こちらからは良く見えない奥まった場所で、マッドの上品な黒いジャケットの裾だけが、ちらり
 ちらりと動いている。マッドの影になって見えない部分には、確かに誰かがいるようだが、キース
 の場所からははっきりと見えなかった。微かに漂う、砂っぽいうらぶれた匂い以外は。時折黒のジ
 ャケットに絡むように、茶色い色合いが見えたような気もしたが、薄暗く、しかも酒場の薄汚れた
 壁や床に紛れてしまったので、見間違いだったのかもしれない。
  だが、マッドの更に奥に誰かがいる事は紛れもない事実。
  でなければ、マッドがそこに立ち尽くしている理由が分からない。あと、周囲にいる何人かが、
 剣呑な視線をそちらに向けて探っている理由が。
  マッドの端正な声は、全く聞こえてこない。何か話しているはずなのだが、時折吐息のような震
 えが伝わってくるだけだ。
  それは周囲にいる剣呑な男達――どうやら夜間マッドを見張る連中らしい――も同じらしく、突
 っ伏したり酒を飲んだりしているその顔に、苛立ったような皺を刻んでいる。
  だが、マッドにとってこちらの苛立ちなど痛くも痒くもないだろうし、むしろどうでも良いとさ
 え思っている節がある。
  それに冷静に考えれば、マッドが誰と話しているかなど、後で先から酒場にいた連中――酒場の
 主人やらにでも聞けば済む事だ。話している内容までは分からないかもしれないが、マッドが何を
 考えているのか相手の事から分かるかもしれない。だから、そこまで急く事はないのかもしれない
 が。
  しかし、そうは言っても気になるのが人情というものだ。キースも、ジェフリーと共にそちらを
 注視している。じり、と額が汗ばみ、汗が眼に流れ落ちるのも気づかぬほどに。キースが気にする
 事など何もないにも拘らず。
  ふいに、空気が動いた。   乾いた風がマッドの奥から流れ込んできて、かさついた色合いが蠢く。マッドと話している相手
 が動いたのだ。あまりにも素早く翻ったので、キースは結局その姿を見る事は出来なかったが、何
 か、その乾いた風を感じただけで深い闇を覗き込んだ気分になった。
  腹の底に冷たい水を一杯に満たしたかのような気配が、するりと消えた。どうやら裏口から出て
 行ったようだ。マッドはしばらくの間、消え去った後を追いかけているのか、微動だにしない。
  マッドが動かない間、今まで突っ伏していたり、酒を飲んだりしつつもそちらの様子をずっと窺
 っていた男達が、ぞろぞろと動き出した。何人かが金も払わないまま表口から出ていく――マッド
 の脇を通り過ぎる勇気はないようだ。出ていった男達は、おそらく今までマッドが話をしていた誰
 かを追いかけていったのだろう。
  追いかけて行って――尋問するのか。マッドと何を話したのか。しかしそれだけで済むのか。尋
 問という名の拷問ではないのか。行き過ぎて殺されてしまう可能性がないわけがない。マッドも分
 かっているだろう。けれど、マッドは立ち尽くしたまま動こうとしない。
  動かないマッドから、不意に甘い独特の香りが漂った。こんな場末の酒場で薫るには、あまりに
 も場違いな香りだ。嗅いだだけで、それは高価な葉巻の香りだと分かる。マッドが己の持つ葉巻に
 火を点けたのだ。緩やかに漂う煙だけが、マッドの動きになる。
  動かぬマッドの代わりに、酒場の中を煙が席巻した時、薄い壁で隔てられていた外の夜から、壁
 の存在など無視するかのような轟音が吠え渡った。
  鋭く、短く、そして何度か聞こえたその音は、確かに銃声だった。
  ぎょっとして、キースはマッドの背中を凝視した。しかしマッドの黒いジャケットで覆われた背
 中は動かない。肩甲骨の部分が、葉巻を咥え直す為にわずかに動いただけだった。
  鋭い銃声が聞こえて、その余韻が消え去り、凍り付いていた酒場の中にさざめきのような声が広
 がり始めた時、ようやくマッドが動いた。ジャケットの裾を翻して優雅に振り返ったマッドの白い
 顔は、しかしうっとりとした笑みを口元に湛えていた。
  たった今まで険しい顔を浮かべていた、なんて事は決してないだろう。きっと、銃声が聞こえた
 瞬間、そしてその後もマッドは微笑んでいたはずだ。
  理由を問う暇は、与えられなかった。
  マッドは、長靴を高く響かせて、キースがジェフリーと共に座っているテーブルまで真っ直ぐに、
 なんの動揺もないままに歩み寄ってくる。此処に二人がいる事など、とうの昔に御見通しだったよ
 うだ。
  動けぬキースの前に立ったマッドは、別にキースを咎めるつもりはないらしく、その笑みを深め
 ただけだった。

