バルトアンデルスの策略
 
 
 
 
 
 
 
 

 「お師匠様!」



  眠りから覚めた老虎の養い子の一人であるユンが、その惨状に悲鳴を上げた。
  
  無理もない。目覚めた瞬間に、視界一杯に襲い掛かる人狼と、その背後に降りかかる黒い犬の群
 
 れが入って来たのだ。
 
 
 
「なんだい、これは!?」



  同じく眼を覚ましたレイも同じ感想を持ったらしい。茶色の眼をいっぱいに見開いて、しかし咄
  
 嗟に動けないようだった。
  
  だが、養い子達の驚愕以上に、黒い犬達に飛びかかられているリーの表情は凄まじいものがあっ
  
 た。端正な顔を歪め、憤怒とも驚愕ともつかぬ様子で迫る白い牙達を躱している。その間も、黒い
 
 犬の群れから発せられる声なき声は止まらない。
 
 
 
  ――主ヨ主ヨ!ドウカ命令ヲ!
 
  ――コノ者に慈悲ノ一滴ヲ!
 
  ――ソシテ断罪ノ刃ヲ!
 
 
 
 「くっ!グリム風情が!」



  己の影から次々と飛び出す犬に舌打ちするリーは、次の瞬間、はっと身を竦めた。吹き上がった
  
 殺気を咄嗟に躱せば、そこには銀の銃を構えたサンダウンが立っている。その姿にリーは舌舐めず
 
 りした。
 
 
 
 「良いだろう。この際、貴様でも構わん。寧ろ我らにとっては好都合。」
 
 「……………クドラクの仲間か?」



  ぶつぶつと得体の知れない言葉を吐くリーを無視してサンダウンが問えば、リーは裂けるような
  
 笑みを浮かべた。



 「だったら何だと言うのだ。それはもはや貴様には意味のない事。お前達は我らの糧。命の糸は既
 
  に絡みついているぞ。」
  
 「………………。」



  もはや問い掛けの時間は無用だと悟ったサンダウンは、無言で銃弾を放った。後は、その魂に問
  
 い正せば良い事だ。

  放たれた銀の銃弾は、違える事なくリーの胸元をその弾道に乗せた。けれども、それはリーに届
  
 く事なく地に落ちた。まるで力を失ったかのようにリーの心臓直前で地面に転がった銃弾を見て唖
 
 然とするサンダウンの前で、リーも呆気にとられていたが、すぐに高い笑い声を響かせた。
 
 

 「ああ、そうだ、残念だったな。私はまだ死ぬべき運命にない!この命を運行する運命の糸はまだ
 
  切り取られていないのだ!」

  
    
  だから去れ!とリーは迫るグリム達にも叫ぶ。
  
  
  
 「この命はまだ死の時を迎えていない!お前の主とやらもその事は承知しているだろう!だから誰
 
  もこの身に手は出せない!何故ならば今日私が此処を訪れる事は、運命にない事だからだ!」
  
 「それはどうかねぇ?」



  高らかに叫ぶ声は、突然遠くから聞こえてきた足音と声に阻まれた。
  
  引き攣れた笑い顔のまま硬直するリーを余所に、嘶く馬の足音はどんどん近付いてくる。それと
  
 同時に、何処からともなく聞こえてくる声も徐々に近づいてきているようだ。
 
 
 
 「一つの身体に二つの魂。こんな事はやっちゃあいけねぇことだな。けどおかしいな。お前の魂は
 
  あの脱獄した魂とは違うなあ。」
  
  
  
  炎の燻る臭いと共に、ぬっと黒い影が小屋の中に飛び込んできた。はっとしてサンダウンがその
  
 気配に飛び退ると、リーに群がっていたグリム達もリーから離れる。リーはぎこちなく首を動かし
 
 て、飛び込んできた影を見つめた。
 
  そんなリーを苛立ったようにカツンカツンと床を蹄で叩くのは、漆黒の馬だ。硫黄と氷の臭いを
  
 背負ったその馬の姿に、まさか、とサンダウンは眉根を顰める。それは、神話や聖書の中でのみ語
 
 られる死の馬に酷似していたからだ。
 
  圧倒的な死の匂いに幻獣達が身を竦める事になど一向に介さず、黒い馬は低く言い募る。
  
  
  
