心臓の裏側から魂全てを込めて叫んだ声は、ただ、その場に響いただけだった。
魔王が席巻する世界は、相変わらずくすみきっており、空には一条の光すら差さない。サンダウ
ンの叫び声など聞こえていないような表情で、ルクレチアは生命を一つ一つ潰していくだけで生み
出す事をしない。
神の加護も、救世主の光臨も、何一つとして望めない。
それは、とてもとても当然の事だった。神に見放された火と硫黄の大地で叫ぶ者は、穢れた者で
しかなく、神が声を聞き届けることは有り得ない。
その事実を嘲笑うかのように、一番神の加護を得られないであろう魔王オルステッドは、鈍らな
剣を地面に突き刺して叫んだ。
「分かっただろう。お前達がどれだけ叫んだところで、この世界の外側には届きはしない。」
この世界は、完全に閉じた檻だ。異形のものだけが蔓延り、しかしそれらもまた互いに殺し合う
事で潰えていく。そうして残るのは、人間を止めた卑怯な魔王達だけだ。彼らは互いに殺し合って
も、既に人間でないが故に、殺す事も、殺される事も出来ない。
生の暴力的な光を見る事も叶わず、死の安息の闇に沈む事もできない。この国にあるのは、ひた
すらに盲目な虚だけだった。声を届ける空気さえ、止まっている。
「そして、お前達に声を届ける者もいない。」
お前達の帰りの望んでいる者は何処にもいないのだ、と。繰り返し言い聞かせるような魔王に、
百足に浅く身体を切り刻まれた少年が、ようやく反論した。
「そんな事はない!僕達の帰りを待つ人は、いる!」
ようやく反論したのは、一人の偽善者だけだった。心を読み過ぎて壊れた少年は、頬を縫い止め
られてひくひくと動くだけだったし、淫婦のほうはと言えば、切り刻まれても何故かうっとりとし
た表情を浮かべている。
「お前に、分かるものか!僕達の世界の事など、何も知らない癖に。僕には大切な人達がいた!彼
らは僕が帰ってくる事を待ち望んでいる!」
「けれども、それは死者だ。」
オルステッドは、ユンの心からの叫びを、一瞬で否定した。
「お前の言うのは、所詮は死者だろう。死者に、道を開くだけの力があるとでも言うつもりか?」
そう言って、魔王は口から舌の代わりに剣を出している顔達を見下ろす。
「これらは皆、私が殺したこの国の人間だ。やすやすと人を持ち上げて、期待にそぐわねばすぐさ
ま叩き落とす。そんな人間どもだ。もしも彼らに、死して尚、道を開くだけの力があれば、此処
でこんな醜態を曝しているわけがない。」
しかし、実際は眼の前にある通りだ。ルクレチア国民はオルステッドに魂を投獄され、絶え間な
く凌辱され、オルステッドの意のままに動く性奴隷と化している。
「死者とは所詮、その程度のものだ。生きている私に、勝てるはずがない。だから、お前の言う、
お前の帰りを待ち望む者達も、此処には辿りつけないのだよ。」
仮に辿り着いたとしても、すべてオルステッドに飲みこまれて、凌辱の限りを尽くされて此処に
いる血肉の塔に同化しているだろう。
「そんな事を考えるよりも、そこに転がる淫婦のように、此処で愉しむ事を考えた方が良い。」
身体を切り刻まれても何故か笑みさえ浮かべているように見えるおぼろ丸の姿は、まるで男に犯
されている時のように蕩けきっている。完全に人である事を諦めた表情を曝すおぼろ丸に、盲信的
なユンも言葉を失ったようだった。
「お前、嬉しいんだろう?」
声をかけられぬユンに代わって、オルステッドが問えば、おぼろ丸はゆったりと頷いた。
「そう……拙者は、この上ない悦びの内にある。もはや、誰一人として救われぬ事が、悦ばしい。」
呟くおぼろ丸の眼には、狂気すら浮かんでいない。ただただ、オルステッドに近い虚があるだけ
だった。
どうやら、もはや自分が救われぬ事を悟ったおぼろ丸は、しかしその絶望のうちに自分以外の人
間も助からないという悦びを見出したようだった。希望の形を知らないおぼろ丸には、戻りたいと
願う意志も他の其々に比べれば希薄で、その職業上、心底からおぼろ丸の帰りを望む者はいない。
一番、道を見出せぬ彼は、一人置き去りにされる可能性が高かった。だが、切れた蜘蛛の糸は、
もはや誰にも絡んでいない。
同じく闇に沈むしかない者がこれほどに大勢いる事が、悦ばしい。
そんなおぼろ丸を見て、オルステッドも嬉しそうに笑う。
「そうだとも、それこそが、正しい。一人で助かろうとする愚か者など、いてはならない。当然だ。
そんな裏切り者は、いらないんだ。」
オルステッドはちらりと、ひくつくアキラを一瞥する。その身体にはじわじわと亡者達が再び集
