ミカエルの誤算










  まだ昼間であるにも関わらず、黄昏時のような色を携えて空に雲が立ち込めた。そこから放たれ
  
 る幾つもの帯は、所謂天使の梯子と呼ばれる光芒で、確かに広い翼を広げる炎の天使が舞い降りて
 
 きた以上、その呼び名は間違いではないようだ。
 
  金の髪と青い眼という人々が一般的に天使と感じる容貌を持ったその天使は、手に巨大な剣一つ
  
 を携えて、翼を持たぬ幻獣達を睥睨する。

  鎧を身に纏い、頭上高くに巨大な光輪を戴く姿は、教会の薔薇窓やレリーフで誰しも何処かで見
  
 た事があるだろう。 
 
 
 
  大天使ミカエル。

  最も偉大な天使。



  彼は地上を見下ろし、人狼が襲いかかったその現場を眺め、視線を転々と移していく。地面に斃
  
 れた銀の狼から、年老いた人虎に。三人の虎児を見て夢魔の少年を一瞥した後、サンダウンで一瞬
 
 目を止める。そして最後に、蒼褪めた馬を見下ろした。
 
 
 
 「蒼褪めた馬よ。死を齎す者よ。何の権限があって死の定めにない者の命を奪うのか。」



  降りかかってきた大天使の声はいっそ無機質とさえ思えるほど、何の抑揚も熱もなく、人々の祈
  
 りを聞き届けるような対象だとは到底思えない。それでもその背に背負った世界は神々しく、光の
 
 粒子一つとっても、ミカエルの為に輝きを放っているようだ。
 
  しかし、否応なしにそんな跪きたくたるような姿に対し、蒼褪めた馬は鼻息を荒くする。



 「今更出てきて何を言うか。天上の刃だと言い張って、魂の罪状ばかりを並べたてて、地獄の先の
 
  事は知らん癖に、その口が死の定めを語るのか。」
  
  
  
  蒼褪めた馬の低い嘶きは、命ある者ならば恐怖を駆り立てるに十分だろう。しかし大天使ミカエ
  
 ルは眉一つ動かさず、冷然と言い放つ。
 
 
 
 「黙れ。我らは皆神の僕。お前もその一つ。神が与えた命に死を与え、連れ去るのがお前の役目だ
 
  が、手綱を無視して命を奪う事は罷りならぬ。」
  
 「は、そのくせ、逃げた罪人の魂は追わんのか。この偽善者め。逃げた罪人の魂が、お前の言う死
 
  ぬ定めにない者に取り付いても、そうやって知らぬ存ぜぬを決め込むつもりか。」
  
 「その通りだ。我らは命ある者に手出ししてはならぬ。お前が背後に庇う者達が、」



  言葉を区切って、彼は再び幻獣達を睥睨する。



 「罪人の魂により道ならぬ道を歩いたとしても、それは我々が関知する事ではないのだ。」

 「てめぇ………!」



  正直なところ、サンダウンにはミカエルの言葉のほとんどが分からない。ただ、どうやら死後の
  
 世界、そして魂の行く末とそれが現世に影響を与える事について、ミカエルと蒼褪めた馬の間で何
 
 か齟齬があるようだ。

  いきり立つ蒼褪めた馬を冷ややかに見た後、ミカエルはサンダウンに目を向ける。



 「蒼褪めた馬よ、お前は傲慢だ。確かにお前は死の定めにない者にも死を与える事はできるだろう。
 
  しかしそれはあくまでも間接的なものだ。運命の枠外にいる者は生命に対してお前は傷つける事
  
  は出来ぬ。それ故に、見ろ。お前の傲慢によりまだ切り取る必要もない糸を切った者は、その報
  
  いを受けねばならない。」
  
  
  
  ミカエルの刃はそう言うなりサンダウンに突き付けられた。



 「嘆くがいい。滅びの魔族よ。お前の放った銃弾は、死の定めにない者を殺した。それ故、お前は
 
  業を背負わねばならぬ。」
  
  
  
  突き付けられた刃は一瞬で燃え上がる。まるで焼き鏝の様に赤く煌めく刀身は、サンダウンに消
  
 えぬ印を付けようとでも言うかのようだ。それは、カインが神に印を付けられたように。



 「止せ、ミカエル!」



  ――下がれ、ディオ。



  蒼褪めた馬が叫ぶのと、その姿が音もなく地面に溶けるのは同時たっだ。そしてそれに覆い被さ
  
 るように声がしたのと、溶けた馬の陰からより暗い色の形が飛び出すのも、また同時だった。
 
  ぎぃん、という硬質な音と共に、ミカエルが貫こうとでも言うように構えた炎の刃は、白い煙を
  
 上げてサンダウンの前から振り落とされる。
 
 
 
