男は、おそらく前回キースが酒場を訪れた時と同じように、同じ場所で一人、酒を煽っていた。
以前はマッドの影に隠れて見えなかったが、うらぶれた酒場の一番奥まった場所で、今にも闇に
飲まれそうな静寂を湛えている。ともすれば、埃に紛れて消えてしまいそうな佇まいだが、それを
許さないのは、男の中から乾いた、退廃とも不毛とも言える荒野の気配が醸し出されているからだ
った。
5000ドルの賞金首。
西部一の拳銃使い。
不毛と退廃の風。
そして、マッド・ドッグに追われている。
賞金首サンダウン・キッドである。
マッドの魂に、確かに傷をつけた男は、ジェフリーの言い分を聞くならば、それはサンダウンが
マッドに並々ならぬ感情を持っているからだという事らしい。近頃、常にキースを傍に置いたマッ
ドの態度が、何にも傷つかぬような鉄面皮のサンダウンの顔に、確かにヒビを入れたと言うのだ。
キースには、その辺りの事情はよく呑み込めない。
マッドが、本来ならば対極に位置しているはずのサンダウンに情報を求めた事も、サンダウンの
裏切られて傷ついた事も、そしてサンダウンがマッドの態度に傷ついているという事も。彼らの事
情はキースには手の届かぬところにある。
いや、もしかしたら理解できる事なのかもしれないが、キースは敢えて理解しようと思わなかっ
た。それは、何か自分の根本を変えてしまいそうなものであるような気がして。
「……………。」
近づいたキースを、型崩れした帽子と薄汚れたポンチョの隙間から覗く青い眼が、ゆるやかに、
しかし有無を言わさぬ強い光を湛えて見据えた。荒野の冷徹な日差しを孕む青空が、こんな色をし
ている。
「サンダウン・キッドってんだろ、あんた。」
よもや、違うわけがあるまい。
ジェフリーがそう言い、ジェフリーがそれを問い質した酒場の主人もそう言い、何より他ならぬ
マッドがその名を呼んだのだ。他の誰かでは有り得ない。
名を呼ばれた男は、キースの姿をまじまじと見て、しかし何か語ろうとはしなかった。キースの
登場を驚いているわけでも、煩わしく思っているわけでもないようだ。砂色の男の沈黙は、肯定を
意味していた。
「賞金稼ぎマッド・ドッグを裏切って、この町の保安官に飼い殺されたんだな、あんたは。」
「……………。」
サンダウンの手の中に挟まっていた、葉巻の紫煙が微かに揺れた。サンダウンは揺らいだ葉巻を
ゆっくりと口元に持っていき、髭の中に埋め込む直前で呟いた。
「………賞金首が賞金稼ぎを売って、問題があるわけでもない。」
それは、マッドを裏切った事について、はっきりと自覚して行った行為であると告白したも同然
の台詞であった。
キースはサンダウンの動かぬ頬の筋肉を睨み付け、吐き捨てる。
「でもあんたはマッドに情報も渡してたんだろ。って事は、あんたとマッドは、さほど悪い仲じゃ
なかったって事だ。追う追われるの事はあっても、わざわざぶち壊すような関係でもなかった。
それをわざわざぶち壊したって事は、それなりの理由があるんだろ?」
ジェフリーが言うには、それはマッドがキースを侍らせた所為らしいのだが。
「あんた、この町の保安官に幾ら積まれたんだ?あんたと同じ価格でマッドを売ったのか?そんな
はした金が、マッドと釣り合うと思って?」
「……………。」
サンダウンの青い眼が、暗がりの中でゆっくりと細められた。キースを値踏みするように、口を
噤んだ男の視線を、葉巻の紫煙が時折隠す。昼間だと言うのに既に薄暗い中、僅かな明かりを見つ
けては弾く青は、何かの警告音のようでもあった。
青い光を点滅させていたサンダウンは、やがて葉巻を口から離し、傍に会った灰皿にそっと置く。
マッドの持つそれとは全く違う、癖も何もない安っぽい匂いが、一瞬キースの鼻腔を擽った。が、
その匂いは安物である故に、あっという間に霧散してしまう。
或いは、別の匂いに掻き消されたか。
「…………お前は、マッド・ドッグを抱きたかったのか?」
そして放たれた言葉は、キースの予想の斜め上を飛び越えるものであった。
一瞬、何を言われたか分からなかったキースは、かなり間の抜けた顔をしていたに違いない。
「はあ?!」
「それとも、抱かれたかったのか。」
あいつは、他人をそうやって良く惑わすから。
サンダウンの声には、苦笑も侮蔑も憐憫も込められていなかった。ただただ、事実を淡々と言っ
て聞かせる響きだけがあった。
「マッドは、自分の外見を最大限に生かして、他人を惑わす。惑わされたほうは、知らず知らずの
