態は初め
てであり、対処方法など知るはずもなかった。
そんなレイの代わりに、答えを放り投げたのは日暮里の外からの声だった。
「お前ら、逃げろ!」
雪崩のように山を下りる液体人間の手を擦り抜けるようにして、毛長馬と二体の白い機械が山を
駆け下りてきたのだ。それぞれの背中には、黒髪の男と、鬱金の若者が乗っている。
毛長馬に乗っている黒髪の男が、この期に及んでもやはり端正な音楽的な声で、叫んでいる。
「マッドだ!」
坂本を連れ戻しに行ってくると言っていた男の帰還は、同時に日暮里の破滅でもあった。
その破滅を回避させようとでも言うのか、マッドはレイを見つけると、声をもう一度上げた。
「レイ!今すぐそこから逃げろ!出来る限り遠くにだ!水の中なら液体人間の動きは鈍くなる!」
「あんた!坂本はどうしたんだい!」
「坂本なら、男達と一緒に逃げた!あとはお前らだけだ!」
急げ、と今一度告げるマッドの背後で、鬱金色の髪の若者が、早く、と彼を急かす。その声に頷
いたマッドは、サンダウンを再び駆けさせる。
途端に、先程までマッドがいた場所は、丸ごと液体人間の手に握り潰された。
流れ込む液体人間に追われるようにして、マッドとオルステッドは大地をひた走る。マッドには
誰がベヒーモスの首を持っているのか分かっていた。
マッドが坂本を手当てしている間に、こそこそと逃げ出した少年。アキラがベヒーモスの首を持
って逃げ惑っているのだ。そして、液体人間はその首を取り戻そうと、こうして暴走している。悉
くのオディオを魂ごと飲み込んで、ああやって膨れ上がっているのだ。
さて、その逃げ惑っているアキラはと言えば、日勝を引き連れて、当てもなくあちらこちらを彷
徨っていた。
本来ならばこんな所からはテレポートを使って逃げ出したいところだが、しかし今テレポートを
使えば、水に惹かれるという事実を鑑みれば、必然的に液体人間の手の中に転がり落ちる事は眼に
見えてきた。
なので、正直なところ体力には全く自信がないが、自分の足を使って液体人間から逃げているの
だ。おかげで、今にも捕まりそうになっている。あと、意外と早く、マッド達に見つかった。
「そこのガキども!待ちやがれ!」
迫りくる毛長馬と白い機械に、恐怖を覚えないほうがおかしい。しかも毛長馬の馬上には、見事
なまでにこちらに銃口の粗点を合わせている男が乗っているのだ。おまけに手加減するつもりはな
さそうである。
ただ、幸か不幸か、アキラが恐怖を感じるよりも前に毛長馬は素晴らしい速さで距離を詰めて、
アキラの目の前に聳え立った。
ぬっと眼前に現れたサンダウンの姿に、アキラは一瞬絶句したが、その背に乗っているマッドを
見て――その手には銃が握られているわけだが――安堵したように声を上げた。
「ああ、あんたか!無事だったんだな!」
妙になれなれしい少年に、マッドが微かに米神を蠢かせた事に、アキラは気づかない。その、米
神をひくつかせたマッドは、しかしとりあえずアキラに言うだけ言ってみる。
「てめぇが持ってるベヒーモスの首をよこせ。」
「はあ、何言ってやがんだ?これは俺が手に入れたんだよ。」
「うるせぇ、クソガキ。それをベヒーモスに返すっつってんだ。」
手の中で銃を弄ぶマッドに、今更アキラは気が付いたようである。日勝と一緒になって手を上げ
る。
「アキラ、この俺でも流石に銃には勝てねぇ。」
しみじみと言う日勝に、役立たずめ、と言う視線を向けたアキラは、しかしそれでも反論する。
「首を返すっつったってなあ、もう遅いに決まってんだろ。見ろよ、あのぶくぶくと膨れ上がった
間抜けな恰好を。」
高く高く膨れ上がった液体人間の姿。魂を吸い込んで、この世にあるオディオを一つにせんと蠢
く姿。
「もう取り返しはつかねぇ。朝日が出れば、あの化け物も終わりだ。魂という魂を吸い込んで、オ
ディオを一つにした、哀れな化け物さ。あんな姿にならなくったって、一つにはなれるのに。」
陽が照れば、その下では生きられぬ液体人間達は消滅する。
