「尾出院王は東の山に逃げ込んだみてぇだな。」

  日勝の言葉に、アキラは頷く。仲間を多数失い、傷を負った尾出院王が、最後に何に頼みを託す
 か。それが分かっていたからこそ、巨大蝦蟇蛇だけ殺さずにおいたのだ。
  日も暮れて、不気味な色合いを濃くした東の山は、それでも化け物には拠り所となるに違いない。
  何せ、あの山にはベヒーモスがいる。

 「ベヒーモスの助けを借りようって魂胆だな。奴を追えば、ベヒーモスの居場所が分かるはずだ。」

  アキラは口元に薄らと笑みを浮かべ、周りにいるクルセイダーズに向けて、忌まわしい仕事を言
 いつける。

 「お前ら、蝦蟇蛇の皮は手に入れたんだろうな?」

  クルセイダーズの手の中に、たった今剥いできたばかりだと言わんばかりの、ねっとりと血の滴
 る蝦蟇蛇達の皮がある。血の匂いの濃いそれを見て、アキラはにんまりと笑った。
  深手を負い、逃げ惑う尾出院王に、仲間の皮はどのように映るだろうか。それを人間達の罠だと、
 冷静に見抜けるか。それとも見抜けないままか。
  見抜けぬと言うのなら、尾出院王もまた、オディオに飲み込まれて自我を崩壊しつつあるという
 事だ。
  その時、あの醜い蝦蟇蛇から、更にどのような姿になるというのだろう。
  別の目的でベヒーモスの首を狙う坂本には見えぬように、アキラは、けけっと嗤い、今夜がオデ
 ィオ殺しに十分な時であると思う。
  ベヒーモスの首を取る時は、夜へと移り変わる瞬間。ベヒーモスがその固い殻をに包まれた身体
 から、ぬるりとした液体人間に変貌する瞬間こそが、その首を取る時だ。
  そしてその役目は、坂本にやってもらう。それまで、坂本には生きていて貰わなくては。
  だから、暗い色をした草木を掻き分けて、真っ白い機体と、茶色の獣が頭上を飛び越えた時、ア
 キラは真っ先に身構えた。
  しかし、頭上を飛び越えたその二つはアキラになど興味がないのか、振り返りもしないままだっ
 た。辛うじて、茶色の獣のほうが立ち止まっただけで。
  けれども、代わりに茶色の獣から飛び降りた、突き抜けて黒い影がアキラ達を見据える。

 「坂本!」

  端正で良く通る、そして音楽的な響きを湛えた男の声が、凛として坂本を呼んだ。離れていたと
 ころでおぼろ丸と共にいた坂本が、一度で振り返る声だった。
  坂本は、毛長馬から飛び降りた男の姿に、一瞬瞠目したようだった。
  去ったはずのマッドが、眼に相変わらずの鋭い光を湛え、何一つとして反駁を許さぬ声で命じた
 のだ。

 「日暮里が魔法使い共に襲われてるぞ!てめぇが今から行おうとしてる事の言い訳にしてた日暮里
  が、だ!守るものがなくなれば、ベヒーモス殺しの大義名分もなくなるだろう!それが嫌なら、
  さっさと戻れ!」

  屹度して坂本を見つめる宇宙から降りてきたようなマッドの黒い眼を、坂本も負けじと睨み返し
 た。

 「おんしのその言葉、信用してもええゆう証拠は何処にある?」
 「証拠なんかねぇよ!俺だっててめぇなんかを連れ戻すよりも、あの場で戦ってたほうがましだっ
  た!でも、それじゃあ無駄死にする事になる!そんなのは御免だ!」

    あくまでも坂本などどうでも良いと吐き捨てるマッドに、坂本も鼻先で笑う。

 「ふん、つまりはオディオ殺しを止めて、魔法使い殺しをやれっちゅう事じゃろう。」
 「オディオ殺しの後、たった一人で焼け野原に残ってても良いってか?大したお山の大将だぜ!オ
  ディオなんざ結局のところはその辺にゴロゴロ転がってるもんだろうが!今更何かに押し付けて
  滅ぼすもんでもねぇだろう。それとも、何かに押し付けて何も知らない顔で口を拭う以外に、正
  面から見据える事もできねぇのか!」