まり、凌辱を求めている。もしも今、オルステッドが是とすれば、アキラは頬を貫かれながらも、
凌辱による快楽の渦の中に呑み込まれるだろう。
「まあ、彼が一番帰り道に近かったんだけれど。けれど、あの状態ではもう帰れないだろうな。」
貫かれて悦ぶ身体は、奥に叩きつけられる快なしで生きていけるだろうか。例え亡者の手から逃
れたとしても、この先貫かれる悦びを探し求めるに違いない。
帰れもしないし、帰ったところで望みは何処にもない。望みを持たぬ者は、やはり望みの潰えた
世界で生きるべきだ。
「だから、お前も諦めたらどうだ?」
オルステッドは、未だに銃を掲げているサンダウンを睨み据えた。既に魔王に成り下がっている
サンダウンは、しかし銃を掲げる手を下ろさない。身体のほとんどは崩れて動けないだろうに、右
眼でオルステッドを見据えて、恐ろしいほどの嘆願を浮かべている。その嘆願は、むろんオルステ
ッドに向けられているのでない。
此処にはいない、人の世界に生きる人に向けられている。だが、彼は既にサンダウンを諦めて、
顔を背けてしまっている。一度消えた月は二度と戻らない。奇跡とは起こり得ないからこそ、美し
いのであって、再び起きる奇跡などは存在しない。奇跡は二度も起こらないのだ。
「同じ引き摺り降ろされた英雄の誼で、お前には人形を与えてやっても良い。」
同じ黒い髪と黒い眼をした人形を。良く啼く人形を。
「………いらん。」
「ふん、どんなに喚いても無駄だ。此処から出る事は、例え死んでも出来ない。死んだ魂は、此処
で未来永劫、凍りつく。だから、諦めて、此処で悦ぶ方法を選んだほうが良い。此処での叫びは
神にさえ届かない。」
「……神など。」
サンダウンは神に聞き届けて欲しいわけではない。
叫び声を聞いて欲しい人間は、この先、一人しかいないだろう。それの代わりが何処かにいるは
ずもなかったし、まして聞き分けの良い啼き人形など欲しくもなかった。
「だが、その望みは誰にも届かない。分かっているだろう?人間に諦めた魔王が、分からないはず
がない。」
「……まだ。」
まだ、全てを諦めたわけではない。でなければ、これほどに焦がれるはずがない。そう、あの乾
いた不毛の荒野は、けれどもまだ美しかった。行き交う人々は、自分勝手だったかもしれないが、
だが、それを守りたいが為に英雄の座を自ら降りたはずだ。決して諦めて、呪う為に堕ちたわけで
はない。
「……聞き分けのない男だな……!」
「うる、さい………!」
左眼が疼く。真っ暗なそこで、背中が遠ざかっていく。早く、追いかけなければ。追い掛けて、
その手を取って、引き寄せて、今度こそ抱き締めて。
「いい加減に諦めろ!」
オルステッドが顔を歪めて、サンダウンの喉元目掛けて、鈍らだった剣を突き立てる。先程は、
剣士を疑いたくなるほどのでたらめな動きだったのが嘘のように、まさにルクレチア一の剣士の名
に恥じぬ動きで、剣を構えて素晴らしい速さで地面を蹴って肉薄する。
これ以上、サンダウンが如何なる声も出せぬよう、その喉を目掛けて。
しかしそれよりも早く、見えない眼で遠ざかる背中を見ていたサンダウンの口からは、ようやく
その名前が零れた。
「………―――マッド!」
ふっと、遠ざかる背中が立ち止まった。しなやかな背中が、何か戸惑うように揺れたかと思うと、
ゆっくりと振り返る。瞳にあったのは、サンダウンが予想していた怯えや嫌悪ではなく、何か怪訝
な表情だった。その眼が、ゆっくりと大きく見開かれ、驚愕の様相へと変貌する。
「キッド?」
届いた声は、幻というには、余りにも本物に近い声をしていた。その肉声にサンダウンのほうが
戸惑っていると、マッドは幾分か蒼褪めた表情で、足早にこちらに近づいてくる。その足取りは小
走りになり、いつしか全力でこちらに向かっていた。
その背中には、突き抜けるような青空が背負われている。
近付く気配から乾いた風の匂いがする。
「……っ行かせるな!」
ぴしり、と何かが割れる音が確かに聞こえた。それを掻き消すように、オルステッドが叫ぶ。そ
のオルステッドの身体にマッドの気配が重なり、オルステッドの気配を砕くようにして駆け寄って
くる。
まるで、サンダウン以外の存在は、見えていないように。
自分の背後で剣を振りかざそうとしているオルステッドにも、気付いていないようだ。
「それを壊せ!それこそが、我ら魔王の不和の種だ!」
世界の縁を、砕く者。
声を聞き届ける者。
そして、ただの人間。
