ルクレチアという名のその国は、その名の意に反して荒涼としている。
人の姿はな異形と亡者だけが徘徊する国は、何故『富』を意味する名を冠しているのか疑問に思
うほど、何の実りも求められない不毛の地と化していた。
亡者には何も生み出せないし、森に潜む異形達も一つでも機嫌を違えれば、互いに噛み付き合い
血を流す。共存には程遠いその様子からは、子孫繁栄を願う術はなく、いつの日か彼らでさえこの
国から死に絶えるだろう。
明らかに生態系の狂ったルクレチアで、異国の忍びの少年も、やはり不毛な行為に没頭していた。
最初は、自らを罰する為の行為だった。
後から自らの行いを振り返った少年は、三文小説に出てくるような言葉を紡いだ。事情を知らぬ
者が、いや、知っている者だ聞いても、その言葉は陳腐な言葉であったし、正当性は見当たらない。
それでも、その行為をルクレチアにいる間中続けていたおぼろ丸にとっては、確かにそれは自分
を辱め、罰する為の行為だったのだ。
――ああ、坂本、殿……。
自ら塞いでしまった道を、おぼろ丸は喉の奥だけで呼ぶ。おぼろ丸に向かって、一緒に来ないか
と告げた男は、もうこの世にはいない。日の本の夜明けを望んで、その為に流星のように奔走し、
彼自身が光であった。しかしそれを望まぬ者達の手によって、その光は墜落した。
その日、夜明けの日差しを見て笑っていた男は、宿にいる時に賊に囲まれ、刃の一閃によって額
を割られたのだという。額から血飛沫と脳漿を噴き上げて、それでも言葉を発しようとして、けれ
どもそのまま、自分で汚した床の上に斃れたという。
もしも、その時その場所に、おぼろ丸がいたならば。
夜明けの光を一身に受けたその身体が堕ちる事はなかったのではないか。勿論、おぼろ丸がその
場にいなかった事を咎めるものは誰もいない。坂本の夜明けを共に見る事の誘いの言葉はおぼろ丸
しか聞いておらず、おぼろ丸はその誘いがあった事を誰にも告げていない。
しかし、おぼろ丸を――おぼろ丸だけに限らない、日の本全てを、光ある方向へ導こうとした男
が斃れた事を、それを食い止められなかった事を、おぼろ丸は全力で後悔している。
もしも過去に遡れたなら、おぼろ丸はきっと坂本の誘いに乗ったに違いない。忍びという未来の
ないおぼろ丸にさえ、光を見せた男を、おぼろ丸は命に代えてもも守りきるだろう。それほどに、
生まれた時から――それは運命と言い変えても良い――闇に生きる事を余儀なくされたおぼろ丸に
とって、運命による闇さえ打ち払う坂本は、確かにまだ見ぬ夜明けだった。
だが、その夜明けはもうこの世にはない。
現れた夜明けに、夜明けだと気付かずに背を向けたその隙に、それはもう手の届かない所へと行
ってしまった。それは紛れもなくおぼろ丸の致命的な誤り。気が付いた時にはもう遅く、おぼろ丸
だけではなく、日の本全ての夜明けを見殺しにした罪は、重い。
そしてその罪は、この先永久に裁かれないのだ。坂本は、おぼろ丸が自分の手を振り払った事な
ど一言も責めないだろうから。
罰されない罪は辛い。おぼろ丸は、誰も知らぬ失敗を、誰かに裁いて欲しかったのだ。
でなければ、誰が、男に犯される事を甘んじて受け入れようか。
無論、おぼろ丸には衆道の嗜みがある。幼い頃から忍びとして訓練を受けてきた彼は、忍びとし
て性的な事についても身体に叩きこまれてきた。名のなる大名の護衛を務める時には、時としてそ
ういった相手をする事も任務の内に含まれる事も多々あるし、くの一が身体で対象を籠絡するよう
に、少年にも同様の任務が与えられる。
だが、任務と訓練以外で男を受け入れる事など、有り得ない。
にも拘らず、この薄汚れた国の、同種族同士で殺し合う異形が犇き合う森の中で、おぼろ丸は四
つん這いになって、腰だけを高く持ち上げる屈辱極まりない姿で、男に貫かれている。
抵抗しようと思えばできた。おぼろ丸は忍びだ。隙を突いて、逃げ出す事もできた。それをしな