 「よう、こんな夜中までついてくるなんて、ご苦労な事だな。てめぇは寝てたって良かったんだぜ。
  まあ、職業柄眠らねぇ時間帯かもしれねぇが。」

  くすり、と小さく声を立て、マッドは次にジェフリーに視線を動かす。

    「あんたも、こいつに付き合う必要はねぇだろう。まあ、目的が俺だったのかこいつだったのかは
  特に聞かねぇが。」

  本当にどいつもこいつも俺に付き合う必要はないだろうに。
  マッドは、朗らかにそう言うと、これ以上この酒場に用はなかったのか、そのままふらふらと、
 たった今、見張りである男達が出ていった扉へと向かう。酒場の主人に、己の話し相手についての
 口止めもしない。
  いや、それどころか銃声のした方向を確認しようともしていない。本当に、そのまま宿に帰って
 眠るつもりらしい。
  そうだ、とキースを振り返ったマッドは、相変わらず鋭い光を灯した眼が輝いている。

 「キース、夜更かしは構わねぇが、ほどほどにしとけよ。大人しくしてねぇと、流石の俺も面倒見
  切れねぇぜ」

  ゆらりゆらりと蝶のような、何処かに向かうとも分からない足取りでマッドは酒場を出ていく。
  その後を慌てて追ったキースは、酒場から出たところで妙な気分になった。きっとそれは、風が
 生温かかった所為だろう。その風に乗って、微かな生臭さを感じて眉を顰め、闇に溶け込みそうな
 マッドを追いかける。
  今度は、ジェフリーは追ってこなかった。






 「なんだ、結局帰ってきたのか。」

  宿の部屋でジャケットを脱ぎ捨てたところで、マッドは背後にいたキースを再び振り返った。
  マッドは別にどちらでも良かったのだが、まあ大人しくしていた方が良いかもしれないな、とは
 思う。
  例え、キースが夜の生き物であったとしても、この町を歩くのは少々危険だろう。 

 「……何のことだ。」

  キースがむっつりとした表情でマッドを睨んできた。
  色恋沙汰に近い内容で男に追われている賭博師は、しかしこの町に辿り着いた理由は他にもある
 だろうと思っている。
  マッドはそれを深く詮索するつもりはないが。
  ただ強いて言うなら。

 「賭博師以外の仕事は、この町ではあんまりしない方が良いって言ってんだ。」

  途端に、顔が顰められた。
  その顔を見て、マッドは声を上げて笑う。すると、ますますキースの表情が険しいものになった。
 別にそんな顔をしなくても良いのに。

 「賭博師が賭博だけで食ってけるわけがねぇだろう。」

  現にキースはイカサマをしている。賭博師兼イカサマ師。それに更なる兼任があっても、別にお
 かしくはない。

 「それだけ器用何だ。多少手癖が悪い事くらい、想定できるだろうが。」

  スリか空き巣か。取り敢えず、小物の犯罪者だ。物色している物にもよるが。もしかしたら、こ
 の町には、物色するに値する何かがあるのかもしれない。マッドは、その想定を捨てずにいる。

 「……俺を捕まえるのか?」

  マッドを追いかけてきた先程までとは打って変わって、今にも逃げ出しそうな手負いの獣のよう
 な声を上げた賭博師に、マッドはますます愉快そうに笑う。

 「言っただろうが。俺が、てめぇみたいな小物を捕まえるかよ。てめぇがマリー・アントワネット
  のダイヤの首飾りでも盗んだってんなら別だが、そんな大層なもんは盗んでねぇだろ。仮に重要
  書類を盗んだとしても、せいぜいこの西部の保安官や検察の首を挿げ替える程度のもんだろ。俺
  の手を煩わせるもんじゃねぇ。」

  だから、好きにさせているのだ。
  マッドの手の届く範囲で。

 「大体俺は別の仕事の最中だからな。お前を捕まえてる暇なんかねぇよ。」
 「今日の密会も仕事の一環かよ?」
 「密会、ねぇ……。」

  確かにその通りだと、マッドは愉快になった。密会である事に間違いはない。だが、やはりキー
 スのいる場所からはマッドの奥にいる人物の姿までは見えなかったようだ。キースは、ベッドに寝
 転ぼうとしているマッドに、ずいと迫った。

 「良いのかよ。あの後銃声がしてたじゃねぇか。放っといても良いのか?」
 「別に良いじゃねぇか。お前には関係ねぇだろ。」

  それとも。

 「あれか、自分もあんなふうに途中で放ったらかしにされて、銃で撃ち抜かれるとでも思ってんの
  か?」

  キースが言葉に詰まった。
  その様子に、マッドは図星か、と歌うように言った。
  けれどもキースの懸念は、全く以て見当違いだ。マッドはあの男を放ったらかしにしたわけでは
 ないし、別に放ったらかしにしておいても問題ないと思っている。
  いや、まさかこのマッド・ドッグが長年追いかけている賞金首が、放ったらかしにしておいて、
 あんな暗殺者どもに殺される程度では困るのだ。

 「とにかく、てめぇが気にする事は何もねぇ。明日の朝になりゃあ分かるさ。」

    そう。明日の朝になれば、誰が撃ち抜かれたのか分かるだろう。
  そして、サンダウン・キッドが酒場にいた事を知ったであろうジェフリーがどんな動きをするの
 か。ジェフリーの動きを受けてヴェニスがどう動くか。キースが何をするか。
  マッドは満足そうに自分の手札を眺めやった。






  翌朝。
  誰かが撃たれたであろう痕跡は何処にもなく。
  ただし、マッドが酒場で見かけた何人かの姿も、何処にもなかった。