血の色をした哄笑は、ありとあらゆる場所から聞こえた。空気の一粒一粒から砂の一粒一粒まで。
地面の底からも聞こえれば、空の果てからも降りかかる。身体を覆い尽くす大気全てが叫び、身体
の奥底からも張り裂けようとしている。
喉の奥から吐き出されようとしているのかと思うほど、間近で、そして全てから聞こえたそれは、
声の圧力だけで木々を薙ぎ倒し、土塊を巻き上げ、世界を更に澱んだものへと変貌させる。
幾万の嘲りは、流れ落ちた朱からさえ湧き起こった。
いやむしろ、それこそが。
あちこちに堕ちた身体から、じわじわと染み出した血が、まるで沸騰するかのように泡立ち始め
た。弾けては膨れ上がり、そして弾ける。地面に吸い込まれずに、幾筋もの川を作った赤は、一箇
所に集まっては沸騰を繰り返す。
泡が弾けるたびに、ぼこ、ぼこ、と両生類の鳴き声のような音が響く。その音だけでも十分に不
気味だというのに、それを起こしているのが何処にも受け止められない凍えた血である事が、いっ
そう不快感を増した。
だが、それを不快であると感じたとしても、そこから逃げ出す事が出来る者は、何処にもいなか
った。仮に逃げ出す気力があったとしても、土塊や枯葉を巻き起こしては樹木を薙ぎ倒す荒れ狂う
哄笑は止まらず、それらは複雑に絡み合っては強固な茂みを作り上げて、逃げ道を奪っていく。
その中央で、渦巻き、泡立ち、そして激しく波打っては飛沫を上げるのは、流された血の赤だ。
旋回して、まるで炎のように燃え立つそれは、悲鳴にも似た嘲笑を上げながら、高く高く舞い上っ
て何かの形を作り始める。
そう、例えば、人間のような。
しかもそこから明らかに垂れ流されている、このルクレチアと呼ばれる世界そのものの気配に、
サンダウンは残る右眼に絶望を込めた。
じゅくじゅくと広がる血には、サンダウンの左眼があったところから零れてたものも混じってい
る。おぼろ丸の千切れた指を食いつくすように流れた血もあれば、ユンの両膝を砕いて噴き上げた
ものもあり、アキラの頬を貫いたクナイを溶かすように流れたものも混ざっている。
それらが混ざり合って、泡立って破裂するたびに蟲の牙のような縁を作り、そこから哄笑が聞こ
えるだけでもおぞましいのに、更にその中に人の影がちらついている。その影が放つ気配は、この
腐敗した世界そのものだ。
その人影を作り上げている血の中に、自分の血が混ざっているという事は、サンダウンを打ちの
めすには――例え幾許かの予想はあったとしても――十分すぎた。腐敗した世界の気配を作り上げ
てしまったという事は、この腐敗が僅かなりとも、紛れもなく自分の身体の中に流れている事が、
はっきりと示されたからだ。
塔のように立ち昇り、その壁面にぼこぼと泡を作る血は、しかし今度はその泡を弾けさせなかっ
た。膨れ上がった泡の一つを見れば、それが縮むような動作をしたと思った瞬間に、そのつるりと
した表面の一部を膨れさせ、或いは一部を凹ませる。まるで泡の中で何かが蠢いているかのような
様子だったが、しかし不意に、それが何なのか分かった。
中央に小高く出来上がった瘤。その下で薄く二つに分かれた瘤。そしてまるで瞬きするように回
転する瘤。いや、それは瞬きするようにではなく、瞬きそのものだ。
それは、顔だった。
血の塔の壁面に、幾つも湧き起こった泡には、今や幾つもの瘤や皺や凹みが生まれて、無数の顔
を形作っている。どす黒い顔は、男もいれば女もいた。老人もいれば子供もいた。ただ、全員が一
様に呆けたように口を開き、そこから細かな牙を覗かせている。そしてぽっかりと開いた口腔から、
甲高い嬌声を上げている。
あまりにもおぞましく、吐き気さえ込み上げるそのオブジェに、サンダウンは悲鳴を上げそうに
なるのを堪えて銃口を掲げる。
だが、それを嘲笑うように、顔の塊と化した自分達の血の塔は、その両脇からずちゅっと音を立
てて、一際大きな瘤を産みだした。そして、塔の頂点からももう一つ。
闇に近い赤は、血よりも肉塊の色に似ていた。それが何の警告もなく一気に弾け飛ぶ。そこから出
てきたのは、まるで何かの内臓にも似た、細長く所々に縊れのある、何かの器官だった。表面に小
さな穴のあいたそれは、そこから煙のような白い湯気を勢いよく噴き上げ続けている。悪臭のする
それの中で、瘤の中から花開いた2つの翼が広がった。
そして、塔の頂点には、肌に血を赤い線のように走らせた一体の完全な身体があった。鬱金色の
髪が、ひらひらと嬌声の中で舞っていた。肌は白よりも日に焼けて褐色に近く、何処にでもいる普
通の身体だ。特別、何か秀麗なわけでもなければ、取り立て醜いわけでもない。
だが、その中で光る一対の眼に、サンダウンは何よりもおぞましさを感じる。
そこに嵌めこまれていたのは、ぬばたまの、虚ろだった。
――この人を、見よ!
