砂色の男を見据えたマッドの眼は、何かに酷く傷ついているようだった。
そのわけは、すんなりとヴェニスの口から明かされた。
「そんなに、この男がこちらにいる事が不思議かね。大切な情報源であった、この男が。」
つまり、マッドが昨夜会っていたのは、この男だったというわけか。キースが殺されたのではな
いかとやきもきしていた。
だが、キースのもやもや感とは裏腹に、目の前にいる男はしっかりと自分の脚で立ち、マッドに
銃口を向けている。一切の隙のないその姿は、どう見ても只者ではない。
しかし一番重要なのは、マッドに情報を与えていた男が、こうしてマッドとは全く別の場所に立
ってマッドと対峙している事だ。それは、この男がマッドを裏切った――裏切ったとまではいかな
いにしても、マッドに情報を与えつつ、マッドの情報をヴェニスに与えていたという事ではないの
か。
そして、マッドはその事を知らなかった。
ぎりぎりと、こちらにまで聞こえてきそうなほど、マッドは歯噛みしている。自分の勘が外れた
事よりも、目の前に突き付けられた銃口を握る相手の存在が、マッドを追い詰めているのだ。
「此処までのようだな。」
ヴェニスの言葉は勝利宣言に近かった。
勝利して、そしてヴェニスはマッドをどうしようというのか。まさか、マッドを殺して秘密裡に
処理してしまうつもりか。
だが、例え敗北が確定していたとしても、しゃあしゃあと殺されたり生け捕りにされないのがマ
ッドだった。
真鍮の銃口に傷ついたような表情を浮かべながら、しかし、ひゅう、と鋭い口笛を二度、三度と
短く響かせる。その音に、微かに表情を顰めたのは、砂色の男ただ一人だった。彼だけが、この後
のマッドの行動を理解できたのだ。あとの者は皆、首を傾げたりせせら笑ったりするだけだ。
と、そんな彼らの頭上を高く飛び越えて、黒い影が疾走した。砂を強く蹴る音と、頭上を通り過
ぎる影が、やけにゆっくりと動いて見えた。ただ、それを皆はぽかんとして見送るばかり。そして
それに反応できたのも、やはり砂色の男ただ一人。手にしていた銃を滑らせて、漆黒の影に向ける
が、再び地面に下りた影のほうが動きが早い。
そして、マッドのほうが。
マッドの足元に、その巨体からは想像もつかぬ軽い音で舞い降りたのは、闇夜を切り抜いたよう
な黒馬であった。マッドの愛馬であるその馬が、地面にその前脚を付けるや、マッドの手が閃いて
黒く艶やかな馬の首に腕が回されている。馬の首を起点として、マッドは逆上がりでもするように
馬の背に飛び乗った。
黒馬は、その動きを止める必要もないままに、マッドの背に乗せると同時に後足を地面に下ろし、
再び後脚で地面を蹴り上げる。
馬が跳躍するのと、馬の後脚があった場所に、芯ちゅう色の銃口から放たれた銃弾が着弾するの
はほぼ同時であった。しかし、轟いた銃声に普通の馬ならば驚いて泡を食って背に乗せた主を落と
してしまいそうなものだが、黒馬は何一つとして微動だにせず、背後の人間の事など興味もないま
まに、マッドを乗せて闇が広がる荒野へと飛び込んでいった。
残されたキースは、ただ茫然としてランプに照らされて蠢く墓場の陰影と、マッドの消え去った
深い闇を見つめていた。
マッドに見捨てられたキースは、ともなく宿の一室に閉じ込められた。
マッドの仲間と見做され拷問でもされるかと思っていたのだが、キースの予想に反して軟禁だけ
で済んでいる。とはいえ、マッドに置いて行かれた事の衝撃は、幾分かキースに打撃を与えていた。
別に裏切られる事など日常茶飯事なのだが、此処まであっさりと見捨てられるとは思っていなか
った。もしかしたら、ヴェニス達もそんなキースを憐れんだのかもしれない。だから、こうして軟
禁程度で済んでいるのだろう。
そして、マッドにキースを見捨てさせるほどに傷つけた砂色の男はと言えば、あの後ふらりと場
末の酒場に向かったようだった。マッドの傷ついた眼差しにも顔色一つ変えなかった男は、この後
も平然として酒を飲み続けるのだろう。
一体、何者なのか。
マッドと通じているようで、しかしマッドをあそこまで圧倒してみせた男。
マッドが、あの男は大丈夫だと言い放った理由は、あれで理解できる。あの男はマッドよりも強
いのだ。だから、マッドはこの町の暗殺者如きにはやられないという自信があったのだ。尤も、そ
の後自分が裏切られる事になったわけだが。
あの銃声の後、砂色の男は、マッドを裏切る為に暗殺者達についていったのだ。きっと無理やり
つれていかれたのではない。望んで、ついていったのだ。それがマッドを更に傷つけたのだろう。
「随分な身分だな。」
ベッドの上で、床に置き捨てられたマッドの荷物と自分の荷物をぼんやりと眺めるキースに声を
かけたのは、ジェフリーだった。
軟禁されているキースの元に、普通にやって来たこの男は一体何者なのか。キースの部屋に入っ
