ウィル・オ・ウィプスの脱獄









  その日、一つの魂が業火に焼かれながらも現世へと彷徨いだした。
 
 
 
  地獄の煮え立つ釜の蓋が開かれた、一瞬の隙に、立ち込めた煙と硫黄の臭いと共に、彼はふわふわと飛び立
  
 ち、大地の裂け目を潜り抜けたのだ。
 
  それに気付いた時には、既にガブリエルの笛も遅く、取り残された裁きの天秤は虚しく揺れるばかりだった。
 
 
 
  死者の魂を取り逃がす事など、あり得ぬ失態。地獄の釜を見張っていた天使達も、その中で死者を激しく鞭
  
 打つ悪魔達も、こぞって慌てふためき、口々に互いを罵り、責任を擦り付け合った。
 
  そんな中、特に良い争いが酷かったのが、死を背に負って駆ける蒼褪めた馬と死者の命の糸を切る女神によ
  
 る、地獄の番犬の責め立てである。
 
 
 
 「てめぇ俺がせっかく運んできた魂を何逃がしてくれてやがるんだ!あの魂がどれだけ運ぶのに手こずったか
 
  知らねぇわけじゃねぇだろう!」
  
 「そうだよ!生命糸を切った人間の魂が現世に戻ったら、どうなると思ってるんだい!今繋がっている糸に絡
 
  まって、他人の糸に寄生して乗っ取ろうとしてるんだよ!」
 
 「そ、そんな事言われたって知らないね。」

 「そうね。あたし達は門は守るけど、釜の蓋は守らないね。」

 「そうねそうね。」

 「うるさい!」
 
 
 
  三つの頭が一斉に喋り出した三頭犬を、糸切りの女神はフライパンの一撃で黙らせる。撃沈するケルベロス。
  


 「とにかく、他の糸に寄生する前に、あいつを連れ戻さないと!でなきゃ面倒な事になるよ!」
 
 「ああ。しかももうすぐハロウィンだ。ガブリエルが笛を吹くのを止めて、幻獣どもが動き出すぞ。そうなっ
 
 たら連中の気配に紛れて捜し出すのは余計難しくなるぜ。」
 
 
 
  苦り切った蒼褪めた馬は、苛立ちを隠そうともせずに撃沈した三頭犬を蹴り飛ばす。きゃん、と情けない声
  
 を上げて三頭犬は蹲ってしまった。
 
 
 
 「そのへんにしといてやれよ。」
 
 
 
  此岸の土手で騒いでいる3つの影に向かって、不意に声が降りかかった。
  
  
   
 「ケルベロスを責めたところで今更どうにもならねぇよ。それよりアトロポス、逃げた魂の糸が誰に絡んでる
 
  のか分かってんだろうな?」
  
 
  
  とん、と軽い音を立てて舞い降りた黒く突き抜けた影に、蒼褪めた馬が、御主人と声を上げる。
  
  
  
 「一体どうしたってのさ!まさかあんたまで動くってのかよ?!」
 
 「当たり前だろうが。切られた糸が何処かに絡んで寄生するっていうのに、俺が来なくてどうすんだ。」
 
 「いやいや、魂が逃げただけだよ!?あんたが来るほどの事じゃねぇよ!」

 「逃げた魂が、普通の魂だってんならな。」
 
 
 
  首を竦める主に、蒼褪めた馬は黙り込む。そんな愛馬を見やり、彼は薄く笑う。
  
  
  
 「なあ、あの魂を連れてきたお前が一番よく知ってるはずだ。相当、手こずってたからな。なにせ愛だの憎し
 
  みだのに引き摺られて、相手の魂まで食ってしまった魂だ。それどころか現世に蟠る負の感情を食って肥大
  
  した。だから、わざわざ、お前が引導を渡しに行ったんだろうが。」
  
  
  
  本来ならば、今頃、地獄の最下層、コキュートスの中で氷漬けになっているべき魂だ。そんな魂が、他の糸
  
  に絡んでいるのならば、尚更。
  
  
  
 「だから、俺が来た。俺ならお前が手こずる魂でも押さえられるだろうし、最悪―――。」



  くっと吊りあがる口角。
  
  
  
 「最悪、死者の名前を書き換える事が出来る。だから、誰かに寄生して蘇ったと言うのなら、その寄生された
 
  人間の名前を死者の書に書けば良い。」
  
  
  
  ――その後で奴の名前をもう一度書き加えて今度こそ地獄の川に沈めれば良い。
  
  
  
  冷然として言い放った主に、蒼褪めた馬は押し黙る。それを一瞥し、彼は糸切りの女神に向き直る。
  
  
  
 「それで、奴は誰の糸に絡みついてやがるんだ?」

 「一人じゃないわね。この中の誰かに寄生しようとしてる。」



  彼女が見せた細かい糸の束に、ふん、と彼は頷いた。



 「一つ一つ当たるしかねぇか。手間が掛かるが、仕方ねぇ。」

 「けど、こっちには4人しかいないんだよ!一瞬でも見逃せば、その隙に奴はこの糸のどれかに寄生する。全
 
  員に当たるなんて無理だよ!」
  
 「安心しろ。他の奴らにも声は掛けてある。それで当たれば、十分だ。」



  彼は足先で沈没している三頭犬を小突いて起こす。

  そして、まだ不安げな、死に纏わる精霊達に告げた。



 「いいか。奴を見つけ次第とっ捕まえろ。どんな手立てを使ってもかまわねぇ。焼き焦がそうが、引き裂こう
 
  が、好きにしな。抵抗するようなら――『食わせて』良い。」
  
  
  
  どうせ、氷漬けにされ転生も望めぬ魂だ。
  
  
  
 「散れ………俺の気が長いうちに、奴を引き摺り出せ。でなきゃ、いたずらに死者が増えるぜ。」
 
 
  
  最後、いっそ禍々しさを孕んだ声音に、さっと音もなく死の翼が翻り、そこにいた影が消え去った。
  
  後には深い川の流れが漂うばかりだった。