「いかがされた?」

   おぼろ丸は、ゆっくりと幽鬼のように近づいてきた影に、はんなりと微笑んで見せた。いつも
  顔を隠している覆面をずり下げ、口元に浮かぶ淡い笑みを見せつける。尤も、それをしたところ
  で、近付く影がそれに意識を向けるだけの余力を持っていない事は知っている。それでもわざわ
  ざそうしたのは、やはりそちらのほうが、万が一おぼろ丸の顔を見据えるだけの気力があった時
  に都合が良いからだった。

  「アキラ殿。」

   呼べば、その小柄な影はびくっと肩を震わせた。眼の下に隈を作り、頬もかすかにこけた少年
  は、ふらふらとおぼろ丸の方へとやってくる。
   心が読めるのだと最初のうちは自慢げに告げていた少年は、しかし真っ先にその代償を払わさ
  れた。
   生よりも死の比重のほうが勝るこの世界では、己の生を絶たれた事への恨みを呟く死者の声が、
  当然の事ながら大きくなる。激しい憎悪や深い悲嘆を、延々と聞かされ続ける少年は、そして心
  が読めるという特性故に、眠りについた後も夢の中でまでそれを聞かされ続ける。一時の安息も
  与えられない頭は、きっと破綻が迫っているのだろう。

   だから、おぼろ丸にこんな事をされても、黙っていられるのだ。

   口角を吊り上げ、おぼろ丸はアキラの細い手を引き寄せる。それに従って地面に堕ちるアキラ
  は囈のように呟く。

  「声が、声が………耳にこびりついて離れない。洗っても洗っても、消えない……。」

   瞬く事を忘れたかのように血走った眼を大きく見開いて、汚れた両手で耳を塞ぎ、少年が繰り
  返し呟く。もはや狂人の相を浮かべているアキラに、おぼろ丸はゆったりと嗤った。
   死者の声如きでこんな事になるとは、どれほど脆いのか。この脆い精神の持ち主が、自分達の
  時代の遥か先の祖国に住まっているという。血の臭いのしない少年の脆さは、はっきりとおぼろ
  丸に、未来に対する失望を味合わせた。
   このような貧弱な者しかいないのか、と。それは同じく未来にいる日勝にも言える事だ。尤も
  日勝の場合は、その他人を省みぬ愚直さに失望したのだが。何れにせよ、おぼろ丸が見た未来の
  祖国は、失望に満ちている。
   これが、坂本の思い描いた未来だと言うのだろうか。或いは、坂本が志半ばで斃れたから、こ
  のような未来になってしまったのだろうか。そう思えば、おぼろ丸の心臓は鷲掴みにされたよう
  な気分になる。この貧弱な精神が、自分が坂本を守らなかったから生み出されたのだ、と。その
  責任に押し潰されそうだ。そうなれば、おぼろ丸にとって眼の前で軟弱に蠢く少年は、おぞまし
  い以外の何物でもない。
   そのおぞましさを打ち消す為に、おぼろ丸はアキラを地面に押し倒し、その股間に手を宛がう
  と、激しく扱きあげた。

  「あっ、ああっ!」

   抵抗できぬ少年の身体は、あっさりと快楽を受け入れる。腰を何度も逸らせ、悲鳴を上げる様
  は、少年がこうした行為に慣れていない事を示している。おぞましい、と思いつつも、少年のこ
  うした反応はおぼろ丸にとっては楽しみの一つである。確かに忍びである以上、性欲を律する事
  は重要であるが、幕末とはいえ忍びの世界は封建的な考えが強く残る。即ち、虜囚で欲を満たす
  事は当り前なのだ。

     「こうすれば、死者の声など、聞こえないであろう?」

   嗤いながら、お前の為にしているのだと言わんばかりの台詞を吐く。それはアキラに責任の一
  端を背負わせる為だ。
   下穿きをずり下げて、激しい扱きに耐えかねてはしたなく反り返った幼い欲望を見やり、おぼ
  ろ丸はそれを口に含む。

