アトロポスの抵抗











 「ああ、それで、やっぱり元凶は逃がしたのか。」


 
  鰐の口が咀嚼するその隙間から紫紺の髪が揺れるのを見たが、その近くに鬱金の色がない事を認
  
 めて、マッドは呟いた。
 
  死神という死神、地獄犬という地獄犬の全てが集まった中、その中央で魂を食らう化け物が鎖掛
  
 けられている。それを牽いて連れてきたディオと、そして現状を確認する為にやってきた運命の女
 
 神の前で、しかし結局、二つの魂を呑みこんで逃げ出した罪人は、再び呑み込んだ魂を囮に使って
 
 逃げ出したのだ。
 
  鰐の大口の前に、生前愛した女の魂を差し出した罪人は、恐らく、もう、己が何をしているのか
  
 も分からないのだろう。魂とはそういうものだ。肉体を失い、あるべきところから離れてしまえば、
 
 徐々に記憶を失っていく。
 
  記憶の庇護を失った魂は、最終的には己を失い、災いを呼び寄せた挙句、消えていくのだ。



 「さて、どうするかね。」



  ぼりぼりと食われる女の魂の匂いを嗅ぎながら、マッドは一人ごちる。千変万化の身体を駆使し、
  
 そしてかつての親しき魂を囮にして逃げる魂。けれども次はない事は――もはや囮にする魂がない
 
 のだから――分かっているはずだ。
 
  では、もう、逃げる場所など一つしかない。

  彼の友人がそうしたように、他の人間の魂に寄生するのだ。そしてマッドは、罪人の途切れた糸
  
 が、誰に一番より多く絡みついているのか、知っている。
 
 
 
 「………なあ、糸切りアトロポス。」
 
 
 
  マッドは後ろで、もはや不要の物と化した女の魂の糸を丸めている運命の女神に問うた。



 「お前、絡んだ糸の回収って進んでるのか?」

 「やってるわよ。でも一人物凄くこんがらがってるのがあってね。それが一番手間取りそうだわ。」

 「ああ、もう、それはいい。」 



  思った通りの答えに、マッドは手をひらりと振った。



 「そいつ以外なら、直ぐに解いて回収できそうか?」



  心此処に非ずといった声で問い掛けるマッドを不審に思いながらも、彼女は頷いた。



 「それなら、直ぐに終わるよ。でも、結局は全員の分を解かなきゃいけないんなら……。」

 「いいや、そいつ以外の分だけでかまわねぇよ。」



  彼女の言葉を遮り、マッドは薄い笑みを口元に刷いた。



 「今度、奴が逃げた時は、あいつにしか寄生ができねぇように。そうしたら、後はあいつごと、魂
 
  を刈り取ってやればいい。」
  
  
  
  人狼に乗り移った彼の友を、そうしたように。

  そう言うと、運命の女神は鼻白んだ。



 「何言ってんだい!そんな事したら、もう、二度、二度目になるんだよ!死者の書を書き換えるの
 
  は!冗談じゃないよ!」
  
  
  
  死者の書をマッドは既に一度書き換えている。マッドは表情にこそ出していないが、それはマッ
  
 ドの明瞭な気配を大きく損ねている。それを立て続けに行おうものならば、今度はマッドが内包し
 
 ている死者の道に影響が出るだろう。
 
 
  
 「けど、それが一番手っ取り早いし、最悪の場合はそうするしかねぇ。奴は、あの男が俺を殺した
 
  がってる事を知ってるし、それに多分、あの男はこの身体に傷を付ける事ができる唯一の生物だ
  
  ろう。だったら、奴は間違いなくあの男に寄生する。」
  
  

  罪人にとって最も恐ろしいのは、死を齎す死神や地獄犬ではなく、死者にも生者にも傷を付ける
  
 事を許されたマッドだろう。ならば、マッドに傷を付ける唯一の方法を持つサンダウンは、喉から
 
 手が出るほど欲しいに違いない。
 
  しかしそれを聞いた女神は、更に激しく首を振る。



 「駄目だよ!それなら、余計にあの男に寄生なんかさせちゃ!分かってるんだろうね、あんたが傷
 
  つけば、その分どれだけ世界の廻りが滞るか。」
  
  
  
