最後の夜、マッドは憮然としてパーティ会場と化したホテルのホールを見渡した。
犇き合う煌びやかな人の群れに、げんなりする。
昼間、サンダウンと一緒に街へ出かけて返ってくる途中、マッドの不快指数を最大限に引き上げるあの男―
―ウェーブがかった黒髪の男に、捕まってしまったのだ。つらつらとまるで出来そこないのハイネの詩のよう
な言葉を並べ立てる男の声に、サンダウンは辟易し、マッドは米神に青筋を浮かべたものの、場所がホテルの
ロビーであったから声を荒げるわけにもいかず、彼の言葉を延々と聞き続ける羽目になったのである。
そして本日が最後の夜だから、とパーティに招待された。それをとにかく突っぱねようとしたものの、昨日
のコンサートにはいらっしゃらなかったのだから、と強気な口調で押し切られ、結果、こうして人の波に揉ま
れている。
とにかく、あまりこの手の場所には関わり合いになりたくなくて、マッドはサンダウンと一緒に壁の花と化
している。恋人同士にでもなんにでも勘違いされてもいいから、サンダウンにぴったりと張り付いていないと、
いつ人ごみに飲まれて、引き離されるか分からない。そして引き離された後、何をされるか分かったものでは
ない。
五日目
マッドは、そこに漂う甘ったるい香の香りに眉根を寄せる。このホテルに泊まってから、執拗に何度も部屋
に満たされる香りだ。マッドがその匂いが嫌いで香の入った陶器を見つけるたびにその中身を捨てていたのに、
まるでマッドの機嫌を悪くする為にとでも言うように、このホールにもその匂いが充満している。
早く帰りたい。
それがマッドの心の底からの願いだった。向けられる不躾な眼差しも相まって、マッドは表面にこそ出さな
いものの、腹の底では恐ろしく機嫌が悪い。身体を舐めまわされているような視線が、とにかく気持ち悪い。
「マッド………。」
「………んだよ。」
だから、話しかけてくるサンダウンへの返答も、物凄く重低音だった。幸いな事にサンダウンはそれをあっ
さりと受け流す。
「……大丈夫か?」
「何が。」
「顔色が、悪い。」
言って、マッドの顎に手を掛けて顔を覗き込むおっさんは、わざとそうしているんじゃなかろうかと、疑い
たくなる。そうやって、恋人同士なんだという勘違いを増長させてどうする。
が、具合が宜しくないのもの事実だ。人ごみだけならまだしも、この甘ったるい匂いがどうしようもなく不
快だ。
「出るか?」
「出られたらな。」
この場所から出たいのはやまやまだが、一筋縄ではいかないような気がする。それはサンダウンも薄っすら
と感じている事だろう。本来なら、具合が悪い人間が中座する事が出来ないなど言語道断なのだが。しかし、
何故か胡散臭いものが漂うパーティでは、それが許されない空気がある。
軽い舌打ちをするマッドに、サンダウンは少し何かを思案するような、言おうかどうか迷っているような素
振りを見せた。その様子を怪訝に思って、どうしたんだ、と詰め寄ろうとしたところで、本格的にくらりとき
た。思わず咄嗟にサンダウンの肩に掴ると、同時にサンダウンの手が身体を支えてくれる。
「………出たほうが良い。」
肩に手を回してマッドを支えるサンダウンは、素早く身を翻す。が、それよりも早く、マッドの不快指数を
いつも跳ね上げるあの男が、行く手を塞いだ。二人が顔を顰めている間に、男はにこやかな笑みを絶やさずに
近づいてくる。
「おや、お加減が悪いようですね。」
「ああ、退出させてもらう。」
「こちらにお部屋を用意させていただいておりますのでどうぞ。」
「……………。」
この男の耳は節穴なのだろうか。サンダウンはたった今、退出すると言わなかったか。が、どうやら本当に
節穴だったらしく、どうぞこちらにと、どう考えてもホールの奥へと誘っている。それを無視しようかとも考
