誰よりも早く魔王山の山頂に辿り着いたマッドは、数日前まで自分が倒れていたそこに、マザー
 COMの巨躯が何の信号も出さぬままに留まっているのを見つけた。
  サンダウンから飛び降り、マザーCOMに駆け寄ったマッドは、遂に壊れたのか、と呟く。長く
 長く生きてきた機械は、もはやいつ倒れてもおかしくなかったのかもしれない。
  動かぬ機体に眼をやって、そして視線を山頂入口に向ける。
  轟音が駆け上がる様子に、マッドは顔を顰め、次の瞬間には凄まじい勢いで躍り上った蝦蟇蛇の
 醜い姿に瞠目した。
  何の統一感もないままに夫々が蠢く蛇の口からは毒が次々に吐き出され、ぶよぶよとした粘膜が
 来た道に蛞蝓が這ったような跡を残している。
  醜悪な姿は今にも眼を背けたくなるものだったが、その中に鬱金の輝きがあるのマッドは見つけ
 た。

 「オルステッド!」

  危機とは、こういう事だったか。想定を超えた状況に、マッドはそれでも恐れる事無く尾出院王
 に歩み寄り、きっぱりと命じた。

 「尾出院王!今のてめぇに誰かを殺すだけの度量があるようには見えねぇ。まして誰かを道連れに
  する器もな。てめぇの冬の道への旅立ちに、オルステッドを連れて行こうとするのは止せ。」

  マッドの不遜な言葉に、尾出院王は蛇の口から毒を吐き出す事で答える。理性の欠片も見えない
 姿に、マッドは舌打ちをすると、今度はオルステッドに告げた。

 「オルステッド!聞こえてるんだろう!そんなとこに引き籠ってないで、さっさと出て来い!それ
  とも鮟鱇の雄みたいに、そいつに引っ付いたままでいるつもりか!」

  オルステッドからの返事はなかった。代わりに、蛇の頭が激しく蠢き、マッドの声に対して毒牙
 を剥き出しにする。

 「それとも、もう、自力で出てくる事もできねぇってか?」

  マッドは威嚇する蛇を手にしたナイフで払い除けると、辛うじて見える鬱金色の輝きにその手を
 伸ばして組み付いた。
  毒蛇を切り裂いて、地面に落ちて尚も動き回り毒を吐き散らすのを踏みにじり、鬱金色の髪を引
 き上げて蹲ったようなその顔を無理やり上げさせる。そして、その顔色がどす黒い肉色へと変貌し
 ているのを見て、眉を顰めた。
  これが、オディオ憑きか。
  オルステッドの中に忍び寄るオディオが、顕在化しつつある姿にマッドが眉根を寄せたその隙に、
 毒蛇達が再び頭を擡げ、マッドを思い切り跳ね飛ばした。
  鬱金色の髪を幾つか千切り、マッドは宙を飛んでゴツゴツした岩肌に投げ出される。強かに投げ
 つけられて、マッドは一瞬痛みで息を止めた。肺から一気に酸素が抜け出て、すぐに動き出す事も
 ままならない。
  その間も、理性を失った尾出院王は蠢きまわっている。

 「やれやれ……。」

  無様としか形容できぬ様相の蝦蟇蛇に、全ての信号を止めて硬直していたマザーCOMの身体に、
 星のような光が灯った。ぬるりと起き上がった首だけの巨躯が、眼に赤い光を灯して尾出院王を見
 据える。

 「あの男の為に残しておいた力だと言うのに。」

  億劫そうに呟いた電子音に、キューブ達が白い機体を回転させて足元に侍る。キューブの姿を一
 瞥したマザーCOMは、静かに告げる。

 「お前達は手を出すな。理性を失ってオディオに飲まれたオディオほど、見苦しいものはない。」

  二体を下げておいて、マザーCOMはじりじりと尾出院王に近づいた。明滅する闇色の機械にの
 接近に対して、尾出院王は人の声とはもはや思えぬ方向で対峙する。
  毒と共に吐き捨てられた咆哮に対して、マザーCOMは低く嘲笑する。

