「………それは、ない。」
おぼろ丸の言葉に、サンダウンははっきりと言い放った。
これまで、サンダウンがおぼろ丸に拷問目的と拒絶目的以外で声を掛けた事はない。何もかもを
切り裂くように真直ぐに、声を届けた事など、終ぞなかった。
だが、初めてそうした言葉は、おぼろ丸の言葉を真っ向から否定するものだった。
拒絶ではなく否定されたおぼろ丸は、眼を見開く。だが、少年達よりも遥かに大人びて、ともす
れば達観しているようにさえ見える彼を、正面から否定し切ることが出来る者など、この場ではサ
ンダウンを置いて他にはない。
サンダウンは青い眼をひたりとおぼろ丸に添えて、もう一度繰り返す。
「それは、ない。」
くすんだ世界の遠くで、歪みながらもそれでも光を放つ月が、魔王であるはずがない。闇でさえ
澱む世界で、唯一まともな色をしたそれが、凌辱と退廃を好む魔王であるはずがないのだ。そんな
当り前の事さえ分からないおぼろ丸に、サンダウンはおぞましさと同時に、ふっと初めて一抹の憐
れみを覚えた。そして、おぼろ丸の中に自分を見出していた事が間違いであったと、ようやく気が
付いた。
これまで、人を蔑むおぼろ丸を見てはその中に自分を見出し、自分の魂はこんな形なのかと嫌悪
してきた。その嫌悪を罰し、自らの中に刻む事で正気を保つ為に、おぼろ丸を犯し続けてきた。月
が警告のように滲む夜以外は。
富を意味しながらも不毛の地と化してているこの国で、月の光は初めてサンダウンに元の世界を
思い出させるものだった。ルクレチアを覆う死の灰のようなくすみの中で、それでも滲むようにし
て放たれる光は、縁取る闇を本来の色に返し、生命のもはや望めない木々を宥めるように抱きとめ
る。
その色に、誰を思い出すかなど、愚問だった。
乾いた荒野で、同じように光を灯す眼を、サンダウンは知っている。その肩に燃え盛るような世
界を背負って、諦めようとするサンダウンに、まだ世界は美しいと怒鳴っている。何も信じないと
駄々を捏ねるサンダウンに、だったら殺せと心臓を広げている。
荒野の悪魔のように誘惑する魂に、けれどもサンダウンは希望の名を付けずに、それでも誰にも
渡すまいとして結局失った。
世界に散らばる匂いだけを辿って、失った事に後悔し、そしてまた匂いを辿る。触れただけで消
えそうな残滓でも感じようと研ぎ澄ました神経は、彼の気配を他の何かと、まして人間である事を
諦めた魔王などと、間違える事など、有り得ない。
彼は――マッドは、世界を諦めたサンダウンと世界の差を埋める為の、熱そのものだった。サン
ダウンはそれが再び諦めに変わる事を恐れて、本気で手に入れる事が出来なかった。だから、マッ
ドが連れてきた光と同じ色を放つ月は、マッドの背中を思い出して、それだけでサンダウンを糾弾
する。
だが、おぼろ丸は。
達観した目で、何であっても嬌声を堪えないおぼろ丸には、自分を糾弾して狂気を食い止める思
い出がないのだ。いや、それどころか、その形さえ知らないのだろう。自分を世界に繋ぎ止める為
の希望の形を。
サンダウンはおぼろ丸の過去など知らない。
おぼろ丸が坂本の誘いを断り、そして坂本が凶刃に倒れ、その事で自分を責めている事も知らな
い。ただ、おぼろ丸が任務故に自らを律し、それ故の達観が他人への侮蔑を生み出し、他人への期
待を摘み取っているのであろう事は分かる。
おぼろ丸は、この、不毛の大地では――いや如何なる世界でさえ――希望を見出せない。
もしも此処がおぼろ丸の元いた世界であったなら、おぼろ丸の粗は目立たなかっただろう。しか
し、色褪せた景色以外に縋るもののないルクレチアでは、希望の名前を知らないおぼろ丸は、実は
一番――アキラよりも――脆い。
おぼろ丸もそれを無意識のうちに感じ取っていたのか、彼はサンダウンに身体を差し出した。坂
本を助けられなかった責め、或いは他人を侮蔑する醜い自分を貶める為と称して。そうする事で、
希望を知らない彼は、辱めによって、正気を保とうとした。
だが、それは長くは続かない。
サンダウンには、おぼろ丸との行為よりもずっと自分を貶めて罪を自覚させる魂が、すぐ、傍に
いる。