ても誰も咎めなかったのか。
「どうだ、信じていた人間に裏切られた気持ちは。」
「別に、裏切りなんか日常茶飯事だろうが。」
「そうか?そのわりには落ち込んでいるようだが。」
ずけずけと言い放つジェフリーに、キースは以前からこの男の事はいけ好かなかったのだが、更
に苛立ちを募らせる。それはジェフリーの台詞が図星であった所為もあるのだが。
「一体、てめぇは何しに来たんだ。俺は軟禁されてんだ。」
「あの男の事が気にならないのか。」
予想もつかなかったジェフリーの言葉に、キースは眼を瞬かせた。あの男、とは砂色の男の事を
言っているのだろう。
「あの男はサンダウン・キッドといって、5000ドルの賞金を懸けられた犯罪者だ。マッド・ドッグ
も、あの男を狙っていた。」
「賞金首……?」
そんな男から、マッドは情報を引き出していたのか。自分が追いかけている男に裏切られて、あ
んな傷ついた眼をしたのか。どうして。
「……なんでそんな事を、俺に言うんだ。」
「ただの憐れみだ。」
裏切られた側の気持ちなら、俺も多少は分かる。
ジェフリーはそう言ってキースを見下ろした。剃刀色の眼に宿る光が、果たして憐れみであった
のか同情だったのか、キースには判別できなかった。
「……裏切られて、保安官を止めたってのか?」
「それもあるが、今も俺は裏切られ続けている。他ならぬ弟に。」
保安官でありながらも悪行に手を染めている、ヴェニスに。
「ヴェニスがあんたの弟だって?」
明かされた真実に、キースは眼を剥いた。そして、ヴェニスがジェフリーを見て、あれほど驚愕
した理由がやっと分かった。
だが、悪行とは。もしも賭博場の経営であったり、ならず者と癒着している事を指しているのな
ら、潔癖すぎる。それらに手を出していない保安官なんて、片手で足りるなんて人数ではない。
しかし、ジェフリーは首を横に振って、そんなものではない、と呟く。
「奴は人間として手を出してはならない物に手を出している。俺は、兄としてそれを止めなくては
ならない。」
決然とした眼でそう告げた元保安官は、賭博師をゆっくりと見る。
「もしもお前が腑抜けているのが嫌だと言うのなら、手伝え。」
「はあ?」
「このまま、マッドなしでは何も出来ない男と言われたいなら、別に構わんが。」
それは嫌だろう、とまるでこちらの心境を悉く把握しているかのような声だった。キースは少し
口元を引き締めてジェフリーを睨み上げていたが、やがて固く閉じていた口を開く。
「俺にどうしろってんだ。」
「サンダウン・キッドに会って、ヴェニスの企みを探ってこい。まさかサンダウン・キッドが、何
も知らないままで奴に手を貸したとは思えん。」
「……なんでそんな事が分かるんだ?」
「サンダウン・キッドの考えは多少は分かる。何せ、知り合いだったからな。」
あの男が何の意味もなく誰かに手を貸すものか。
吐き捨てるようなジェフリーに、キースは、しかしサンダウンがキースの言う事を聞いてくれる
か分からないだろうと思う。
ヴェニスには、サンダウンを動かすだけの何らかの見返りを持っていただろうが、しかしキース
には何もない。サンダウンに渡せる利益も情報も。
すると、ジェフリーは首を横に振った。
「お前がマッドと共にいたという事だけで、奴にはお前と話す理由がある。」
「なんだって?」
「奴らがこれまで何の決着も着けずに延々と追いかけっこだけをしていた事を考えれば、奴らの関
係が一筋縄ではいかない事は分かるだろう。サンダウンの奴は、マッドがお前を守ろうとしてい
た事を気にしているはずだ。」
もしかしたら、奴がマッド・ドッグに銃を向けたのは、案外お前の所為かもな。
嘯かれた言葉に、キースは絶句した。しかし一方で、マッドのあの傷ついた眼差しの理由が、す
とんと理解できたようにも思えた。
あの二人は、もはや追いかけ追われるだけの関係では足らなくなっていたのだ。それを彼ら自身
が気づいていたのかどうかは分からない。分からずとも、しかし分からぬままに変容していったの
だろう。
ただ、マッドよりもサンダウンのほうが、変容した自分達の関係に狭量であったのだ。
だから、マッドが自分以外の誰かに構っているのが許せず、ああやってマッドを傷つけたのか。
それがマッドの栄光に影を差すと分かっていながら。今回の失敗は、間違いなくマッドの経歴に傷
を付けるだろうに。その事で苦しむのはマッドだろうに、サンダウンはそれさえも罰だとして与え
たのか。
なんて身勝手な。
「どうする。サンダウンに会いに行くのか。」
「行く。でも、俺は軟禁されてんだぞ。」
「安心しろ。ヴェニスの部下は俺が追い払った。」
だから、思う存分に動くが良い。
開かれた扉の向こうは相変わらず薄暗く不気味ではあったが、しかしキースにはそれを恐れる理
由がなかった。もう、何処にも。