えたが、まるでそれを阻止するかのように、小姓と思しき少年達が纏わりついてくる。
非常に、嫌な予感がした。が、逃げる事も出来ず、仕方なく二人は男についていく。
そして通された部屋は、内装が金の刺繍やら何やらで飾りつけられた、派手な部屋だった。その中央にある
やはり金の刺繍で彩られたソファへと促される。
幸いにして、男とその小姓達はすぐに退出した。それを横目で見やりながら、サンダウンはマッドをその趣
味の悪いソファへと横たわらせる。そして覗き込んだマッドの顔が、蒼褪めている事に顔を顰めた。一向に良
くならない顔色の原因が、此処にも充満している香の所為だという事にサンダウンは気付いている。
「マッド…………。」
誰も部屋に寄って来ない事を確認しつつ、サンダウンは顔色の悪いマッドに言わねばならない事を口にする。
「この匂いがなんなのか、気付いているのか?」
「さあ?とにかくあんまり良いもんじゃねぇ事は確かだな。」
「………阿片かもしれない。」
サンダウンは、本当ならば出来るだけ早くマッドに言わねばならなかった事実をようやく伝えた。
昼間、マッドと一緒に外に出かけた時、マッドが店先に並ぶ変わった商品に眼を奪われている間、サンダウ
ンは出来る事なら逢いたくない人物を見つけてしまっていた。かつて保安官だった頃に知り合った警備隊のリ
ーダーで、サンダウンも幾度となく世話になった男で、サンダウンが保安官を止めた理由も知っている。
彼は、マッドを遠目に眺めていたサンダウンに気付くと、呆気にとられたような表情をしていたが、すぐに
近づいてきて、矢継ぎ早に質問をしてきた。今何をしているのだとか色んな事を。その遣り取りにいつマッド
が気付くかとひやひやしていたサンダウンは、連れがいるからと早めに話を切り上げたのだが、その短い会話
の中で、男が小さく嘆いていたのを思い出した。
『最近、この町も治安が悪くなってな。殺人とかは起こらないんだが、阿片を買い込んで乱交パーティに使う
輩もいるくらいだ。阿片自体は違法じゃないんだが………。』
『………………。』
『最近、新しいホテルが出来たんだが、そこが連中の根城になってるらしい。ただ、証拠がなくてな。』
『………………。』
『あれが、今のお前の相棒か。なんだか奴らに眼をつけられそうな子だから、ちゃんと守ってやれよ。』
『………………。』
マッドが勝手に自分の相棒にされていた事と、守ってやれよというわけのわからない言葉を投げかけられた
事には眼を瞑り、気になるのは阿片を使った乱交パーティだ。それにマッドが巻き込まれやすそうだというの
は、残念ながらサンダウンも思い当たる節があるので否定しないが、そう考えると怪しいのはこのホテルのこ
の匂い。勿論、このパーティがそうだと決めつけるのは早すぎるかもしれないが、しかし逃げ出すに越した事
はない。
そう思っていると、部屋に人が近づいてくる気配がした。思わずマッドのもとに身を屈めていたのを起こし、
扉の方を向けば、そこには一人の小姓と思しき青年が立っている。茶色の髪を少し長めに伸ばした青年は、何
やら熱っぽい視線を浮かべ、見る間に身に纏っていたジャケットやシャツを脱ぎ棄てていく。
ぽかんとするマッドとサンダウンの前で、遂にはズボンにまで手を掛けた青年に、流石に二人は引いた。が、
最後まで――むろん、下着も――戸惑いなく脱ぎ捨てた青年に、恥じらう様子は欠片もない。
完全にどん引きした二人の前に、どうやらこの状況の元凶である――というか常にマッドの機嫌を悪化させ
る原因となっている――ウェーブした黒髪の男がやってきた。そして彼は悪びれもせずに、まるで芸術品でも
紹介するかのような口ぶりでこう言った。