――これこそが、魔王!
――勇者にして魔王オルステッド!
――ルクレチアの憎しみを一身に背負うオディオ!
――凌辱と退廃を望む者!
――この人こそ、この人こそ!
嬌声が、一斉に名を呼んだ。呆けた口から、歓声のように沸き起こる。それに答えるように、鬱
金の鬣に、赤の縞模様を付けた獣が、吠えた。
高らかに誇るように。
「見るがいい、これこそが人間のなれの果てだ!如何に希望を持ち、勇気を持ち、愛を得て名声を
得ても、所詮はこれこそが人だ!」
眼の前から信じる者が消え失せれば一瞬にして懐疑的になり、疑心暗鬼になり、そして他人の事
など考えない。
相手を蔑み、独善的になり果てる。それは人間達が想像する、魔王像そのものだ。それは間違い
なく人間そのものだ。そしてそれが、魔王を生み出すのだ。
嬌声のような笑い声を上げる赤い竜は、眼の前にいる自分の仲間――人間を諦めた徴を持つ者達
を睥睨する。見つめるだけで盲目になりそうな瞳は、そこにどんな感情が込められているのかさえ
分からない。
「滑稽だ!滑稽だとも!まるで全てが私の思っていたとおりに動いた。むろん、英雄と呼ばれた君
達が、この腐敗の園の運命を変えるのではないかとも思いもしたが、それは所詮は幻想だった。
君達は、英雄と呼ばれるよりも、魔王の名こそ相応しい。」
欲望を剥き出しにした諍いを全て見てきたというオルステッドは、身体の下で蠢く顔達の一つを
血肉の塔から抉り取り、呆けた顔を敵将の首を取ったかのように掲げ持つ。その顔が、アキラを犯
した亡者である事は、サンダウンは知らない。だが、抉り取られた顔は、それだけで絶頂を迎えた
ような恍惚とした表情を浮かべた。
その顔を嘲るように眺めやっているオルステッドに、横合いから高い悲鳴が放たれる。
「こ、これは皆お前の仕業だっていうのか!」
サンダウンに両膝を撃ち抜かれて無様に転がっていたユンが、痛みの甲高い喘ぎと一緒に言葉を
吐く。
「お前が、皆を操って、こんな事を……!」
少年のあくまでも他人に何かを押しつける言葉に、魔王は身を逸らせて嗤った。何かを吐き出す
かのように大口を開け、眼には涙さえ浮かべて、嗤う。
「操る?私は此処にお前達を連れてきただけだよ?それ以外にした事と言えば……そうだな、こい
つらに、そこにいる土足で他人の心を荒らす子供をお仕置きするように言ったくらいかな。」
掲げた顔をゆらゆらと揺らし、彼はいっそ穏やかでさえある声でユンに告げる。
「それ以外、私は何もしていないよ?君が、そこで指をばら撒いている自意識過剰な子供に恋をす
るように仕向けた記憶もなければ、その子供に誰かを誘惑するようになんて呪いを掛けた覚えも
ない。君達は自分で勝手に破滅の道に歩いていったのさ。」
「僕達に、じゃない!そこにいる、男に、だ!」
尻もちを突いた無様な状態で、ユンは腕を振り回し、その指でサンダウンを示す。その指の示す
方向をわざとらしくゆっくりと見て、魔王は、破顔した。
「ああ、その男にこそ、何も、していない。」
だって、その男には、明らかに希望があったから。
「私はね、自分の世界に希望を持っている者には、どんな事もできないのさ。幾分の疑いも、自分
の世界に持っていない者には、指一本触れられない。くすんだ世界だって、弾け飛ぶ。君や、そ
こにいる淫婦のように、この世界に少しでも惹かれたのなら、世界は澱んだままだったのだろう
にね。」
希望を知らないおぼろ丸には、この世界は澱んだままだった。そのおぼろ丸に惹かれたユンにも、
世界はくすみ切っていた。
「なのにこの男ときたら、自分の世界から眼を逸らさない。逸らさないように、その淫婦を犯しさ
えする。おかげで、閉ざしたはずの世界に道が出来てしまった。」
そして魔王は天を仰ぐ。だが、そこには今は何もない。有るのは、魔王の眼と同じ、盲目になり
そうにくすんだ夜空――いや、夜空と判断することさえ、難しい。先程までそこで、怯えたように、
