シリウスの裁き













  顔を掴んでいる自分の指の隙間から見えるマッドの笑い顔に、サンダウンは無性に腹が立った。
  
  その怒りには、マッドがどうやら自分を囮に使ったらしいという事や、まるで当然のようにサン
  
 ダウンが絡んだ命の糸を燃やし尽くせるだろうと踏んでいた事や、その他諸々も含んでいたが、そ
 
 れ以上にやはり彼にはサンダウンに対する記憶がないらしいという事が、サンダウンを打ちのめし
 
 た。
  
  己に寄生しようとした亡霊が言った通り、もはやマッドはサンダウンの運命の一端を担う事はな
  
 く、どれだけ求めたところで叶いはしないのだろう。彼は、サンダウンを運命の中に残して、一人
 
 運命の外へと向かってしまったのだから。
 
  掴んでいた顔を放すと、そこから覗いたのは相変わらず自信ありげな笑みを湛えた白い顔で、出
  
 来る事ならその顔面に銃弾を叩きこんでやりたかったが、きっとどれだけ聖水で清められた銀の銃
 
 弾でも、運命の外にまで飛んでいく事は出来ないだろうとも思った。
 
  そんなサンダウンの心中を分かっているのかいないのか、マッドはゆっくりと身を起こし、笑い
  
 含みの声で言った。
 
 
 
 「確かに、最悪の想定はしていたさ。あんたごとあの魂を切り落とすっていう。でも、滅びの魔族
 
  であるクルースニクなら、命の糸だって滅ぼせるだろうと、またそれくらいの権利を与えられて
  
  るとも知っていたから。」
  
  
  
  流石に俺も二度も死者の書を書き換えるのは骨が折れる。



 「アトロポスにも散々言われてたしな。それに天使共に後々皮肉られるのもおもしろくない。」
 
 
 
  悪びれもせずにそう告げる顔に、サンダウンは憎らしいほど腹の底が煮えくり返った。これが他
  
 人だったなら、きっと呆れるかして終わるだろうが、マッドだからこそ、これほどまでに憎らしい。
 
 手が勝手に動いてその白い喉を捩じり切ってしまいそうだ。
 
 
 
 「キッド?」



  蜜のように甘い声で、マッドはサンダウンを呼んだ。そして全く悪意のない声で、



 「あんたは、囮にした事以外で、一体、何を怒ってるんだ?」



  衝動的にその胸倉を掴んで、薄い身体を引き立たせたのは、決して責められるべきことではない
  
 だろう。
 
  サンダウンの突然の行動に眼を瞬かせていた彼も、やがて、合点がいったかのように眼を伏せた。
  
  
  
 「俺が、あんたを、覚えてないから?」

 「……………。」



  サンダウンは疑問に対して沈黙で以て答えた。その沈黙を肯定と正しく受け取ったマッドは、再
  
 び眼を開いた時にはそこから踊るような光を消して、ただただ深い闇色だけを浮かべていた。その
 
 表情は災いを引き起こすクドラクとは到底思えないほど凪いだ表情だ。
 
  それとも、それは運命の枠から出ていった者に許された表情なのかもしれない。

  しかしそれはサンダウンにとっては受け入れられる類の話ではない。マッドがサンダウンの運命
  
 に関わらないというのならば、サンダウンのクルースニクとしての運命は完全に形骸化し、存在し
 
 ないも同然だ。
 
 
 
 「キッド、あんたは、もう自由だ。」



  マッドは言い聞かせるようにサンダウンに言った。



 「俺はもう、クドラクとしての機能を果たせない。クドラクのないクルースニクは役目から解き放
 
  たれる。あんたはもう、自由だ。」
  
  

  何よりも、とマッドの表情が痛みに耐えるように歪んだ。


 
 「さっき俺はあんたと一騎打ちをすると言ったけれど、その場合、あんたは俺に勝てないんだ。だ
 
  って俺はもうクドラクじゃねぇから。確かにあんたの手はこの身体を傷つけるだろう。けれど、
  
  俺自体を破壊する事はできねぇよ。」
  
  
  
  俺の魂はもう俺だけのものではないから。
 
 
 
  いつ頃、クドラクとしての個を捨てたのか、それはマッドにも分からない。どれだけサンダウン
  
 に責め立てられても、クドラクであった時の事は覚えておらず、サンダウンのように魂に刻まれて
 
 いるという事もない。
 
  おそらく、運命の外に出ていった時に、出ていく代償としてそれらを失ってしまったのだろう。
  
 全てを知る代わりに、マッドは自分の事を忘れたのだ。
 
  けれどもそれは、本来ならば運命を共にするはずのサンダウンには受け入れがたい事で。
  
  何故そんな事をしたのかだとか、そんなふうにマッドを責めてしまいたい思いに駆られた。しか
  
 しそれさえもマッドは覚えていないと言うのだ。
 
  あまりにもサンダウンを遠くに置き去りにしたマッドに、サンダウンは言葉もなく彼の胸倉を掴
  
 んだままずるずるとその場に崩れ落ちる。サンダウンの身体が動くがままに任せ、マッドは同じよ
 
 うにその場に座り込み、マッドの肩口に顔を埋めた男の肩に手を回した。
 
 
 
 「………御主人。」



  その背後で、ひっそりと声が上がった。しん、と静まった声は、淡々と用件だけを告げていく。


 
 「アトロポスに聞いたところ、奴の糸は全部消えたそうだよ。」

 「そうか………なら、ストレイボウの審判の準備を進めるように死神共に言っておけ。」

 「分かった。御主人は………?」

 「直ぐに戻る。」



  冷ややかでさえある声に、マッドは結局、どう足掻いても再び運命の中に戻る事はない事が分か
  
 った。それは畢竟、マッドがサンダウンの運命から外れた事を意味する。
 
  せめてもの意趣返しに、その肩に鋭く爪を立て、獲物に対してするように首筋に牙を這わせると、
  
 マッドが小さく息を呑んだ。その肌を突き刺すかどうかのぎりぎりの状態で牙を這わせていると、
 
 宙を見ていたマッドがそっと呟いた。
 
 

 「キッド、あんたは知らねぇだろうけど、俺は運命の枠の外にいても、他の奴らとは違って、いつ
 
  でもそこにいるんだぜ?」
  
  
  
  地獄の果てでも、天上の極みでもなくて。



  言うなり、マッドの身体はサンダウンの腕の中でしなやかに翻った。素晴らしく長い尾を残して、
  
 一頭の黒い犬は制止の暇も与えずサンダウンから離れていく。
 
  その黒い毛皮が、クドラク本来の毛並み以外の光を灯したのを見て、サンダウンは息を呑んだ。

  背から尾にかけて、その毛先が銀に光っている。ひらり、と最後にその煌めきを残して流星のよ
  
 うに空に吸い込まれていく。
 
 
 
 
 
 
  消えた闇空の中、一点、青白い星が残った。