 「ふん、もう、言葉も通じないか。」

  地面に吐き散らかされる毒以外に、尾出院王の心を語るものはない。そして語られたところで、
 恐らくこちらが理解できる話にもならないだろう。
  マザーCOMもそれが分かっているのだろう。それ以上は無駄に声をかける事もせず、ただ、機
 械というにはあまりにも感情的な声を張り上げた。

 「さあ、魔王を我等に返せ!」

  咆哮と共にマザーCOMは毒蛇蔓延る蝦蟇蛇へと突き進み、鬱金色の煌めきまで分け入る。尾出
 院王の巨体とマザーCOMの巨躯とがぶつかり合い、火花と毒蛇が辺りに飛び散る。どちらも引か
 ぬ中、それでも目的がはっきりと異なる二体のオディオは時折隙間を開けては、再びぶつかる。
  やがて、何度目かの隙間から、ずるりと何かが地面に投げ出された。
  それを見届けたマザーCOMの声が、超低重量音でマッドの耳に這い寄る。

 「マッド、お前にオルステッドが救えるか?」

  低い低い、夜の底を這うような声に、マッドはむくりと起き上がり、二体のオディオの間に転が
 る肉色の塊を見た。微かにではあるが、どす黒さが引きつつある皮膚と鬱金の髪は、間違いなくオ
 ルステッドのものだ。
  今にも踏みつぶされそうな様子で転がる若者に、マッドは慌てて駆け寄ると、その身体を引き摺
 ってオディオから引き離す。
  オルステッドの身体は毒蛇の粘膜に覆われて、それがじわじわとオルステッドを侵食しているよ
 うだ。
  マッドがそれを拭っている時、ひっそりとした足音を立てて虹色の煌めきが山を登って来た。そ
 れを見て、尾出院王が瞠目した。求めていたものが近づいてきたのだ、眼を瞠るのは当然だろう。
  しかし、ベヒーモスの登場に眼を見開いたのは尾出院王だけではなかった。
  物陰から様子を眺めていた坂本とアキラも同じだった。

 「出た、ベヒーモスだ!」

  密やかに叫んでアキラは、しかし撃つにはまだ早いと呟く。
  そんな人間共のざわめきなど知らぬ顔で、ベヒーモスはオディオ達に近づくと、その鼻先に顔を
 近づける。
  と、見る間に蝦蟇蛇の巨体から力が抜け、空気が抜けたようにその身体が萎んでいく。また、力
 を失ったのはマザーCOMも同じで、濃紺の身体からは今度こそ一点の信号も消え、ひしゃげた音
 を立てて崩れ落ちた。

 「……ベヒーモスは命も吸い取るのか。」

  崩れたオディオ達を見やり呟く間に、ふと周りを見ればタロイモ達が集まっていた。
  時は黄昏時。
  昼が夜に移り変わり、光が闇へと転じる瞬間。カタカタとなるタロイモが、その時を告げている。
 ベヒーモスが生から死へと眼を向ける。

 「今だ!」

  アキラの声に、坂本が構えていた銃の引き金を引いた。それは過たずベヒーモスの首を撃ち抜く。
 が、ベヒーモスは銃で撃たれた事などどうでも良いと言わんばかりの様子で、ただ、無言で坂本達
 を見つめた。

 「ただの銃ではあかんか。」

  坂本は小さく呟くと、この日の為にと準備していた大口径の銃を構える。それを見たマッドは手
 にしていたナイフを鋭く閃かせた。
  美しい直線を切って投げられたナイフは、坂本の手の中にある大口径の銃身を貫いた。

 「やめろ、坂本!てめぇはこんなとこで油売ってる暇なんかねぇだろう!」

    一瞬だが、坂本の動きが止まった。その間もタロイモ達がカラカラと首を振って音を鳴らし続け
 る。その音に惹かれるように、ベヒーモスがその身体をぬるりと伸ばし始める。固い甲殻が透明で
 柔らかな、液体のように。