けれども静かに光煌めいていた月は、影も形もない。
「だが、見るがいい!道は再び閉ざされた!憐れだ、全く以て。あれほどまでに、エベソの教会の
ように耐え続けたのに、最後に光から離れてしまった。魔王になるまいと足掻いていた癖に、最
後の最後で、世界に戻ろうとして魔王になった。その瞬間に、お前の世界はお前から離れてしま
った。」
サンダウンを指差し、魔王は心底憐れみの表情を浮かべ、しかし口元にはしっかりと嗤笑を浮か
べて、サンダウンの功罪を記した杯をぶちまける。サンダウンが既に知っている絶望の名を、明白
にする。
サンダウンは、この世界と同じ衣を纏った事で、元いた世界から見放されてしまったのだ。あの
荒野の広がる、それでも生命のある世界には、この身体は受け入れられない。扉は閉ざされ、閂は
下ろされている。
それでも銃を掲げもつサンダウンに、オルステッドは憐れみを消さぬまま言った。
「そんな事をしても無駄な事は、さっきお前が悟ったばかりだろう?此処にいる者は、此処にいる
者では殺せない。命のない、人間を諦めた人間が、同じ人間を諦めた人間を殺せない事に、気付
いているだろう?」
「………黙れ。」
「おや、話し合いは嫌いかな?奇遇だ。実は私もそうなんだよ。もともと剣を振る事のほうが好き
でね。」
それが高じてこの国の人間も最後は全員斬り落してやったよ。
嗤うオルステッドの顔に、サンダウンは今度こそ銃弾を叩きこんだ。しかし、めり込んだ鉛玉は
オルステッドの笑い顔を止めない。それどころか、オルステッドは掲げていた顔の口の中から、剣
を一振り取り出すと、それを構える事さえせずにサンダウンに斬りかかってきた。その動きに伴っ
て、血肉の塔から映えた羽根が唸り声を上げて旋回し、あちこちに肉塊を広げていく。
口を開いて唾を飛ばし、嗤う事を止めない魔王は剣を振るう。それは型も何もない、まるででた
らめな刃だった。しかしそれを補うかのように、広がる血肉に咲いた顔の口の中から、何本もの剣
が突き出して、それがやはりでたらめに空を薙ぐ。そして、剣が振るわれる度に、顔からは悲鳴と
も嬌声ともつかぬ声が鳴り響いた。
百足の脚のように波打ちながら振るわれる剣は、精度は低いがその量故に、血の花を咲かせる。
逃げ出せないアキラやユン、逃げ出す気もないおぼろ丸を掠めるように傷つけては、薄い血の線を
何本も付けていく。
そして、唯一逃げる事のできるサンダウンは、額に鉛玉を貼り付け、そこから血以外の液体を零
しているオルステッドの刃に追われていた。剣士だったという事が嘘のように、粗だらけの剣技は、
しかし何度サンダウンがその腹腔や心臓に銃を撃ちこんでも、止まらない。もはや血染めの魔王は、
それさえも愉しくて堪らないというように、時には自分で自分の身体を傷つけている。
「無駄だ、全て、無駄だ。だって、ほら。」
オルステッドは殺し合う事は出来ないと嘯き、それを証明するかのように、ひらりと手を閃かせ
た。途端に、でたらめな動きをしていた百足が、先程までの気だるげな動きが嘘のように統一され
た動きで一斉にサンダウンを取り囲み、一気に剣を突き通す。
「か……は……っ。」
思わず、本気で苦鳴が漏れた。
百足の剣は、一度に数十本の塊となって、サンダウンの身体に向かった。それらをどうにか見切
って避けたのは、サンダウンにしか出来ない芸当だったかもしれない。だが、左眼を失った視界は
全てを見切る事は出来なかった。
たった二本。
数十本のうち、たったの二本を、見落とした。その二本の剣は当然の事ながら鋭い閃きとなって、
嬉々としてサンダウンの身体を貫いた。右肩と、左脇腹を。ずぷり、と身体に入り込んだ冷たくも
鋭い異物に、内臓が鷲掴みにされ、胃液が逆流する。
「なんだ……まだ、痛みはあるのか。けれど、もう遅い。」
