クルースニクの定め













  マッドに置いて行かれたサンダウンは、一人どうする事もできずにいた。
 
  マッドは自分をクドラクかもしれないと言った。けれどもその事を覚えていないとも言った。サ
 
 ンダウンを知ってはいるが、サンダウンがマッドを見て本能の底が疼くような事はないのだと。

  どういう事だ、と思う。

  蒼褪めた馬を率いる彼が、死者を裁くなんらかの役割を背負っている事は明白ではあったが、け
 
 れどそれが何故クドラクであるのか。しかも彼は己がクドラクである事に無自覚だ。

  一体、サンダウンが彼を見つけるまでに、その身に何があったのか。中身が変わっているとはど
  
 ういう事なのか。しかしそれらに対して答えを告げず、マッドは地獄犬の群れと共に去ってしまっ
 
 た。

  サンダウンが背負っている運命を置き去りにして。

  なんて無責任な、と自分でも見当違いも甚だしいと思う八つ当たりじみた感情を腹の底で渦巻か
  
 せて、サンダウンはひとまず自分の塒に帰る事にした。

  数ある塒の内一つは、今朝方破壊されてしまったから、近くにある別の塒を思い出していると、
  
 ひやりとする空気が何処からともなく漂ってきた。硫黄の臭いが混じるそれが、実は腐臭だと気付
 
 いた時には、人気のない路地裏から、短い間のうちにもはや見慣れた姿が現れた。
 
  黒い髪と黒い瞳。口元に湛えられた不敵な笑み。先程までサンダウンの心中のほとんどを占めて
  
 いた相手。

  だが、その身から薫る腐臭にサンダウンは眉根を寄せた。そして、そこから圧迫するような気配
  
 がない事にも。



  ――今朝あんたを襲ったのは、気づいてるだろうけど、俺じゃねぇから。



  不意に耳に蘇った言葉に、サンダウンは無言で彼の姿を見に纏った、けれども決して彼ではない
  
 身体に銃を撃ち込む。今朝のあの動きを見た事もあって避けられるかと思ったが、予想に反してそ
 
 の身体の動きは鈍く――



 「………お前は。」



  ずるりと足元が抜け落ち、よろめく姿に言葉を失った。何をどうしても取り繕う事ができぬほど、
  
 その皮膚はどす黒く変色しており、そこからはっきりと肉の腐った臭いがしている。

  屍鬼か、その類か。思いついた種族名は、けれども何故彼の身体をしているのかが分からない。
  
  一瞬思考が逸れたその時、腐りかけた身体から、ぞっとするような速さで半透明の何かが湧き上
  
 がってこちらに突進してきた。その半透明の背後で、力を失った身体があっと言う間に崩れ、黒い
 
 彼の姿から有翼人面の幻獣に戻り、そして泥のようになるのが見えた。腐敗したその幻獣の名を、
 
 サンダウンも知っている。

  バルトアンデルス。千変万化。化けられぬものなしとまで言われる、変化の幻獣だ。



  ―――よこせ、その身体を!



  霊体の声なき声が、剣を振り被るようにして襲い掛かってくる。咄嗟に銃を撃ち込んだが、霊体
  
 には効かない。しかし、それでも怯んだようだ。



 「………お前は、そうか、蒼褪めた馬が罪人の魂と言っていたが、それが、お前か。」



  天使が、死神が、地獄犬達が挙って動き回っている理由。そしてここ最近の、夜の種族達の動向。
  
 バルトアンデルスの身体を用いてこの霊体が、夜の種族達を煽動したのだとしたら。
 
  騒ぎの中心は、この、魂か。
 
  もう一度銃口を向け、動きを止めた霊体を見やれば、それは嗤ったようだった。



  ――もう遅い。お前の糸には、私の糸が絡んでいる。



  視界一杯に、そのにたりとした笑みが広がるや、心臓の裏が引っ掻かれるような感触がした。或
  
 いは、皮膚の裏側を蟲が這いずり回っているような。



  ――クルースニク!滅びを与える魔族よ!お前が、お前こそがあの天の裁きである犬に一撃を加
  
  える事が出来る。そして私は自由になれるのだ!
  
  
  
  ぐわんぐわんと響く声の向こう側で、鬱金色の髪が勝ち誇ったように靡いている。



  ――お前が感じた通り、あの犬はクドラク!クルースニク、お前の宿敵だ!しかし、奴はお前を
  
 置き去りにした。本来ならばお前の運命の片側を担うあのクドラクは、お前を置いて運命の外側に
 
 行ったのだ。
 
 
 
  かかと大笑する声に、一抹の憐れみが――しかしやはり嘲るように――混ざっている。サンダウ
  
 ンは侵食され、歪み始めた意識の中で罪人の言葉の意味を理解する事に必死だ。
 
 
 
  ――お前は運命に見放されたのだ!クドラクを打ち滅ぼすという運命から!