それまで保てば、アキラはベヒーモスの首を手に入れ、ブリキ大王への道を開く事が出来るのだ。
「なんでそんなにブリキ大王なんていう古ぼけたもんに手を出そうとするのかが、分からねぇな。」
「分からねぇ事はねぇだろ。この世の天と地の間にある物全てを全てを欲するのは、人間の業だ。
知ったような口を利くアキラに、マッドは鼻で笑い飛ばす。
「女も抱いた事のねぇ、二次性徴も始まってねぇガキが、この世にある物を欲しがるなんて馬鹿げ
てるぜ。てめぇにゃ過ぎた玩具だぜ。」
言うや否や、マッドの黒い咢は、今度こそアキラの額に吸い付いた。間近を通り過ぎて、もはや
見えもしない感触だけの銃にアキラは引き攣った笑いを浮かべる。
「ガキの遊びに付き合ってられるほど、この俺様は暇じゃあねぇんだ。遊びでガキを殺すのも好み
じゃねぇ。俺が笑ってやってるうちに、さっさと首をよこしな。」
口角を持ち上げた、ただし黒い眼は凶暴な光を帯びたマッドを見上げ、アキラは手を挙げたまま
眼を泳がせる。
「いやあ、まいったね……そう怖い顔……すんなよ!」
転瞬、アキラが素早く動いて、足元から渾身のローキックをかました。
が、それよりも早くマッドの脚が動いてアキラの顎を蹴り上げている。なお、マッドのほうが脚
も、且つ腕も長いので、アキラのローキックがマッドに届いたかどうか、疑問が残る。
あーれーと叫んでひっくり返ったアキラは、一応手加減されていたのか、気を失わずに、鼻血を
垂らしてそれでも首桶を抱え込んで、朝日よ!とか叫んでいる。しかし生憎と、アキラには朝日を
呼び出すほどの超能力は備わっていない。というか『祈り』も届かない。
「わけのわからねぇ事をやってんじゃねぇ!何も出来ねぇんならすっこんでろ!」
「マッド、こいつになんか何を言っても無駄だ!殺してしまえ!」
堪りかねたように、オルステッドが剣をアキラに突き付ける。こちらは、マッドとは違い、辞世
の句を述べる間も与えてくれなさそうである。
「陽がでりゃあ、それで丸く収まるんだよ!」
「てめぇは丸く収まっても、こいつの気が済まねぇぞ。」
マッドは、オルステッドを顎で差す。
そしてその時、アキラの胴と頭は、液体人間と同じできっと離れている事だろう。
「こういうもんは、てめぇで奪ったんだから、てめぇで返すのが筋なんだよ。そんな事も教わらな
かったのか。それとも誰も、教えてくれなかったのか。」
「んなわけねぇだろ!妙子はなぁ!」
叫んでから、アキラはしまったと言う顔をした。
それを聞いたマッドは、だったらどけ、とサンダウンに首桶からアキラを引っぺがさせる。オル
ステッドとマッドが首桶の蓋を開けると、そこからはベヒーモスの首と、どろりとした液体が零れ
出てきた。
触れれば魂ごとオディオを持っていかれるという液体人間の欠片。
けれどもマッドは、躊躇う事なくそれを持ち上げた。意外に重いのか、それを持ち上げた瞬間、
マッドは少し顔を顰めた。慌ててオルステッドがマッドを支える。
オルステッドの力を借りて、天にベヒーモスの首を持ち上げたマッドは、鳥の囀りよりも鋭く、
歌うように彷徨う液体人間に告げた。
「さあ、てめぇの首だ!返すから、取りに来い!」
マッドの声が届いたのだろうか。
荒れ狂うばかりだった液体人間の動きが、ぴたりと止まった。そしてマッドが掲げる首のほうへ
と、首のない身体をゆっくりとかがめる。
どろりどろりと天から零れ落ちる液体人間の欠片に、けれどもマッドが魂を奪われる事はなく。
オルステッドのように肉色へと変貌する事もない。
と。
朝日が、灰になった山裾から、一条、たなびいた。
それは矢の如く、液体人間の胸を貫いた。
荒ぶるオディオは、あまりにも静かに、その身体を山の中に頽れさせ、そして一気に爆ぜた。
弾け飛んだ液体人間の身体は、たった今までそうしていたように、ありとあらゆる場所を埋め尽
くした。
東の山は勿論の事、日暮里も、魔法使いの陣営も、悉くに降り注いでは飲み込んで、流れていっ
た。
その真下にいたマッドとオルステッドも、当然の事。
