保安官が街に帰ってきた。
  セイレーンの島に行ってから様子がおかしくなっていた事は、助手の口から得られており、まさ
 かセイレーン達に誑かされて、そのまま海の藻屑になってしまったのではないだろうかと噂されて
 おり、それを聞きつけた些か正義感溢れる若者や、それに乗じてセイレーンの売買を企む輩などが、
 セイレーンの島に攻撃を仕掛けようと考えていた矢先の事だった。
  彼らが攻撃の手筈を進めていたその翌日、保安官はいなくなる前と何ら変わりなく保安官事務所
 に現れて、いなくなっていた間に溜め込まれていた仕事に眼を通していた。
  それを第一に発見したのは、保安官の長き不在に不安を抱き、それを周囲に訴えた保安官助手で
 あった。
  保安官の姿を見るなり、口をぽかんと開いて、まるで幽霊にでもであったかのように慌てふため
 いた。
  よもや、一切の怪我も何もなく、ましていなくなる前と何ら変わらず平然として帰って来るとは
 思わなかったのだ。
  確かに、以前も何度かふらりと何処かに行ってしまった事はあったけれど、それも、ほんの数日、
 長くても一週間ほどだった。それが、今回は二週間以上何処かに行ってしまった。何の連絡もなく。
 まして、その前日まで、何やら物思いに沈んでいたのだから、何かがあったと思ってもおかしくは
 ないだろう。
  だが、散々心配をかけた当の本人は、至って普段通りに葉巻を口に咥え、いつもの飄々とした顔
 つきで溜まっている書類を片づけていた。
  保安官助手がうろたえているのを見ても、軽く眼を上げただけで特に何の感慨も寄せずに、再び
 書面に視線を戻してしまった。
  一体何処に行っていたのか、と問うても、とある犯罪者の情報を追いかけていただけだという通
 り一遍の答えが返ってくるだけで、いなくなっていた間の具体的な情報は、誰の耳にも聞かされな
 かった。
  ただ、保安官が無事に戻ってきたという事で、セイレーンの住む町に突入するという案は、当然
 立ち消えとなった。何せ保安官はまるで無傷に戻ってきたのだし、保安官の言を信じるならば、彼
 はセイレーンのいる島に行ったわけではないという事になる。
  その為、募っていた有志は解散され、これを機にセイレーンの売買を考えていた商人達は臍を噛
 む事となったのである。
  尤も、そんな事は、保安官にとってはどうでも良い事であるらしく――いや、彼の任務を考えれ
 ばどうでも良いという話ではないのだが――奴隷商人共だけではなく、一般市民にも、どの道あの
 辺りは海流が激しいから、決してセイレーンの島には近づかぬようにと厳命し、それで騒動は終わ
 ったのである。
  が、保安官がいなくなる前から、やたらと溜め息を吐く機会が多かった事を、一番近くで見てき
 た保安官助手は知っている。 
  そして、その溜め息の数が減るどころか、前にもまして増えている事も。
  何よりも、街行く恋人達を、妙に羨ましそうに眺めている時点で、既におかしいのである。
     助手が知る限り、保安官に恋人と呼べる存在がいた事は、あるにはあったのだがそれが成就した
 事はない。保安官は今現在に至るまで独身であり、且つ恋人も存在しない。
  その事実は、時として嘲笑やからかいの種となる。
  何故ならば、ある一定の地位を得た人間は、男、女、人間、亜人に限らず、恋人と呼ばれる者を
 持つ。自らの権力を誇示したいならば、恋人の数は増えていく。特に、見た目麗しい恋人は、権力
 者達が自分達の装飾品として侍らせたがり、恋人になる代わりに金品を受け取るという職まで存在
 するほどだ。
  保安官という職は、名前だけ聞けば非常に地味な職業だと思われるかもしれないが、しかし実際
 は高給取りである上に、町議会などの推薦が必要な上に、時には大統領から任命されるものでもあ
 るので、権力者と呼ばれる中に入るだろう。それ故に、恋人の一人や二人を侍らせていてもおかし
 くない。歴代の保安官達は皆、多かれ少なかれ恋人を侍らせていたし、中には恋人を助手の座に据
 える保安官もいたほどだ。
  しかし現在の保安官サンダウン・キッドは、殊更そういった事に疎いようだ。勿論、今までに女
 と付き合った事はあるのだろうが、それを侍らせようという気には全くならなかったらしい。それ
 故、議会などに行くと、大抵恋人がいない事を揶揄される。時には、稀に一緒に連れていたりする
 助手を、恋人なのではないかと言ってからかうほどだ。
  むろん、そんな事実は、何処にもない。確かに助手は、自分で言うのもなんだが決して見栄えの
 悪い容姿をしているわけではない。時折、路地裏の男達に声をかけられる事もある。だが、サンダ
 ウンに手を出された事は、今まで終ぞなかった。
  そんなサンダウンが、何やら物患いしているというのは、非常に奇妙な眺めであった。

