マッドはむっつりとしていた。
  理由は色々ある。
  人間の街に降り立ったら、羽根を奪われてしまった事だとか、その結果、むさ苦しいおっさんに
 擦り寄られ、そのおっさんの住処にしばらく逗留しなくてはならなくなった事だとか、おっさんの
 住処がおっさんらしく非常に小汚かった事だとか、おっさんと一緒に暮らすようになってから、ち
 らちらと人間どもに様子を窺うかのような視線を向けられるようになった事だとか。
  なお、マッドに視線を向ける最たる物体であるおっさん――サンダウンについては、まあ良いと
 する。
  いや、基本的には全然良くはないのだが、サンダウンはマッドの呪いを受けている為、マッドに
 も何をどうする事も出来ない。無表情で嬉しそうにマッドを見るおっさんを、放置する以外に手立
 てらしい手立てはなかった。
  しかし、呪いを受けてマッドに対して能動的に動きたがるおっさんは仕方がないとして、その他
 の人間については、マッドは文句を言いたい。
  別に、マッドとて好き好んで薄汚れたおっさんと一緒に暮らしているわけではないのだ、と。
  マッドが外に出る度に、人間達はひそひそとこちらを眺めては何事か囁き合い、家の中に籠れば、
 今度はわざとかどうかは知らないが、声高に喋り始める。そんなにマッドの事が気になるというの
 なら、話しかけてこればいいのだが、そんな勇気も気概もないのか、やってくる気配はない。
  まあ、それらは放っておけばいい。どうせ、マッドが直接顔を合わせるわけでもない連中である。
 見なければ良いだけの話だ。
  だが、サンダウンの家――と化している保安官事務所に出入りする、保安官助手はそういうわけ
 にはいかなかった。
  マッドよりも若く見える、少年と言っても過言ではないような助手は、マッドが寝泊りしている
 部屋にも稀に入ってきたりする。それはまあ、マッドに蜂蜜やらクラッカーを渡しに――どうもサ
 ンダウンが命じている模様である――来ているのだが。
  けれども、その度にこっそりと顔色を窺うように、ちらちらとマッドを見るのはいただけない。
 マッドが当の本人を見やれば、慌てて視線を逸らすのだが、勿論マッドは助手がこちらを見ている
 事になど当の昔に気が付いている。
  至近距離で、しかも何度も何度も、こそこそと視線を向けられて楽しい輩などいない。いたらた
 だの自意識過剰か、変態である。
  そのどちらでもないマッドは、助手の不躾な眼差しに、むっつりとしていた。しっぽばかり見る
 サンダウンも大概不躾ではあるが、あのおっさんは特殊なので、放っておく。
  というか、サンダウンも不躾だから、こんな不躾な助手に、マッドの身の回りの世話――と言っ
 ても買い物程度だが――を任せようと考えたのか。身の回りを世話をするのなら、もっと気が利い
 て、せめて美女であったなら良かったのに。
  サンダウンのチョイスに文句を腹の底で言いながら、マッドは自分をちら見している助手に、む
 っつりとした表情のまま近づいた。
  突然、マッドに近寄ってこられた助手は、明らかに動揺した。逃げ場を一瞬探そうとして、けれ
 ども動く事が出来ない小動物のように身を縮こませて、最終的にはマッドの襲撃を受け止めた。

 「おい。」

  マッドはむっつりとした声で、縮まった助手を見下ろす。

 「さっきからなんなんだ、人の顔をじろじろ見やがって、鬱陶しい。言いたい事があるならはっき
  り言いやがれ。」

  乱暴ではあるが、マッドの声はセイレーンであるが故に途方もなく端正である。まるで音楽の響
 きのようなマッドの声を直に聞き、助手は一瞬惚けたような顔をした。
  しかし、しばらくしてからマッドの声が脳に浸透したのか、慌てて首を横に振って、いや、その
 と意味のない言葉を並べたかと思うと、なにやらもじもじし始めた。

 「いえ、あの、その、保安官の恋人は一体どんな人なのかと気になって。」

  それで見てただけです、と消え入りそうな声で助手は言った。
  が、マッドは消え入りそうなその台詞が、非常に重々しく響いた。それこそ、神託であるかのよ
 うに。むしろ、凶事を告げる占いに近かったかもしれない。

 「……恋人?誰がだ?」

  聞き捨てならなかった。
  もしやあのおっさん、行く先行く先で、会う人会う人に、マッドの事を自分の恋人であると公言
 しているのだろうか。
  そんな恐ろしい光景が、けれども否定できないマッドは、おどろおどろしい声で――それでも端
 正な声音である――助手に掴み掛るようにして問うた。
  背後に悪鬼でも背負っているかのようなマッドの様子に、助手は喉の奥でひぃと叫びつつも、言
 葉を紡いだ。その点は評価できる。