 「やべぇ!液体人間になっちまう!」

  アキラの声と、そして己を睨み付けるマッドに対して、坂本は不敵に笑ってみせた。

 「ベヒーモスは死をも司るオディオじゃ。オディオにそんな力は必要ないきに。じゃけん、儂らは
  此処で奴らを削り取る。」

  さあ、と坂本は、ナイフが突き刺さったままの銃をベヒーモスに向けた。

 「よう見とけや。神殺しが如何なもんか。」

  普通ならば暴発を恐れるはずの銃を、しかし坂本は一切の躊躇いなくその引き金を引いた。
  マッドの制止も、何もかもが届かない。
  銃を破壊するように撃ち出された巨大な弾は、今度も再びベヒーモスの、今から透明になろうと
 色を変えている首を撃ち抜いた。そして、それはベヒーモスの首に当たるや爆発し、今度こそ、ベ
 ヒーモスの首は弾け飛んだ。
  点々と血を零し、不愛想な固い岩肌に転がる首。
  そして首を失ったベヒーモスの身体は、皮を剥ぐようにして中から透明などろりとした液体が膨
 らみ、一気に弾けた。
  瞬間、上がった悲鳴は誰のものだったのか。オルステッドはマッドに身体を支えられた状態で、
 眼を見開いて、舞い落ちるタロイモの死体を眺めている。

 「やった!」

  アキラの叫びは、弾け飛んだ液体人間の欠片によってクルセイダーズの面々の命が吹き飛んだ事
 で掻き消される。
  そんな阿鼻叫喚な様をものともせず、坂本は転がったベヒーモスの首を掴むと、アキラに向かっ
 てそれを放り投げた。

 「アキラ!約束のもんじゃ!受け取れ!」
 「待てよ!そんなすぐに準備できるかよ!」

  担ぎ手がやられてしまい、アキラ自らが顔桶を運ぶ事になり、てんやわんやの事態だった。坂本
 は一人冷静で、慌てふためく少年に言い放つ。

 「ベヒーモスの身体に触れんほうがええ。命を吸い取られるからな。」

  失われつつあるオディオの命の中で、勝者として立つ坂本は、もはや何一つとして恐れぬ様子だ。
 だが、その鼻っ柱を折ったのは、坂本も予想だにしていない相手だった。
  液体人間の身体が降りしきる中、くわ、と眼に光を灯したのは全ての動きを停止したはずのマザ
 ーCOMだった。マザーCOMの眼に赤い光が灯るや、煌々たる瞳からは鋭いレーザーが放たれて
 いる。
  ぎょっとした時には、光の矢は坂本の額を割っている。

 「坂本殿!」

  おぼろ丸の声に、坂本の血飛沫がかかる。
  弧を描いた血は地面に同じ弧を残し、そして頭蓋まで傷つけたようだった。

 「く……こいつ、まだ動きおってからに……。」

  呻く坂本をおぼろ丸は咄嗟に支えるが、しかしそんな二人の周りにも液体人間の欠片は降り注ぐ。
 まして、手負いの人間を抱えては逃げ惑う事もろくに出来まい。
  そんな二人に駆け寄ったのは、サンダウンを連れたマッドだった。

 「そんなところに突っ立ってねぇで、さっさとこっちに来い!」
 「しかし、逃げると言っても何処に。」
 「良いから来いって言ってんだろ!」

  マッドは二人を無理やりサンダウンに乗せると、とにかく液体人間で溢れた山頂を駆け下りる。
 空に舞い上がり、地面を這って、まるで何かを探そうとする液体人間を一旦は引き剥がし、マッド
 は坂本をサンダウンから引きずり降ろすと、額の手当てを始めた。
  その様子を、先に安全圏に退避させられていたオルステッドは睨み付けて、剣を抜き放つ。元の
 肌色に戻っても、また再び肉色に変貌しそうな顔つきで。