かったのは、単に自分に圧し掛かってくる男の眼が、自分に似ていたからだ。自分で壊してしまっ
た光に、今になって焦がれて後悔している眼だ。
そして、おぼろ丸自身も、光を自分の所為で失い、それを後悔している。あまりにも身勝手な感
情は醜く、一人で消化するにはあまりも巨大だった。だから、おぼろ丸はまるで蛇蠍を見るかのよ
うな眼差しを向ける男を受け入れたのだ。男もまた、自分自身を罰する為に、おぼろ丸を犯してい
るという事が分かったから。
――けれど、一体誰を。
凍りつくような眼をしている男が、誰を想っているのかなど、おぼろ丸には分からない。男がお
ぼろ丸にその相手を重ねていない事は、おぼろ丸を貫いても萎えたままの男根が物語っていたし、
冷ややかな眼は、どう考えても夜明けを想う視線だとは思えなかった。
おぼろ丸は男にとっては拷問器具であって、快楽道具でさえ、ない。おぼろ丸は男に大切に扱わ
れた事はなかった。
それでも、衆道の嗜みのあるおぼろ丸は、男の乱暴な所業にすら快を覚える。
「ああっ!」
声を上げれば、見下ろす視線がますます忌諱するような眼差しへと変わった。冷えた男の男根は
しかしそれでも、慣れたおぼろ丸にとっては快楽の道具となり得る。びゅくびゅくと精液を吐き出
して、更に腰を振って良い所に男が当たるようにと誘導する。激しく腸道を収縮させ、男にも快を
与える。
それは、おぼろ丸が忍びとして身に着けた技術の一つだ。相手から情報を得る為に、もしくは相
手を油断させる為に、或いは幼かったおぼろ丸が男に貫かれる事に慣れようとして、編み出した身
体の動きだった。
が、にも拘わらず、今、おぼろ丸の背後にいる男は、全くと言っていいほど快を感じていない。
おぼろ丸の腸道に愛撫されても萎えたままのそれは、むしろ眼差しと同じくらい冷ややかだった。
男を体内に招き入れて、そして快楽に身を捩るおぼろ丸にとって、それは少なからずとも衝撃を
受けた。
別に、男の中の夜明けと同等に扱って欲しかったわけではない。しかし、同じ光を失った者とし
ておぼろ丸だけが善がり狂い、男はおぼろ丸を蔑む眼で見ているのは――それが仮に男自身に跳ね
返るものであったとしても、おぼろ丸にとっては我慢ならない事だった。
おぼろ丸は確かに男よりも若い。しかし、その他の連中――同じくルクレチアに呼ばれた少年達
に比べれば、遥かに場数を踏んでいる。少なくとも人を殺す事を知らぬ、甘ったれた連中とは違う。
だが、善がり狂っている様を、最年長者に侮蔑の眼差しで見下ろされるのは、自分も甘ったれた子
供と同じであると告げられているように感じた。
むろん、そうした侮蔑を孕んでいるからこそ、この行為がおぼろ丸にとっての罰となる。しかし、
同時に、おぼろ丸は忍びとしての自負――悪く言うなれば、傲慢さがあった。血の味を知らぬ、平
和ボケした子供達とは違うのだ、と。そしてそれを打ちのめされる事が罰だとでも言うように、男
は自らは快を得ぬまま、男に貫かれて悦ぶおぼろ丸を見下ろしている。
せめて、男も、自分の中で善がってくれたなら、おぼろ丸も苛立つ事はなかっただろう。
しかし、やはり男はいつもと同じく、おぼろ丸の中に体液一つ残さずに出ていってしまう。荒い
息を吐いて、涙越しに男を振り返れば、本当に快を得ていないらしく、男は後処理一つせずに身支
度をしていた。
そして、おぼろ丸はといえば、確かに射精はしたものの、しかしまだ勃起したままである。中途
半端に枯葉の上に放置され、しかもその後男がおぼろ丸に手を差し伸べる気配はない。それどころ
か、おぼろ丸など見えていないかのように、さっさと何処かに立ち去ってしまう。
男が互いにとっての拷問行為の後、さっさと何処かに行ってしまう事は、いつもの事だ。もっと
言えば、おぼろ丸が達してもいないのに、それを放置してしまう事も。