マッドを軸にして、閉ざされていた世界の扉が押し開かれる。懐かしい乾いた空気が漂い、マッ
ドが歩く道から、乾いた砂の大地が咲き誇る。背丈の短い草が揺れ、甲高い鳥が力強く鳴く。天蓋
を流れる雲が早いのは、嵐が近付いている所為か。慌ただしい人の声と、馬の嘶きと、銃声と、グ
ラスの触れ合う音と。捲るめく変化が、くすんだ世界に一度に叩きこまれる。
マッドがはっきりとサンダウンを見つめた。その所為か、噴き零れる光の色は、滲むような月の
光とは比較にならない。荒れ狂う凶暴な生の光が、サンダウンを激しく叱咤する。みしみしと、ル
クレチアを砕くほどの、奔流。
途端に弾かれたように動いたのは、うっとりとしていたおぼろ丸だった。痩せた身体を跳ね上げ
て、刃を構えて隼のように疾走する。おぼろ丸の眼にあったのは、激しい焦りだった。
途切れた蜘蛛の糸が再び紡がれた。それはサンダウンを人のいる世界に引き上げようとしている。
しかしそれにおぼろ丸が絡む余裕はない。マッドはサンダウンしか見ていないし、サンダウンもマ
ッドしか求めていない。二人の間でだけ紡がれた糸に、他人が割り込む隙はない。
それは、この世界に閉ざされる運命しかないおぼろ丸にとって、どうしようもない裏切り行為だ
った。希望を知らないおぼろ丸には、糸を紡ぐ相手がいないのに。
焦りのあまり、おぼろ丸が思ったのは、サンダウンとマッドの間にある糸にどうにかして自分を
絡めようという考えではなく、その糸を完全に断ち切ってしまおうという事だった。オルステッド
と同様に、救いを求めても救われない彼にとって、誰かが救われようとしている光景は、拷問でし
かない。
だから、その苦しみを断ち切る為に、鳥のように駆け寄って、希望とやらの首を掻き切ろうと
する。
マッドの首筋を刎ね落とそうとしているおぼろ丸に、マッドは気付かない。いや、もう彼らは、
人間の眼に映る事さえ出来ないのかもしれない。
しかし、マッドを見据えるおぼろ丸とオルステッドの眼にはマッドの姿は見えており、マッドの
身体を血祭りにしようと、希望という、全く関係のない者にとっては不快でしかない人間に、ぎら
つく刃を降り降ろそうとしている。
「分からないのか、その人間一人がいなければ、おぼろ丸は壊れずに済んだ!悪戯にこの世界に光
を落とし、そして混乱を齎した。その結果、おぼろ丸は傷ついた!」
その言葉にはっとしたのは、未だに盲信を抱くユンだ。おぼろ丸が絶望するに至った原因を聞か
され、愛やら恋やらで歪んだ眼を、マッドに向ける。そして、マッドに落ちかかる不吉な影に混ざ
っていく。
今や、混ざる影はユンだけではない。オルステッドに隷属する亡者共も、それに心を明け渡した
アキラも、どろどろと混ざり合ってマッドの無防備な背中を引き裂こうとしている。きっと、マッ
ドの身体は立ちどころに喰い尽くされ、略奪されてしまうだろう。
思い浮かんだ血に濡れた襤褸雑巾のようなマッドの身体は、最後の夜に見た凌辱の跡を思い出さ
せた。それこそが、サンダウンにとっての最大の罪だ。それを裁くのは、マッドしかいないのに、
そのマッドを、裁きの刃など持たない連中が、奪い尽くそうとしている。
「っ………止めろ!」
叫んだ声は、言葉にさえなっていなかったかもしれない。ただ、刃を振り下ろす魔王二人が、こ
の上なく、許せなかった。いや、許せないとかそういう事さえ考えられなかった。
頭の中全てが、二度とマッドを失いたくないという衝動で満たされていた。
その衝動のまま、銃の引き金に指を掛ける。
瞬間、マッドの表情が一瞬強張った。自分が撃たれるとでも思ったのかもしれない。だが、表情
が強張っただけで、その歩みは止まらない。その澱みない足取りの背後で、今にも血濡れた刃を振
り降ろそうとしていた、魔王の喉笛と両腕が、血煙りを上げて引き裂かれた。
滑空してマッドの喉を掻き切ろうとしていたおぼろ丸はそのまま地に堕ち、オルステッドは仰け
反って倒れる。
サンダウンの銃弾は、違える事なく、魔王を撃ち抜く事に成功していた。
だが、彼らが墜落して地面に叩きつけられる瞬間を、サンダウンが最後まで見る事はなかった。
銃を掲げたサンダウンを錯乱したとでも思ったのか、だがそれを恐れずに近付いたマッドは、両
腕を広げてその頭を抱き締める。
そして、耳元で囁いた。
「もう、大丈夫だから。」
子守唄のように穏やかな声音に包まれて、サンダウンは自分の心臓への裁定を、その声に委ねる
事にした。
その背後で、何処か遠い世界の扉が、重く硬く、そして幾つかの呪詛を残したまま、閉ざされた。