 「マッド、その男を寄越せ!」

  靄を張った剣を抜き放ち、迫るオルステッドを、マッドは低い声で制した。

 「ベヒーモスの敵ならマザーが打った。これ以上何をしても、意味がねぇよ。」

  オルステッドの眼差しをいなし、淡々と坂本の手当てをするマッドに、坂本も苦い思いを浮かべ
 たのか、小さく嗤う。

 「は、このままオディオの餌にでもしたらええきに。」
 「レイに連れて帰るって約束したからな。女の頼み事は聞き届けるのが男だろ。レイに感謝するん
  だな。」

  マッドらしい言い分だった。
  ひとまず坂本の傷の手当てを終えると、マッドは頭上を振り仰ぐ。まるで、オルステッドの刃の
 ような靄のような液体人間の身体が、空を覆いつくそうとしていた。
  この場所も、安全とは言い難い。
  なんとかしてこの事態を止めねば、これは何処までも止め処なく広がっていくだろう。
  マッドは何かを探すように広がる液体人間の様子に、あれは首を探しているのだ、と直感的に思
 う。欠けた部分を探すのは酷く当然の事。
  そしてその欠けた部分は、今、人間の手にある。
  あれを取り返さなくては。

 「オルステッド、ベヒーモスの首を取り返すぞ。手を貸せ。」

  マッドは至極当然のように告げた。それに対してオルステッドが首を横に振るなど考えてもいな
 かった。
  だが、オルステッドは歯噛みをした後、嫌だ、と絞り出すように言った。
  マッドがオルステッドの顔を見れば、今にも泣きだしそうな顔をしている若者の子供じみた顔が
 あった。

 「嫌だ、お前も結局は人間共の味方だ!その男を連れて、さっさと何処かに言ってしまえ!」

  頑是ない子供のような言葉に、マッドは坂本の傍を離れオルステッドに近寄る。すると、オルス
 テッドは逃げるように一歩退いた。そして、事実マッドから逃げているらしかった。
 
 「来るな!人間など、このまま出ていけ!」
 「てめぇだって人間だろうが。わけのわからねぇ事言って、ごねるんじゃねぇ。」
 「黙れ!私はオディオだ!」

  手負いの獣のような方向に、マッドは溜め息を吐いた。
  何を言っているのか、と。

 「てめぇがオディオだって言うんなら、俺だってオディオだ。そんでもって俺は人間だ。憎しみの
  ない人間なんかこの世にはいねぇ。いたとしたら、それは人間じゃねぇ。」

  死地を彷徨ったあの日。
  ベヒーモスにオディオに蝕まれて死ねと言われたあの日。
  何を言っているのか、とマッドは笑ったのだ。
  マッドは自分の中に憎しみがある事を知っている。そしてその憎しみはマッドのものであって、
 他の誰かに渡そうとは思わない。誰かに多い被せて、その後火をつけてなかった事にしてしまうな
 んて事は、マッドには許せない。
  どんな感情であろうとも、マッドが生み出した以上それはマッドのものであり、他の誰かにやる
 つもりもない。
  だから、マッドはベヒーモスに対して小さく呟いたのだ。
  自分のオディオは自分のものだ、と。だからお前の預言に従って食い破られるつもりは毛頭ない、
 と。

   「オルステッド、お前は何をそんなに怯えるんだ。なんでそんなに人間に怯えるんだ。お前は自分
  をオディオだと言うが、人間はオディオなしには生きられない。お前が人間に怯えるのは、もし
  かしなくても、お前もオディオに怯えているからじゃねぇのか。」
 「違う!私は!」
 「お前がもしも全てのオディオを背負ってるって言うんなら、その中には俺のオディオもあるはず
  だ。俺のオディオは、少なくともお前に対して絶望を感じさせたりはしねぇぞ。」

  怖がる必要は何もない。
  ひたり、とオルステッドの手に当てられたマッドの手は、信じられないほど繊細で、熱い血潮が
 皮膚から波打ってくる。
  マッドの掌に、オルステッドは歯を食いしばり、唇を震わせる。

 「でも、だからといって、それが今更何になる。もう、終わりだ。此処は滅びる。」

  ベヒーモスを失って、あらゆるオディオが液体人間に飲み込まれて。
  だが、マッドは首を振る。

 「だから、俺のオディオが液体人間の中にあるって言うんなら、まだ止められる。俺のオディオか
  液体人間に飲まれた幾万のオディオか、どちらが強いか。勝負どころだ。まだ勝負は始まったば
  かりだろ。負けたくねぇのなら、力を貸せ。」

  マッドが、オルステッドの手を引いた。