 「いえ、だって、保安官はここ最近恋煩いめいたものに罹っていたけれど、貴方が来てからとても
  楽しそうなので……それで……。」
 「……………。」

  つまりサンダウンは、完全に恋の季節の真っただ中にいる雰囲気を醸し出していたわけだ。尤も
 その春は、呪いによって齎されたものであり、絢爛であるどころか凍えるようなものであっただろ
 うが。
  恋人ではないんですか、と言わんばかりの助手の眼差しに、マッドはただ首を横に振った。
  生憎と、マッドはサンダウンの恋人ではない。マッドはサンダウンに呪いをかけた加害者であり、
 サンダウンの心の動きがサンダウン本来のものではないと知っている。おそらく、封じ込められた
 サンダウンの本当の心は、マッドを苦々しく思っているに違いないのだ。いや、それさえ思えない
 ほど、セイレーンの呪いは人間の心というものを根本から変えてしまう。
  だが、勿論マッドはそれを目の前にいる少年に語るつもりはない。
  人間に、自分の正体を告げる事も、まして敵愾心を持たせるような台詞を吐く事など、愚かであ
 る。

 「え……では、保安官の片想い……?」
 「あのおっさんに片想いなんて言葉使うな、気持ち悪い。」

  もさもさの小汚いおっさんに、片想いなんていう桃色じみた言葉は、心の底から似合わない。
 そもそも、あれは片想いでさえ、ない。

 「とにかく、俺はあのヒゲの恋人になった記憶は一度もねぇ。それと、おどおどこっちを見んな。
  うざってぇんだ。ちらちら見るのを止めねぇんなら、二度と俺の前に姿を現すんじゃねぇ。」

  厳しい声でそう言えば、助手はびくっと身を竦ませた。
  そこに唐突に扉が開いて、件の薄汚れたおっさん――サンダウンが、にゅっと入り込んできた。
  対峙するマッドと助手を見て、サンダウンは顔を顰めると、すっとマッドの傍に寄ってきた。

 「………どうした?何か、失礼な事でもしたか………?」

  固まる助手を一瞥し、マッドの耳元で囁く男に、マッドも大きく顔を顰めた。助手の言い分など
 聞く気などないサンダウンは、明らかにマッドしか見ていなかった。
  そんなサンダウンの状況にマッドは眉を顰めたまま、なんでもねぇよ、と言った。

 「それよりも、てめぇ、この俺に子守りをつけるたあどういう了見だ。俺が何も出来ねぇガキにで
  も見えるってのか。」

  助手を指差してマッドが詰めよれば、サンダウンは心なしか嬉しそうにして、そういうわけでは
 ないと答える。

 「お前が不便を感じていないかと思っただけだ。だが、お前が必要ないというのなら、外そう。」

  言うとサンダウンは助手にちらりと視線を向けて、此処から席を外すように命じた。
  自分が保安官にとってはお邪魔虫である事が理解できたのか、慌てて足音高く、少年は部屋から
 出ていく。
  非常に報われない少年に、マッドがむっつりとした視線で見送っていると、誰もいなくなったの
 を良い事に、サンダウンはマッドにぺったりとへばりつこうとしてきた。それをひらりと躱して、
 マッドはサンダウンに向き直る。

 「なんなんだ、急に現れやがって。仕事が終わる時間じゃねぇだろう。」

  日はまだ高い。
  いつもなら、日がとっぷりと暮れてから現れるはずなのに、今日は随分と早く帰ってきた。さぼ
 りか。
  助手を追い出してマッドに抱きつこうとする保安官を制しながら、マッドはマッドのしっぽが好
 きな男を睨み付ける。生憎と、今のマッドにはしっぽはない。マッドのしっぽを捜すのが――しっ
 ぽではなく本当は羽根がメインなのだが――この男にとっては重要であるはずだ。
  尤も、しっぽ、もとい羽根が返ってきたら、マッドも島に帰るのだが。
  マッドがサンダウンを見上げていると、上機嫌だった男が少し沈んだような気がした。
  おや、と思っていると、サンダウンは少し沈んだ表情のまま、小さく喜べ、と囁いた。

 「……お前の羽根を盗んだ連中が見つかった。以前から、亜人の皮を剥いでいた輩だ。今夜、捕ま
  えに行く。」

  別れが近い、と。
  悲痛に囁く声が、聞こえたような気がした。