口からだらだらと黄色い液を吐くサンダウンに、オルステッドは冷ややかに告げる。
「今更、道を閉ざそうと思っても、それはできない。何せ、こちらからは道は開けないからね。そ
して向こうから道を開く事もできない。道は、こちらと向こう、両方で望んでようやくできる。
お前達が帰りたいと望むだけでも、あちら側が帰って来て欲しいと望むだけでも、できない。」
放たれた魔王の言葉に、サンダウンは眼を見開いた。思わず苦痛を忘れて、魔王を見やれば、魔
王は、その顔を予想していたように嘲笑する。
「そうだ、お前の帰りを待っているものがいた。あちらの世界に。けれどもお前はそれを手放した。
もしも、お前がそれに恐れもせずに手を触れていたのなら、まだ繋がっていたのかもしれないけ
れど、お前はそれを信用しながら、けれども裏切りを恐れて手を出さなかった。」
一言でも、名前を呼べば良かったのだ。一度だけでも。そうすれば世界と繋がっていたのかもし
れないのに、それをしない事で世界がサンダウンを諦めてしまった。
あの夜以降、逢えない日が続いた。もう諦めたのだと思っていた。度重なる凌辱に耐えかねて、
諦めたのだと思っていた。サンダウンは辱める為の言葉しか告げなかった。それでも追い縋る指に、
それは復讐の為かそれとも淫乱な身体を慰める為かと問うただけだった。本当は、そんな答えが欲
しかったわけではない癖に。本当は、そんな事はどうでも良くて、ただ傍にあれば良かっただけの
癖に。
一度の失望で他人に期待する事を恐れて、手に入れる事に怯え過ぎていた。
月の一滴にさえその影を思い出していた癖に、他の誰の身体でも熱も色も快もを感じない癖に。
貫かれた左眼の向こう側で、遠ざかる背中が滲み出た。その肩越しには、何も見えない。それで
も、その腕を捕まえて、肩を引き寄せて、抱き締めたかった。
もしも、まだ、少しでもサンダウンに何かを期待していると言うのなら。この首にかかった賞金
でも、何でも良いから、まだ何か期待してくれているのなら。
「無駄だ。」
「黙れ………。」
「もう、世界は閉ざされた。お前達は此処で未来永劫、のたうち回るんだ。」
「黙れ………。」
「お前が望むなら、それに似た人形でも作ってやろうか?それを犯して愉しむか?それとも、私が
お前の眼の前で、それを犯してやろうか?」
「黙れ………!」
刃に貫かれたままの右肩を動かし、サンダウンは銃を無理やり掲げると、狙点も合わす事が出来
ないままそれでも引き金を引いた。真鍮の銃口は、すぐに掻き消える小さな炎を灯し、それでもオ
ルステッドの喉元を撃ち抜いた。
それでも何か叫ぼうとする口腔に、もう一発撃ち込む。オルステッドの延髄から、勢いよく血と
透明な液体が混ざり合いながら噴き出る。だが、魔王の行進は止まらない。しかしそれと同じくら
い、サンダウンが撃ち込む銃弾も、絶え間ない。撃ち込んでは、銃弾を再装填し、そして撃ち込む。
それを繰り返す。
「無駄だと、言っているだろう!お前達の穢れた身体は、この炎と硫黄の湖から、出られない!も
う他の世界では生きていけないし、誰もお前達など受け止めない!」
「黙れと、言っているだろう………!」
口腔から血泡を飛ばしながら怒鳴るオルステッドに、サンダウンも胃液を抑え込んで怒鳴り返す。
流れ出る血は止まらないし、その血が凍えた布のように覆い被さって、酷く冷たい。流れ過ぎた血
が足を捕えて、立ち上がる事もままならない。
それでも、叫ばねば、気が済まなかった。
自分の声が届かない声である事は知っている。それでも、世界の枠にぶつかって砕けても、叫ば
ずにはいられなかった。
「私は、元の世界に、戻りたいだけだ!」
戻った瞬間に、冷えた世界と同化したこの身体は塩の柱になるかもしれない。穢れたものとして
炎の池に投げ込まれるかもしれない。あらゆる災いが降り注ぎ、火で焼かれるかもしれない。
それでも、ただ、もう一度だけ、彼に逢いたかった。