  絶叫にも近い声は、自分の声をしていた。
 
  そしてそこに被さった声は、サンダウンの苦痛など一向に介していない色をしていた。






 「ああ、やっと、その身体に逃げ込んだのか。」






  腐ったバルトアンデルスの遺骸を尻目に、マッドはゆらりと立ち上がったクルースニクを見た。
  
 微かに蒼褪めているのは、白い羊膜に包まれて産まれたという彼が臨戦態勢に入っているからだろ
 
 うか。
 
  今や罪人の糸に絡まれて、その意のままに操られているサンダウンに、何処まで意識があるのか
  
 は分からない。それとも、クルースニクとしての本能まで、罪人に食いつくされたのだとしたら、
 
 それは酷く憐れな事に思えた。
 
  しかし、そんな慈悲を下している暇はない。マッドは荒廃の匂いがする滅びの魔族と、その内面
  
 に喰らいついた罪人に呼び掛ける。
 
 
 
 「さあ、わざわざこの俺が、此処までお膳立てしてやったんだ。文句はねぇだろう?始めようじゃ
 
  ねぇか、クルースニクとクドラクの、運命の一騎打ちってやつを。」
  
  
  
  その言葉に、表情の乏しいサンダウンの顔にはっきりと嗤笑が刻まれたのを見て、マッドは、あ
  
 あやはり寄生されたなと改めて思った。その嗤笑の刻まれた声で、けれども声はサンダウンのまま、
 
 クルースニクは言う。
 
 
 
 「正気か?クドラクとクルースニクの運命は既に定まっている。クドラクは、お前はクルースニク
 
  に打ち倒される運命にある。」
  
 「はっ、やってみなきゃ分からねぇよ?」



  言うや否やの閃光。一瞬で黒い犬の姿になったマッドは、一気に間合いを詰め、その顎を大きく
  
 開いた。そこにクルースニクの銃弾が、容赦なく撃ち込まれる。銀の弾道を見たマッドは、身を捻
 
 ってそれを躱す。それに追い縋ろうとしたクルースニクは、脚に引き攣れた感覚を覚えてぎょっと
 
 した。
 
  自分の陰から、無数の地獄犬が沸き立っているのだ。舌打ちして宙に逃げれば、そこにはやはり
  
 無数の死神達が、鎌を持って飛び交っている。
 
 
 
 「貴様!一騎打ちと言ったはずだ!」



  ひらりと地面に降り立ったマッドが再び人の形を取るのを見て、クルースニクがマッドの言葉を
  
 捕えて抗議の叫びを上げた。しかし、マッドはそれに耳を貸さない。
 
 
 
 「へっ。なんで罪人相手に俺がわざわざ正々堂々と戦わなきゃならねぇんだ。大体一騎打ちっつっ
 
  たって、てめぇの中には二つ魂があるだろうが。俺は一人で、てめぇは二人。卑怯なのはどっち
  
  だ。」

 「貴様ぁ……!」



  弾丸のように飛びかかるクルースニク。しかしそれを見てもマッドは眉一つ動かさない。代わり
  
 に動いたのは死神達だ。荒縄を携えた彼らは、その縄を滝のように、暴風雨のようなクルースニク
 
 の身体に投げつけている。狙い過たずクルースニクの四肢を捕えた死神達は、喚くその身体を抑え
 
 込む。
 
  その様子を見ていたマッドは、背後から立ち昇った蒼褪めた馬に背を預ける。



 「無様なもんだな、クルースニク。運命の中で頂点に立つお前が、こんな形で終わるとはな。命の
 
  糸に寄生されなければ、こんな事にはならなかっただろうし、寄生されずにお前一人だったなら、
  
  俺も当初言った通り、一騎打ちにしてやっただろうよ。でもお前は寄生され、クルースニクとし
  
  ての役割を果たせない。ならば俺もお前の言うようにクドラクではなく、俺自身が決めた役目を
  
  果たすだけだ。」
  
  
  
  俺はお前の事を覚えていないんだから。
 
 
 
  冷ややかにそう言い放ったマッドを見た、クルースニクの眼に過ったのは何だったのか。

  けれどもそれは、もうクドラクではなく、クドラクであった記憶もないマッドには通じない。



 「俺は、お前の運命の片側を担う事はできない。まして、お前が、他人の意志で自分の運命を全う
 
  しようとするならば、尚更。」
  
  
  
  言い放った、その弾指。

  死神の荒縄に四肢を打たれていたクルースニクの身体が、跳ね上がった。土煙を巻き起こして跳
  
 ねた身体は、死神達を引き摺り、払いのけ、荒縄を引き千切り、マッドの顔面にその大きな手を翳
 
 す。
 
 
 
 「御主人!」



  蒼褪めた馬が叫んだ時には既に、クルースニクの手はマッドの顔を鷲掴み、そのまま自分の身体
  
 ごと撥ね飛ばしている。

  誰にも邪魔されぬ速さでマッドを掴んだ腕は、閃いたと思った瞬間にはマッドを上空に持ち上げ、
  
 次いで地面に叩き付けた。幾つかの街路樹を薙ぎ払った後、マッドの身体はようやく地面の上で止
 
 まった。が、起き上がる暇もなく、その胸を脚で蹴り倒される。
 
  しかし、それでも呻き声一つ上げなかったマッドは、ゆっくりと黒い眼を瞬かせて、己を踏みつ
  
 ける青い双眸を見上げ、うっとりと微笑んだ。
 
 
 
 「よう、サンダウン。命の糸を寄生された気分は、どんなもんだった?そしてそれを自分で焼き尽
 
  くした気分は?」
  
 
  
  返事は唸り声のようだった。



 「……………最悪だ。」