  世界を引き裂くような声を言い残して、マッドはジャケットの裾をたなびかせて身を翻すと、立
 ち止まっていた毛長馬に飛び乗ると、再び風よりも早く駆け去った。
  鋭い声を喉元に突き付けられた坂本とマッドを見比べ、アキラが呆れたように、

 「あいつ、結局何の味方なんだ。」

  と、呟く。その言葉に被せるようにおぼろ丸が坂本に、問うように言った。

 「坂本殿、戻るべきではござらんか?」

  もしも魔法使いが日暮里を本当に襲っていると言うのなら。
  けれどもおぼろ丸の提案を、坂本は一蹴した。

 「日暮里にはそれなりの蓄えをしちょる。儂らはこのまま進む。」

  何処か底冷えする坂本の声に、おぼろ丸はまだ何か物言いたげであったが、それ以上の言葉を主
 君には言えなかった。喉元で言葉を押し潰した部下の事など見えていないのか、坂本はさっさと森
 の奥へと進み始めた。





 「しっかりしろ、尾出院王。もうすぐベヒーモスのいるところに辿り着く。」

  身体中から血を流す尾出院王を支えるように手をかけたオルステッドは、這うようにして魔王山
 を登っていた。目指すは魔王山の山頂。ベヒーモスが現れる魔王の岩の前だ。
  しかし尾出院王の傷は深く、一歩歩くにもままならぬ事が多い。山道を歩く事は、困難を極めた。
  だが、人間共に囲まれ、味方を失った自分達には、あとはベヒーモスに縋る事しか残されていな
 かった。
  オルステッドが幾ら人間共を恨み、己の力のなさに喘ごうとも、事態は一向に解決を図れない。
  だから、歯ぎしりしながら、山頂への道をふらつきながら歩んでいるのだ。 
  そこへ、奇妙な気配が混ざりこむ。疲れ切っていたから接近を許してしまったが、辛うじて気配
 に気づく事が出来た。
  何か、と剣を抜き放ち、予断なく周囲を見渡せば、足元に石が落ちてきた。足元だけではなく、
 明らかにオルステッド目掛けて投げつけられてきた、何も生み出さぬ石の出所を求めて振り仰げば、
 木々の隙間に黄色いインコ達が連なっている。
  オルステッド目掛けて石を次々とぶつけるインコに、オルステッドは声を荒げる。

 「インコ達!どういう事だ!これがオディオの為に戦うものへの礼儀か!」

  牙を剥くオルステッドに、しかしインコ達は恐れもしない。いや、それ以上に別の何かに恐れて
 いるようだった。

 「オマエタチ、モット恐ロシイモノ連レテキタ。」
 「人間デモ、オディオデモナイモノ連レテキタ。」
 「モウ、コノ山、終ワリ。」

  不気味な声で語られるインコの言葉に、オルステッドは顔を顰める。

 「人間でも、オディオでもないもの……?」

  しかし、オルステッドがその言葉の意味を問いただす前に、インコ達は怯えるがままに、羽ばた
 きの音を残して飛び去っていく。
  羽ばたきの音が去ったその真下、オルステッドはそこに蹲るものを見て、ぎょっとした。
  そこには、斃れたはずの蝦蟇蛇が闇の蟠りのように佇んでいたのだ。見れば、一匹だけではない。
 後ろにも、ぞくぞくと死んだはずの蝦蟇蛇の兵士達が蹲っている。

 「馬鹿な……。」

  死者が蘇るなど、都合の良い希望があるはずがない。それは確かに絶望を反転させる希望だが、
 決して有り得ぬ事だ。オルステッドには、よく分かる。
  尾出院王もまた、同じはず。
  しかし、深手を負い、先々を失った尾出院王には、もはやそこまでの考えは及ばなかったのか。
 眼先にぶら下げられた希望に、勢いよく飛びついた。