  なまじ力があるが故に、その身体が傷ついた時の影響は計り知れない。にも拘らず、その傷を付
  
 ける事ができる男に、もはや破壊の意志そのものになりつつある魂を寄生させようと言うのか。
 
 
 
 「とにかく、そういう事だったら、あたいはやらないからね!」


 
  了承できないと言い放ち姿を消したアトロポスに、マッドは苦笑する。きっとそうは言いながら
  
 
 もあの糸切りの女神は、マッドが望む通りに鋏と糸を操ってくれるのだろう。憤懣やるかたないと
 
 言った表情で。

  その様を思い浮かべながら、マッドは小さく呟く。



 「………悪いな。」



  そんなマッドの背に、軽く何かが押し当てられた。振り返ると、女の魂を食い終えたアメミット
  
 を戻してきたディオが、鼻先を押し当てていた。
 
 
 
 「どうした?」



  愛馬のいつになく甘えた様子に驚いていると、ディオはいっそう鼻先を強く押し当ててきた。



 「御主人、俺は心配なんだけど。」

 「何が?」

 「あのおっさんによって御主人が傷つけられるんじゃないかって事だよ、もう!」



  己の主人の鈍さに地団太踏むディオに、マッドは首を竦め、宥めるようにその首筋を軽く叩いて
  
 やる。しかしその表情はいつもの自信に満ちたものとはかけ離れていた。
 
 
 
 「なあ、ディオ。お前は俺がいつお前に名前を付けたのか、覚えてるか?」

 「………御主人?」

 「サンダウンとかいうおっさんは、俺の事を覚えている。どれだけ何世代前の話か知らねぇが、と
 
  にかく、魂に刻まれてるんだと。だったら、多分、そうなんだろう。俺はあのおっさんの言う通
  
  り、クドラクで、クルースニクに殺されるべきなんだろう。でも、俺はその事を何にも覚えてね
  
  ぇんだよな。」
  
  
  
  サンダウンがクルースニクである事は、死者の書を見る立場である以上、知っている。しかしマ
  
 ッド自身については、マッドは何一つ覚えていないのだ。
 
  サンダウンの言う通りクドラクだというのなら、何故自分は運命の枠外に存在する事になったの
  
 か。その一連の経緯を、マッドは覚えていない。
 
 
 
 「御主人、御主人。」



  蒼褪めた馬は何かを懇願するような声でマッドを呼んだ。それはいつもの乱暴な口調ではなく、
  
 子供っぽい甘えるような、同時に不安そうな声だった。
 
 
 
 「御主人、俺はあんたが名前を付けてくれる前も確かに蒼褪めた馬として存在してたし、その事は
 
  知ってる。けど、覚えているのはあんたに名前を付けて貰った後の事だけだよ。それは多分、ケ
  
  ルベロスもアトロポスも、他の死神や地獄犬もそうだと思う。」
  
  
  
  名前を付けられる前、運命の枠外にある自分達はただそこにあり役割を果たす為だけの存在で、
  
 こんなふうに己の意志で語る事は許されていなかった。そこに名前を付け、意志を与えたのはマッ
 
 ドだ。そして名付けの力を携えるのは、運命の中にある者だ。ならば、マッドは確かに以前、運命
 
 の中にいたのだ。
  
  どういう理由で、運命の外に弾き出されてしまったのかは分からないが。



 「御主人、御主人は多分、自分の意志で此処まできたんだ。御主人が来るまで、誰一人として意志
 
  ある者はいなかったから。だから、御主人は自分で運命の外にやって来たんだ。」
  
  

  だからだから、と。



 「過去に戻りたいなんて、言わないでくれよ?」



  愛馬の柄にもない懇願に、黒い犬は小さく笑っただけだった。