そして、月こそが魔王だと言い放ったおぼろ丸の声は、確かに救済の声だった。少年達を貶め、
自分の身体で籠絡し、自らも快に耽る彼にとっての、最後の悲鳴だった。
月を憎むかのように呟く声には、月への嫉妬の色はない。月を否定する事で、月に罰を求め一人
救われようと足掻いているサンダウンに、自分も救って欲しいと嘆願したつもりだった。嘆願の色
で染め抜いたつもりだった
おぼろ丸には、サンダウンに辱められる事でしか、正気を保てないのだ。それがなくなれば、狂
う事は眼に見えている。
だが、それはサンダウンには届かない。サンダウンもまた、救済を求める罪人でしかないからだ。
投げかけられた細い糸に捕まる罪人に、他の罪人を構う余裕など、微塵もない。ただ、憐れに思う
だけで。
正面から自分を否定されたおぼろ丸の顔に、ひびが入った。だが、それにさえ誰も気付かない。
おぼろ丸を想っていると嘯いたユンでさえ、気付かない。代わりに、怒鳴っただけだった。
「何故そんな事が言えるんです?!おぼろ丸さんがいるにも拘わらず、ずっと月に魅せられてるく
せに!きっとその眼は魔王に曇らされてるんだ!」
それは、あまりにも見当違いな台詞だった。サンダウンだけでなく、おぼろ丸も、その場にいる
誰もが、ユンの言葉が自分本位なものでしかない事に気付いている。それを、サンダウンは告げて
やるつもりはなかった。他ならぬおぼろ丸が、歪な形で唇を開いたまま凍り付いていたからだ。
両手を振り払われたおぼろ丸は、ユンの激しい糾弾も、聞こえていないようだった。それが、最
後の牙城であった事など、誰も知るはずがない。皆、おぼろ丸の侮蔑と卑猥の部分しか見えていな
いからだ。その一手が、沈む船に必死に掴るおぼろ丸の手を叩き落としたなど、誰も気付かない。
「は、は、はは………。」
眼を零れんばかりに開いたおぼろ丸の口から、笑い声が零れる。それに眉を顰めたのはサンダウ
ンだけではない。罵り声を出していたユンも、はっとする。一瞬にして訪れた沈黙の中、おぼろ丸
の笑い声と、赤を咲かせて倒れているアキラのくぐもった声だけが異様に響いている。
「お、おぼろ丸、さん?」
糾弾の口を閉ざし、震える声で名を呼ぶユンに、おぼろ丸はぽっかりと虚ろな眼を向けた。
「『それは、ない』?ユン殿、どうやら、この男もそちら側の人間のようでござる。」
そちら側、と口にしたおぼろ丸の眼に、薄暗い光が灯った。それは、地獄に蠢く救われぬ亡者の
眼と同じ光だったが、ユンはそれに気付かない。
「月という穢れたものに恋焦がれるなど、普通の者ならば有り得ぬ。正気の沙汰とは思えぬ行為。
それをするとは、やはり化生のもの故。月に吠える物の怪と同じ。」
そうやって、救われた気になっておる。月に焦がれて気がふれて、それでこの世界から眼を背け、
救われておるのだよ、この男は。
おぼろ丸の呟く声は低いが、ユンの耳には嫌でも届く。自らの声しか信じないユンは改めてサン
ダウンを睨み据え、計算式からでしか真を穿てないキューブはサンダウンに無機質な光を向ける。
そしてサンダウンは、彼らがこの世界で希望を持てない事を知った。
彼らには、世界の縁を越えてまで傍にある魂がないのだ。或いは傍にいても気付くほど焦がれて
いないか。
サンダウンは、月の光一筋にさえ、感じて焦がれているのに。
「アキラ殿と同じ。もう、助からぬ。魔王に焦がれるなど、もはや手遅れ。」
切れた糸を罵るおぼろ丸は、それでも己の身体を使ってユンを籠絡し、キューブに誤解をさせ、
彼らを未だに侮蔑している。
サンダウンに対峙する彼らに、サンダウンはもはや銃を掲げる手を躊躇う事はない。
おぼろ丸の言っている事はほとんどがおぼろ丸の騙りだが、しかし真を穿つ言葉もある。
もはや手遅れ。
その通りだ。マッドを失ったサンダウンには、もう、失うものは何もない。ただ、マッドが訪れ
ない世界で、終末が来るのを待つだけだ。マッドが零した欠片を拾い集め、生きるだけだ。そして
マッドの気配が散らばる世界に、戻りたいだけだった。その為ならば、眼の前にいる肉塊を撃ち殺
す事に、些かの躊躇いもない。