  「はっ、ああぁんっ!」

   途端に、嬌声が上がる。耐えられないと何度も腰を浮かせ、咽び泣く。それを宥めるように舌
  で舐め上げ、先端を歯でくすぐれば、あっと言う間にアキラは白濁を飛ばした。まだ、一回目の。

     「やめっ、やめぇえええっ!」

   達したばかりの身体を、だがおぼろ丸はまだ放さない。先程欲望を吐き出したばかりのそこを、
  引き続き舌先で先端を攻め、茎を擦り上げ、袋を揉みしだく。的確なおぼろ丸の責めに、アキラ
  は言葉も碌に紡げない。

  「ぁあっ…ふ…は…───ぁあ…!」

      敏感になった先端を、おぼろ丸は何度も何度も舐め上げ、時に爪先で刺激を与える。その度に、
  経験のない肉棒は、際限を知らぬように精を放つ。だが、どれほどアキラの精液がおぼろ丸の口
  や手を汚しても、おぼろ丸は先端への刺激を止めようとはしない。

  「やぁあ…だめ…も…だめぇ……」

   もはや、死者の声など聞こえてもいないだろう。おぼろ丸の前にいるのは死者の声に脆弱に震
  える未来の少年ではなく、ただおぼろ丸の手管に流される男娼でしかない。

   不意に、おぼろ丸はざわめきを聞いたような気がして顔を上げた。
   それは、純朴に、しかし卑猥におぼろ丸を想っているユンの気配ではない。いや、ユンはおぼ
  ろ丸がアキラを犯している事は知っているだろうが、それを見てもユンはおぼろ丸がアキラを一
  時でも怨嗟から解き放つ為だと額面通りに受け止めるだろう。おめでたくも自らが信じたい者し
  か信じない少年は、きっとこの輪の中に混ざる瞬間を夢見ているはずだ。
   それを嘲る笑みを浮かべて出来なかったのは、今自分がアキラを犯しているように、普段自分
  を犯している男が、何の興味も浮かべずに通り過ぎていったからだ。

   おぼろ丸がアキラをおぞましいと思っているように、おぼろ丸をおぞましいと思っている男。
  しかしおぼろ丸はアキラを犯す事に悦びを感じているが、サンダウンはおぼろ丸を犯しても悦ぶ
  事はない。
   そしておぼろ丸が誰を抱こうと、誰に抱かれようと、そうやって心一つざわめかせずに立ち去
  るのだ。本気で、どうでもよいと言わんばかりに。
   何よりも今日は、

   おぼろ丸は自分の下で喘ぐアキラから身を離し、天を仰ぐ。

   やはり、月が。

       おぼろ丸が闇から抜け出せない事を宣言するかのように、それでいておぼろ丸の醜さをはっき
  りと照らし出すように。薄汚れた空の向こうで歪に嗤っている。
     その歪みを想っているなど、やはりあの男も、歪んだ人間なのだろう。

       おぼろ丸は昼間耳にした、ユンの非難の声を思い出す。
   独善的な少年は、おぼろ丸を犯すサンダウンを、正面きって非難した。その場には日勝など他
  の連中もいたから、ユンにとってはこの上なく最上の非難の場だったのだろう。
   だが、ユンは分かっていない。
   ユンが独善的であるように、その場にいた連中は、みな独善的だ。おぼろ丸を犯すサンダウン
  を大々的に非難した言葉など、ほとんど耳に入っていない。そして、独善的な人間の声は、基本
  的に届きにくい。
   事実、誰一人としてユンの言葉に振り返らなかったし、名指しされたサンダウンなどは、特に
  何を弁明するわけでもなく何処かに立ち去ってしまった。それを恥じいった為だと思えるユンは
  本当におめでたい。

   サンダウンは、きっと明日、この身体を貫くだろう。自らを拷問する為に。ユンがアキラがど
  れだけ溺れても、あの男だけはこの身体に溺れない。それでも、誰が罵ってもこの身体を犯しに
  くるのだ。

   月が、出ない限りは。

       見上げた月は、やはり歪んでいて、おぼろ丸に憎悪を覚えさせた。