    「あの……保安官。」
 「…………なんだ。」

  助手の言葉に顔を上げたサンダウンは、やはり通常よりも少しばかり反応が遅い。

 「いえ……あすの町議会はどうされますか?何か報告する事があれば参加する旨伝えておきますが。」
 「……特にはない。」

  二週間の不在について、特に何かを追加して説明するつもりはないようだ。そこにセイレーンが
 絡んでいるかどうかさえ。
  少しばかり恨めしさを感じた助手は、小さく食い下がるように言ってみた。

 「保安官は、セイレーンには逢わなかったんですか?」
 「……何?」

  ひくり、と目線が動いて助手を捉える。きつい青の眼は、睨まれればそれだけでたじろいでしま
 う。現に助手は、食い下がった事を公開して、しどろもどろになった。

 「いえ……セイレーンの島を最初は調べていたので、今回の不在もそれについて調べていたのかと。」
 「……セイレーンに逢って、無事で済むとは思えないが。」

     保安官の言葉は、想像していた以上に冷ややかだった。犯罪者に対してでさえ、そんな口調で罪
 状を告げる事はなかっただろうに。

 「そもそも、私はセイレーンについて調べに行ったわけではない……あれらは基本的に、こちらが
  縄張りを荒らさなければ、何もしない生物だからな……。」
 「そうなんですか?」
 「そう言われている。現に、今まで何もなかっただろう。セイレーンがこちらに攻め入ってくるな
  ど。」

     素っ気ない台詞は、これ以上は助手を相手にするつもりはないという口調を孕んでいる。そうな
 ってしまえば、助手はすごすごと引き下がるしかない。
  サンダウンは、セイレーンに逢ってただで済むわけがないと言っているが、それならばセイレー
 ンの島に向かった後のサンダウンは正しくただでは済んでいないのではないのか。明らかに物思い
 に沈む機会の多くなった保安官の様子に、助手は疑いを持っている。
  サンダウンは、セイレーンに逢って、それこそ伝承にあるように歌で惑わされてしまっているの
 ではないか、と。
  しかし、伝承ならばそのままセイレーンに骨抜きにされ、セイレーンの奴隷と化すはずだが、サ
 ンダウンは鬱々としてはいるものの、何も分からぬほど惚けている状態とは程遠い。何より、セイ
 レーンに骨抜きにされているのなら、この場に戻ってくるなどおかしな話だ。
  だから、きっとセイレーンに捕まってしまったというのは考え過ぎなのだろう。
  となると、サンダウンの恋煩いの相手は、只人か、普通のそのあたりにいる亜人という事になる
 のだが。それも、サンダウンが短期間で恋に落ちたとなれば、ここ数週間に新たに出会った者とい
 う事になり、かなり限られてくる。
  しかし、助手の脳裏にそれに思い当る人物は浮かび上がらない。
    むろん、思い浮かべる必要もないのだが。
  だが、と思い、しかし首を一つ振って再び思い直す。自分が関わる事ではないのだ、と。関わっ
 たところで何がどう変わるわけでもない。
  助手がくるりとサンダウンに背を向けたところで、サンダウンはもう一度大きく溜め息を吐いた。




  サンダウンは酷く後悔していた。何を、と言われれば、勿論、セイレーンから離れた事に他なら
 ない。自覚はないが、紛れもなくセイレーンの術に罹り、そして見事に恋に落ちたのだ。
  だが、サンダウンが保安官という要職にある人間である以上、人間世界から離れてセイレーンに
 現を抜かすわけにはいかなかった。何よりも、それはセイレーンを危険に曝す事になってしまう。
 そうなってしまえば、その時の後悔たるやきっと今感じている後悔の非ではないだろう。だから、
 離れた事は正しい選択なのだ。
  しかし、だからといって離れてしまった事による苦痛が途絶える事はない、せめてこれが、時と
 共に薄れる想いであったなら良かった。けれどもセイレーンの術は決して解ける事はない。サンダ
 ウンはこの先、延々とセイレーンを恋い焦がれて生きるしかないのだ。
  人目を憚ってでも、何とか人知れず出会う事が出来たなら。
  そう思うのだが、セイレーンの島に行くには船で行くしかなく、そんな事をすれば目立つ事は明
 らかであり、セイレーンがこちらに渡ってくる可能性も絶望的だった。
  何か方法はないか。そんな事ばかりを考えて時間を過ごしている。
  他の誰かに溺れる事はもはや不可能であったし、出来たとしてもサンダウンはしなかっただろう。
  この先、セイレーンの命が平穏であるという事だけを慰めとして、思いを馳せながら生きるしか
 ないと、サンダウンは決めている。
  それでも、いつか訪れてくれないだろうかと、可能性の低い事を夢見ながら砂を噛むように仕事
 をしていた。