「いかがですか、彼は?彼は私の小姓の中でも一番美しい子でしてね。この子ならば、貴方の恋人とも釣り合
うと思いませんか?」
「……………?」
言っている意味が分からないサンダウンに、男はにこりと微笑む。
「此処は美しく退廃した愛欲の園。誰もが誰もを愛する場所です。貴方も、この子を愛してやってくださいま
せんか?そして私に、彼を愛させて下さいませんか?」
何やら美辞麗句を並べ立てているが、要約するとこういう事か。そこにいる小姓とマッドを取り換えようぜ、
と。それを理解した瞬間、サンダウンとマッドの心の声は図らずとも一致した。
死ね、と。
その不穏な事を考えたままの声で、サンダウンは言い放つ。
「断る。」
言うなり、サンダウンはマッドの背中と膝裏に腕を滑り込ませると、そのまま力を込めて立ち上がる。その
状態にマッドが眼を白黒させているのにも拘わらず。
「我々はこれで失礼する。」
「おい、降ろせよ!」
「ふむ、彼は嫌がっているようですが。」
「退出するのは嫌がってねぇよ!この格好が嫌なだけで。」
「とにかく、帰らせて貰う。」
「あんたは俺を降ろせ!」
叫ぶマッドを無視してサンダウンは部屋から出ていく。が、行く手を遮るのはホールにいた噎せ返るような
人ごみだった。一様にこちらを見て、逃げ場を防ぐようにしている華やかな衣装に身を包んだ連中に、サンダ
ウンは舌打ちする。
その背後で、追い掛けてきた男の声がする。
「申し訳ないが、返って頂くわけにはいかないのですよ。何せ皆さん、貴方の恋人の味を知りたくてうずうず
していらっしゃる。」
「……………。」
本当に、つくづく、その口を閉じろと言ってやりたくなる言葉しか吐かない男だ。今、サンダウンの腕の中
にいるマッドが、どれだけ怒り狂っているのか分からないのか。サンダウンにとっては、にじり寄ってくる連
中よりも、腕の中で静かに怒り狂っているマッドのほうが手に余る存在だ。
「さて、観念していただきましょうか。」
「……………お前がな。」
にじり寄る男を、サンダウンは冷ややかに一蹴し、そしてその眉間に魔法のようにピースメーカーを突きつ
ける。一瞬にして動きを止めた男は、貼りつけていた笑みを別な意味のものに変え、引き攣ったように口元を
痙攣させる。
「道を開けて貰おう。我々は退出させていただく。」
突如華やかな場に現れた武骨な銀色の輝きに、あちこちで悲鳴が上がる中、サンダウンはマッドを片手で抱
え、もう一方の手で銃を掲げて色とりどりの服を割る。慌てたように散らばる人々の中に、飛びかかろうとす
る者もいたが、彼らは結局サンダウンに隙を見つける事が出来ず、そのまま置き去りにされる。
割れる華やかな壁の中、サンダウンは銃を掲げたまま、時に周囲に視線を巡らせ銃を向け、ホールの扉へと
足早に向かう。そしてこちらを欲の籠った眼で見つめる人々から眼を逸らさずに扉を開き、甘ったるい匂いの
充満するホールから飛び出した。
ホールから少し離れたところに来て、不意にマッドが口を開いた。
「キッド、あんた、部屋になんか必要な荷物置いてるか?」
「…………いいや。」
「だったら、このまま帰ろうぜ。まだ列車は動いてる。」
部屋に帰っても安全とは言い切れない。マッドのその言葉に、サンダウンは頷く。きっとこのホテルは、こ
ういった場の為に作られたのだろう。ならば、部屋に戻ってまた同じ眼に合うとも限らない。
「マッド、立てるか?」
「ああ。」
少しふらつきながらもマッドは自力で立ってみせ、小さく呟く。
「馬を取りにいかねぇとな。」
「そうだな…………。」
例えどれだけ危険が迫っていても、彼らを置いていくわけにはいかない。サンダウンとマッドは一瞬眼を合
わせて、そして身を翻すとホテルの外へと駆けだした。