 「我が兵士達が戻って来た!ならば皆の者、共にベヒーモスの所に行こうぞ!」

  今に崩れ落ちそうだった巨躯が見る間に力を取り戻し、勢いよく跳ね始める。オルステッドはそ
 れを押しとどめようとしたが、人間の身体で敵うはずもない。

 「尾出院王!落ち着け!死者は蘇りはしない!そんな都合の良い希望は何処にも有はしない!」

  絶望の色しかない、けれども真実は、尾出院王の耳には入らなかった。いや、意図して聞き入れ
 なかったのか。
  山の中を荒らすように頂上を目指す尾出院王に、このままオルステッドが侍れば、オルステッド
 の命もまた危ない。しかし此処で見捨てれば尾出院王は理性を失い、オディオの力そのものに飲ま
 れて、発狂するだけの存在に成り果てる事は確かだった。
  それはオディオとしては最終形態なのかもしれない。だが、一方でオディオ達は力そのももに食
 い潰される事は望んでいない。
  そう、自分達はオディオを飼い慣らした存在なのだ。人間共が恐れ、捨て去ったオディオを一身
 に受け止め、人間共の浅ましい姿を嘲笑ってきた。だから、オディオに食い潰される事なんて望ん
 でいない。オディオを飼い慣らし、人間共のオディオを嘲笑うのだ。

 「お前はマザーにこの事を伝えろ!もしもマザーがまだ機能を停止していなければ、何か助言をく
  れるだろう!」

  オルステッドに付き従っていたキューブは、その言葉を聞き届けると一体だけ混沌の群れを外れ、
 草叢へと姿を隠した。
  同時に、どう、と力尽きた尾出院王が土埃を上げて倒れた。
  すかさず、その周りに蝦蟇蛇達が集まる。死んだ蝦蟇蛇の皮を張り付けた姿に、オルステッドは
 言いようのない嫌悪感を浮かべて立ち塞がる。薄靄の張った剣を構え、彼らを睨み回した。

 「今、一歩でも近づいてみろ。最初にそうしたものから切り伏せる!」

  鬱金色の髪だけを風に揺らめかせ、オルステッドはその場で仁王立ちになった。濃紺の眼は周囲
 を窺い、刃の矛先は揺るぎない。
  ただ、背後に擁する尾出院王が。

 「あ……身体が、熱い……。」

  じりじりと、その眼の色が血よりも濃い赤へと変貌する。尾出院王の異変に気が付いたオルステ
 ッドが振り返った時には、もう、遅い。
  尾出院王は萎えていた蛇を奮い、更にはそれを不気味なほどに無数に背から生やし蠢かせて立ち
 上がったのだ。真紅の眼は、何も見ていない。

 「尾出院王!駄目だ!オディオに食い潰されるつもりか!」

  オディオを内々で飼い慣らした自分達が、人間共のオディオを受け止め、それを嘲笑う自分達が、
 よりにもよってオディオによって滅ぼされるのか。
  尾出院王に駆け寄ったが、しかしオルステッドの身体は蝦蟇蛇の無数の蛇に絡まれ、抵抗の余地
 を奪われる。
  その状態で、突進を始めた尾出院王は、そのまま山を頂上まで駆け上るつもりだった。人間を連
 れ立って。これこそが、人間共の目的だったのだ。
  なんという卑劣な罠。
  蛇に絡みつかれながら、オルステッドは人間達のおぞましい考えに、芯から心が冷えたような気
 になった。そしてその冷たい心の奥に、じわりとオディオが忍び寄る。腹の底でいつでも大口を開
 けて待ち構えていたオディオが、オルステッドの理性の箍の緩みを突いたのだ。
  胃の腑が焼けつくような感覚と共に、オルステッドは自分の手がどす黒い肉色に変貌しつつある
 のを見た。
  ぎくりとしている間に、その色は腕にまで広がりつつある。オディオが身体を食い潰そうとして
 いるのだ。
  それこそが、オディオの最終。
  そんな事、恐れもしていない。
  はずなのに。
  広がる肉色の様相に、瞠目したオルステッドが考えたのは何だったのか。
  オルステッドが己の考えを確認するよりも先に、耳を突くような電子音が遠く遠くから鼓膜を打
 った。はっとしたオルステッドは、電子音の意味する言葉を捕える。

 「マッド……?」





 「答えた!」

  キューブの隣で、オルステッドに付いているという同型のキューブの答えがあった事をマッドは
 聞いていた。
  そして、オルステッドが危険に曝されている事も。

 「山頂を目指すぞ!そこに行けばオルステッドも坂本もいる!」

  オルステッドを助け、そして坂本を止めるのだ。
  もちろん、問題は残ったままだろう。しかし、少なくともこの局面を打開は出来るはずだ。
  マッドはサンダウンとキューブを促し、オディオの念が籠るという山頂を目指し始めた。