サンダウンも含め、此処にいるのは、所詮、化け物でしかない。
八つ裂きにしても、誰も哀しまず、誰も惜しまない。
そして化け物同士の殺し合いでは、化け物を殺す事はできないだろう。
「息の根を止めるより他、ない」
おぼろ丸がそう冷ややかに告げるのを最後まで聞く前に、サンダウンは銃口をおぼろ丸に向けて
いる。
その時にはおぼろ丸の手には三本のクナイが。
だが、それよりも早くサンダウンはおぼろ丸の手を撃ち抜き、再びおぼろ丸の額に狙点を合わせ
る。
悲鳴も上げずによろめき、血を噴き上げた手から指とクナイを振り落とすおぼろ丸の額に、サン
ダウンは無情に銃口を合わせた。
ユンが何かを喚いているが、そんなものは聞こえない。割って入る勇気もない脆弱な悪魔など、
魔王は見向きもしない。
と、指を地面に振り散らかした化け物が、く、と口角を吊り上げた。それを怪訝に思う暇もなく、
化け物がもう一方の手を振り上げた。
同時に、もう一度、銃声が湧き起こる。
風圧で何もかもが消し飛びそうな音と共に、おぼろ丸の肩と脇腹から、弧を描くように朱が飛び
散った。そして、今度こそおぼろ丸の身体はよろめきに耐えられずに、倒れる。それに駆け寄るユ
ンの姿を、しかしサンダウンも最後まで見る事は出来なかった。
サンダウンの放った鉛玉は、おぼろ丸の振りかぶった腕に不吉を覚えて、その肩を撃ち抜いた。
だが、にも拘わらずおぼろ丸は腕の先にある刃を止めなかった。痛みに耐えきり――いや、痛み
など既に感じていないのかもしれない――おぼろ丸は残る刃を魔王に投げつけたのだ。
銃声と共に投げつけられたそれは、風圧さえ叩きのめす薄暗い不吉を伴って、サンダウンを貫い
た。
サンダウンの、左目を。
痛みはなかった。傷を負った時に感じるはずの、激しい熱もなかった。それは、ただひたすらに
冷たく、僅かに零れた血もまるでコキュートスの氷のようだった。ただ、その衝撃によってのみ身
を崩したサンダウンは、痛みも熱もない自分の身体に、やはり、と嗤った。
きっと、この身体は突き刺さる刃を引き抜いたとしても、痛みも感じないだろう。その代わり、
噴き上げる血の冷たさで、凍えるかもしれない。
どうやら、本気で、この身体は、魔王に成り下がっているらしい。
それは、必死になって繋ぎとめてきた正気を失う事に等しい。けれど、魔王になり果ててでも、
サンダウンは元の世界に戻りたかった。
「よくも!」
怒りを眼に溜めて叫ぶユンに、魔王は冷ややかに一つだけになった眼を向ける。眼玉が一つにな
っても困らない自分に、嗤いそうだった。一つだけの眼では銃を扱うにも困るだろうと思っていた
が、それも、ない。それは、卑猥で卑小で偽善の顔を持った悪魔の両脚を撃ち抜いた事で、証明さ
れる。
奇妙な事に、光がなくても、残る右目は世界を良く見通す事が出来た。
絶叫して転がる少年の布の皺一つ、無機質な鉄の塊から散らばった樹脂の一欠片でさえ、地面に
散らばる朱の一滴さえも、見渡している。
かかと零れる、嗤い声の色でさえ。
「ふ、ふふ……もう、助からぬ。地獄から抜け出る蜘蛛の糸は切れた。」
転がるおぼろ丸が、指のない手で地面を掻いて、呪わしげに嗤っていた。その様子を右目で見や
り、サンダウンは煩わしげにその額に今度こそ銃口を向けた。
が、それを見てもおぼろ丸は勝ち誇るように嗤っている。
「気付かぬか?もう、光は届いておらぬぞ!」
もう戻れぬ、道は閉ざされた。
その言葉の意味に気付くのに、一拍、遅れた。
はっとして顔を振り上げて、空を仰げば、そこにあったはずの月が、何処にもない。あるのは、
くすんだ闇ばかりだ。にも拘わらず、サンダウンの右目は世界を見渡している。まるで、この世界
に馴染みきったように。
気付いた瞬間、凍えていた左目が炎を噴き上げる。
「ぐっ………あ……!」
左目を中心として広がる灼熱。そして湧き起こる激しい痛み。だが、それ以上に、光が失われた
事による、痛みが。
魔王を見限るかのように、消えてしまった月。それへの喪失の痛みが、左目を突きぬけて、頭の
中を掻き混ぜる。
光が潰えたその瞬間、周囲を漂う空気一粒一粒から、口が生えたように、世界が哄笑した。