 「よう、大天使ミカエル。出不精のお前がこんな所に何しに来たんだ?」



  笑い含みの声にミカエルが顔を顰め、サンダウンがその気配に眼を見開いた時には、サンダウン
  
 の眼の前には黒い背中が広がっている。今朝見たばかりの姿は、寸分の狂いもなく同じ姿でそこに
 
 立っていた。
 
  ただし、笑い含みの声にはその底辺にはっきりとした嫌悪が渦巻いている。しかしそれはミカエ
  
 ルも同じのようだ。能面のように無表情だったその顔に、ひびが入っている。
 
 
 
 「貴様か、蒼褪めた馬を焚き付けたのは。貴様の所為で、罪もない者が業を背負おうとしているぞ。」

 「ミカエル、大天使、炎の子。お前は少し地獄の沙汰と運命の糸、そして審判について勉強し直し
 
  た方が良い。それか流行りものを追いかける癖を作るとか。でなきゃお前は、いつか業のない人
  
  間にその刃を振り下ろす事になるぜ。その時、まさか大天使ミカエルともあろうものが、神に泣
  
  き付いてなかった事にして貰うつもりか?」
  
 「何を言っている?」



  ただの戯れ事だろうとでも思っているのか、煩わしそうに刃を構える天使長の姿に、マッドは嗤
  
 笑した。



 「残念だが、そこに転がっている人狼の命は、先程死ぬ運命にあった。だからお前の持つ炎の刃は
 
  用無しだ。此処にいるクルースニクに業を背負わせるのは、とんだ間違いだぜ?」
  
  
  
  その台詞に、ミカエルの夢見るような青い瞳が大きく開かれた。そして次の瞬間、その眼にはっ
  
 きりと怒りが浮かんだ。
 
 
 
 「貴様!まさか死者の書を書き換えたのか!命を弄んだのか!」

 「弄ぶ?悪いが、死者の書の書き換えは、俺に与えられた権利だぜ?お前がそうやって炎の刃を振
 
  り回せるのと同じくな。」
  
 「黙れ!狂いの獣が!厄災の徴の分際で、命の糸の長さを変えるとは何事だ!」



  寿命の長さを勝手に変えるなど言語道断だ、と唾を飛ばしながら叫ぶミカエルは、予告もなしに
  
 手にした炎の刃を持ち、突風の様にマッドに襲い掛かった。それに対してマッドは赤い舌を覗かせ
 
 て、にぃと笑う。
 
 
 
 「おい、てめぇら巻き込まれたくなかったら此処を動くんじゃねぇぞ。!」



  そう幻獣達に叫ぶや、こちらも黒い風となってミカエルに突っ込んでいく。

  その姿を見守っていた幻獣達は、特にミカエルの刃から庇われたサンダウンは、大天使ミカエル
  
 に加勢すべきなのか、それともマッドの言う事を聞くべきなのかが分からない。
 
  だが、呆気に取られている幻獣達を余所に、二人の決着はあまりにもあっさりと決まった。マッ
  
 ドの飛び膝蹴りが華麗にミカエルの顔面に決まったからだ。

  もはや神々しさの欠片もない醜態で地面に墜落した天使を、マッドの白い指が乱暴にその金の頭
  
 を掴んで引き摺り立たせる。その姿は、白と黒の対比も相まって、悪魔が天使を甚振るそれに見え
 
 ただろうが、如何せん転がり落ちた天使よりもマッドのほうが人好きのする柔らかな声音をしてい
 
 る。
 
 
 
 「さあ、ミカエル坊や。さっさと天上のお庭に帰って大人しくおねんねしてな。」

 「くっ……たかが星の分際で、人の命を操るか!」

 「てめぇこそ、たかが大天使の分際で、この俺に歯向かうつもりか。」



  悔しかったら俺の居る場所まで昇ってきたらどうだ。



  そう告げて、マッドはもはや興味を失くしたように掴んでいた天使の頭を放す。しかし、次の瞬
  
 間、ミカエルの首に何処から取り出したのか、黒い銃を押し当てた。
 
  ひゅっと息を呑んだミカエルに、マッドは些かの躊躇いもない無慈悲な声で囁いた。



 「大天使ミカエルのくせに、自分の魂に糸が絡んでるのにも気付かねぇのか。」

 「な…………。」

 「お前が思うよりも命の糸はしぶといぞ。お前の、天使の魂にさえ寄生できるほどにな。」



  言うなり、マッドのもう一方の繊手が閃いて、ミカエルから何かを?ぎ取るような手つきを見せた。
  
  
  
 「失せな。もうてめぇに用はねぇよ。これ以上無様な姿を見せたくねぇのなら、万聖節まで天上に
 
  引っ込んでろ。」
  
  
  
  今度こそ本当にミカエルを突き放し、マッドは大天使に背を向ける。その手の中には数本の糸が
  
 絡まっていた。