その理由に、おぼろ丸は気付いている。
――やはり、月が。
薄汚れて光さえ届かぬような夜の闇に、時折現れる月。おぼろ丸が知るどの月とも違い、酷く歪
んだその形に、おぼろ丸は身震いした。
忍びにとって、夜は仕事を意味する。同時に、永遠の牢獄を。忍びの者は決して里から抜け出せ
ず、抜けようものならば制裁が下される。故に忍びの職を連想させる夜、ひいては月は、決して逃
れられぬ牢獄を意味する。だから、おぼろ丸は夜明けに焦がれているのだ。
しかし、夜明けではなく、月の光の前で、罰する事を止める、あの男は。
おぼろ丸は見てしまった事がある。あの男が、月を眺める眼差しを。それは心底、誰かを想う者
の眼差しだった。遠い昔、父か母かが、同じような眼でおぼろ丸を見ていた事があった。それほど
深い、情。
だが、おぼろ丸にとって、それはおぞましい事のように思えた。情を持つ事が、ではない。その
情を、月という牢獄に向けることが、だ。
あの男に、それほどまでに想われている相手と言うのは、夜明けではないのかもしれない。月の
ように、永遠に冷たい牢獄なのかもしれない。それを失って後悔するという気持ちは、おぼろ丸に
は分からない。
月の光のおぞましさに身震いしながら、おぼろ丸はよろよろと未だ快感の抜けきらない身体を
起こす。ずるずると身を起こし、そして木々の間に声を掛けた。
「どうされた?」
その瞬間、はっと息を呑む気配がした。
ずっと気付いていた。行為の間中、ずっと。おそらく、あの男も、気付いていたに違いない。木
々の間から、罰が悪そうな表情で出てくる、少年――ユンの事に。
ユンは硬い表情で、そしておぼろ丸の四肢から僅かに眼を逸らしながら、おぼろ丸に近付いてく
る。
「大丈夫、ですか?」
戸惑いがちに少年は声を掛ける。震える手をおぼろ丸に差し伸べ、呟く。
「なんて、酷い事を……。」
零れた非難の声に、おぼろ丸は嗤いたくなった。そんな事を言うなら、行為の真っ最中に飛びこ
んで来たら良いものを。それをせずに、最後まで見ていたユンが、一番卑怯だろうに。それに、行
為を見て興奮している事は、ユンの赤く熟れた唇からも明白だった。ユンはそれが夜の闇に紛れい
ていると思っているのかもしれないが、生憎と夜目が利くおぼろ丸には、はっきりと見えている。
手当てを、と呟くユンを腹の底で嗤い、代わりにできるだけ穏やかな口調で告げた。
「拙者は構わぬ……それよりもアキラ殿は?」
この世界に蟠る妄執によって、一番衰弱している、軟弱な少年の名を告げれば、ユンは再び罰が
悪そうな顔をした。
「アキラさんなら、日勝さんに任せてきました。」
その言葉に、おぼろ丸は今度こそ哄笑しそうになった。あのひ弱な少年を放っておく事が危険で
ある事は誰が考えても分かる。亡者達の怨嗟を聞いたアキラは、寝ても覚めても続く呪詛の回廊に
放り込まれ、神経を衰弱させていた。それを見兼ねたユンが、世話をしていたのだろうに。
そのユンは、アキラを放り出して――事もあろう事か日勝に世話を任せて、此処に来た。日勝に
アキラを思い遣るだけの余地があるとは思えない。力で相手を薙ぎ倒す者に、精神の脆さは理解で
きないだろう。それはユンも分かっているはずだ。しかしそれに眼を瞑って、彼は此処にやってき
た。
おぼろ丸を、目的として。
まるで純朴を絵に描いたような少年だ。
しかし、その少年が、毎夜自慰行為を行っている事を、おぼろ丸は知っている。それが誰を想っ
てのものなのかは知らないし、興味もない。だが、この少年は、今はおぼろ丸に欲情しているのだ。
果たしておぼろ丸に貫いて欲しいのか、おぼろ丸を貫きたいのか、それは知らないが。
どれだけ純真な顔をしていても、所詮はそういうものだ。
腹の中で大笑しながらも、おぼろ丸は自分が未だに欲を満たしきれていない事に、薄い笑みを浮
かべた。そして、その笑みを僅かに貼り付けたまま、ユンを見つめた。