うちに、あいつの言いなりになっている。あいつの手駒となって、自分の意志で、あいつの為に
動くようになる。」
「あんたは違うってのか?だから、マッドを裏切れたって言うつもりか?」
マッドの惑わされていない、と、自信を持って言い切る事はキースには出来なかった。だから代
わりに、サンダウンはどうなのかと問い質す。ジェフリーの言うように、マッドの態度に惑わされ
たから、己を惑わしたマッドに罰として裏切りを与えたのではないのか。
「……私は金がなくなったから、この町の保安官に雇われただけだ。」
それ以上でもそれ以下でもない。
サンダウンの声は冷ややかだった。
「マッドに惑わされて、それでもマッドに対して未だ恋情めいたものを持つと言うのなら、話し相
手は私ではないだろう。いっその事、あのジュディとかいう名を名乗っている奴を話し相手にし
たらどうだ。」
傷を舐め合うにはちょうど良い。
冷徹な声は、とてもではないが、マッドに惑わされた事がある人間のものとは思えなかった。
サンダウンの声を振り切るように、キースは唇を噛み締めるとブーツで高い音を立てて踵を返す。
内心で、全く見当違いの事を吐いたジェフリーを罵り、一方でマッドに置き去りにされた上に手駒
にされていたのかという疑いが燻っている。
その背に、止めと言わんばかりに、サンダウンの声が突き刺さった。
「お前だって、ジュディが自分に一番近い人間だという事に、気が付いてるんだろう。」
転がるように場末の酒場から出たキースは、扉を開いた瞬間に目の前に現れた誰かとぶつかりそ
うになった。
ぎょっとして立ち止まると、目の前に会った顔は、バツが悪そうにそっぽを向いた。その横にあ
る眼は酷く不機嫌そうだ。
「………いや、何も言わずに宿を出ていったから。」
「勝手な行動しないでよね。あたし達に迷惑がかかるんだから。」
言葉を濁したふうの男の声と、キンキンと高い耳障りな声。
奇しくも、それはエリックとジュディだった。今までマッドを見張っていた二人は、マッドがい
なくなった事で今度はキースを見張る事にしたのだろう。しかし、ジェフリーは見張りなどどうと
でもなると言っていたのだが。
再びジェフリーへの怒りが込み上げるキースは、しかしジュディのけばけばしい様子と、やたら
甘ったるい匂いに、苦い気持ちになる。エリックが誰にも奪われまいと、周囲に視線を忙しなくや
る様子は、もはや哀れだった。そしてそれを、エリックが有り難がっている様子は何処にもない。
周りの連中も、ほとほと呆れているという様子だ。
こんなのと、自分が同じだと言うのか。
キースは、サンダウンの言葉を思い出し、そこに激しい嫌悪を見出している自分がいる事に気が
付いた。そういう感情はないと思っていたけれども、違うらしい。しかし、キースの中には確かに
マッドに対して惑っている部分があるのも事実だった。マッドに対する感情の中に、惑いがないと
は、やはり言い切れない。
「おい、ジュディっつったな。」
殊更乱暴な口調で、キースはジュディを真正面から見据えた。
背の高い所にある眼は忙しなく、首にスカーフを巻いて、やたらと胸を強調し、甘い匂いを撒き
散らしているその姿は、やはり見ていて楽しいものではなかった。
別に、サンダウンの言葉を丸ごと飲み込んで、これが自分の仲間だと思って話しかけたわけでは
ない。
ただ、エリックの事でおつむが一杯になっているジュディの口からは、ヴェニスの企みがぽろり
と零れ落ちる可能性があったのだ。
「あんたと、話がしてぇのさ。」
「何よ、あたしをナンパするつもり?でも有り得ないから。あたしにはエリックがいるんだから。」
「誰もあんたなんか、ナンパしねぇよ。」
ジュディをナンパするなんざ、金輪際御免だ。きっと、キースに迫ったあのどうなったか処遇の
分からないあの男だって、ジュディの事は嫌だと言うだろう。
キースは、ジュディになんぞ仲間意識も何も持っていないが、けれども。
「マッド・ドッグに捨てられた人間として、話を聞いて欲しいだけさ。」
途端に、ジュディの眼が驚いたように、その時、落ち着きのなかった視線が確かにキースをしか
と見た。そしてその眼に、何か形容しがたい――憐憫か同情か――光が灯った。そして、固いだけ
の頬に、何か丸みのようなものが。
それは、サンダウンが言っていた仲間意識のようなものだった。
「ああ、そういう事。それなら、特別に、良いわよ。」
キースにとっては不本意な事に、ジュディの中で何かが解けたような声だった。