 「なるほど、あの魂は魂を二つ食らった。一人は恋人。もう一人は友人。その魂は食われた今も生
 
  き続けて、そしてこうして千切れてその器に収まったって事か。」
  


  馬の台詞に、リーの顔が醜く歪み、凄惨な笑みを刻む。そして次の瞬間にはもはや別人とさえ思
  
 える口調と表情で哄笑した。
 
 
 
 「ああ、そうさ!この俺が編み出したんだ!あいつの魂に食われた後も、俺はずっとそのチャンス
 
  を狙っていた。そして俺はあいつが死体に乗り移る時に抜け出したんだ!そしてこの身体を使っ
  
  て、奴が望んでいる身体に近づき、奴よりも早く乗り移ってやろうと!」
   
 「そうか。じゃあ、あいつが俺の御主人に化けた時にはお前はもういなかったんだな。」

 「ああ!尤も、バルトアンデルスの身体に乗り移れば良いってあいつに言ったのは俺だけどな!そ
 
  うすりゃどんな奴にだって化けれて、ばれずに絡んだ糸の魂に近付けるってな!」
  
 「へぇ…………。で、乗り移った瞬間にお前は抜けだしたと。」

 「簡単だったぜ!思ったよりもなぁ!あいつはもう絡んだ糸に寄生する事ばっかり考えてたしな!
 
  その隙を突く事なんか、呆気ないもんだぜ!」

 「そうか………でもよ。」



  すっと黒い馬の瞳が細くなる。



 「お前は気付いてないみてぇだけどな。抜けだしたお前の魂に、あいつの魂の一部が絡まってるぜ?」


 
  だから、お前のやってる事はあいつに筒抜けだし、それ以上にあいつに操られている。



  その瞬間、リーの顔にはっきりとひびが入った。しかし非情の死の馬は、そんな姿にさえ熱を向
  
 けなかった。


 
 「それに、なあ、聞こえてんだろうが。バルトアンデルスに乗り移った罪人よ。確かにバルトアン
 
  デルスは千変万化。この世に化けられぬ物なし。でもな、化けちゃならねぇもんだってあるんだ
  
  よ。俺の御主人は、その、最たるものだ。」
  
  
  
  カツン、と一際高く馬蹄が響いた。
  
  その音に我に返ったリーが口から泡を飛ばして叫ぶ。



 「ふざけるな!この身体はまだ命の糸が切れちゃいない!いくら蒼褪めた馬でもその運命に逆らう
 
  事はできないだろう!」
  
 「馬鹿だな、お前。何の為に俺が、聞きたくもねぇお前の話を聞いてやったと思ってるんだ?審判
 
  の時に嫌でも聞けるお前の話を?」
  
  
  
  ふん、と鼻息を荒くする蒼褪めた馬からは、いよいよ死の匂いが立ち込めている。
  
  
  
 「なあ、賢い賢いストレイボウ。この俺が、死を与える蒼褪めた馬がいるのなら、命を書き換える
 
  筆を持つ者がいてもおかしくねぇと思わねぇのか。そしてもう、その手はお前の首に死神の鎌を
  
  突きつけてるぜ?」
  

  
  転瞬、リーが身を翻した。しかしそれよりも早く蒼褪めた馬がその影を踏んでいる。



 「御主人、まだ?!」



  馬の嘶きに、うっとりとするような声が何処からともなく降り注いできたのは同時だった。そし
  
 てその声にサンダウンは、はっとして顔を上げる。それは紛れもない、あの青年のものだったから
 
 だ。
 
 
 
  ―――おまちどうさん。



  その声と共に、地面に力なく横たわっていた銀の銃弾が、突如として息を吹き返した。ぐっとそ
  
 の身を宙に持ち上げると、眼にも止まらぬ速さでリーの背に追い縋る。

  そして、狙い過たず、リーの心臓を貫いた。

  血を噴き上げて倒れる銀の人狼へと真っ白い手が伸び、二つの魂を掬うのが確かに見えた。