何もかもを倦まず弛まず飲み込んで、全てを洗い流し終わった後、液体人間の姿は何処にもなく。
ただ、東の山を覆っていた、何処かくすんだ色合いが、ひっそりと拭い去られていた。
人間共が望んでいたように、オディオが消え去ったのだ。
「オルステッド、起きろ。」
草叢に転がっていたオルステッドの頭を、既に活動を再開していたマッドが小突く。オルステッ
ドがはっとして身を起こせば、灰になっていた東の山は再び緑に覆われ、そして目の前では膝を折
ったサンダウンに腰かけているマッドがいた。
その背に負われた空が、信じられないほどに青い。
一切の歪みがない姿に、オルステッドは苦く苦く呟いた。
「結局は、人間共の思い通りになったという事か。ベヒーモスは死に、オディオも消え失せた。」
魔王山は何処にもない。
オルステッドもまた、魔王ではなくなってしまった。
すると、マッドは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「オディオがこの世からなくなるとか、お前本気で思ってるのか?」
既に一度言っているはずなのに。
人間とはオディオそのものだ、と。憎しみのない人間などこの世にはいないし、憎しみのない人
間など人間ではない。
人間がいる限り、あらゆる時代あらゆる場所で、オディオは生まれ続けるのに。
ただ、それを、今までは魔王山が一身に集め続けていただけの事。
「大方、元の持ち主の所にでも戻ったんじゃねぇのか?今までお前らに背負わせてたもんが、自分
に帰って来ただけだろう。」
「お前も……?」
マッドの中にもオディオが戻ったとでも言うつもりなのだろうか。
だが、マッドは朗らかに笑った。
「さあ?でも、俺は自分のものは、例え憎しみであっても欠片も他人にやろうとは思わねぇな。け
ど、世界中のオディオをかき集めたっていうあの液体人間の中には、俺の憎しみもあるのかと思
ってたんだが。」
世界中の憎しみを背負っていると言うのなら、マッドの憎しみもあるはずだ、とマッドはオルス
テッドに告げた。だが、世界中が要らない掃き溜めとして練り上げられたあの中には、マッドのオ
ディオはいなかった。
代わりに、液体人間が斃れる瞬間にマッドが見たのは、ぽっかりと突き抜けて黒く開いている穴
だった。どうやら、本当ならマッドのオディオが嵌め込まれるべき場所だったのだ、と今更に気が
付いた。
マッドが手放さなかったマッド自身のオディオの代わりに、マッドが背負わされていた誰かのオ
ディオが吸い取られていったらしく、マッドの手にはもう痣がない。それともマッドのオディオに
食われてしまったのか。
けらけらと、オディオも笑いながら飲み込んでしまった男を見て、オルステッドはゆっくりと立
ち上がった。その足元には、キューブ達がいる。
キューブと、マッドを見比べ、オルステッドは呟いた。
「マッドの事は、嫌いではない。だが人間を信じる事は、出来そうにない。」
この世にいるすべての人間が、マッドのようにオディオも飲み干してしまう事は出来ないだろう。
そうやって、オルステッドの手を取る事も出来ないだろう。
すると、マッドは首肯した。
「ああ、別にそれで良いんじゃねぇのか。ただ、俺はお前が普通の人間だって事を知ってるし、お
前を魔王と呼んだりもしない。それが分かってりゃ、良いだろう。」
マッドがそう言うと、膝を折っていたサンダウンがゆっくりと立ち上がった。
出発の時間だった。
「俺はもう行く。多分、お前の事は何かの折に思い出すだろう。お前もそれで良い。永遠に続く記
憶だけが、芯を支えるってわけでもねぇからな。」
「また、会えるか?」
「逢いたいのなら、捜してでも逢いに来い。」
マッドはひらりと帽子を取り、軽やかに別れの挨拶をすると、馬首を返した。
サンダウンがそれを合図に、草の茂る大地を大きく蹴り上げる。
一陣の風がオルステッドを強く打ち、オルステッドが思わず眼を閉じ、そして再び開いた時には、
マッドの姿は黒い、ひたすらに突き抜けて黒い点になっていた。