夜中、マッドが何も言わずに出ていった。
  ベッドの上で、一言も声のかけられる事のなかったキースは、少しだけむっとしていた。
  守ると言っておきながら、昨日今日と完全に放置されている所為もある。マッドは笑いながら、
 大丈夫だと言っていたが、本当か、と疑いたくなってくる。実際、あの後あの男が何処に行ったの
 かキースは知らされていない。人知れず殺されたとか、この町特有の手で葬り去られたのだろうか。
  だとしたら、マッドもこの町の何かに加担している事にならないか。
  もしも、マッドがこの町に加担してると言うのなら、マッドはもうこの町を掌握したのだろうか。
 キースが知らないうちに。
  そう考えて、それはないな、と首を振る。
  もしも既にマッドがこの町を支配してしまったのなら、こんなふうに夜中に消え去る事はないだ
 ろう。情報収集が此処まで難航する事もあるまい。
  それに、マッドの後ろに見えたあの二人。
  がっちりした身体つきの男と、背の高い妙に化粧の濃い女。あの二人を、マッドは見張りだと言
 っていた。己の行動を拘束する足枷だと。少なくとも昼間は、ああして目に見えているところでマ
 ッドを見張っている。
  わざとらしく、手伝いと言いながら見張りを付ける事で、マッドに警告しているのだ。
  警告の詳細な意味合いは分からないが、けれどもそれこそが後ろ暗い事のある証拠だと、マッド
 は笑う。そして夜ともなれば、きっと手伝いではなく暗殺に近い見張りが付く事だろう、とも。
  賞金稼ぎマッド・ドッグを殺そうとする、或いは殺せる輩はそうそういないだろうが、しかしそ
 れが行われる可能性がある。それでもマッドは、昼間は手に出来なかった情報を得る為に夜を歩こ
 うとしている。
  マッドの事だ。滅多な事はないだろう。
  だが、キースはマッドが出て行ってしばらくした後、もぞもぞと身仕度を整え始めていた。
  もしもマッドが、とキースは己に呟く。もしもマッドが、本当に暗殺者に襲われた時、きっと見
 ている人間が必要だろう。マッドの言葉を真にする為に。
  むろん、暗殺者と対峙するマッドにとって、キースがお荷物になる事は大いに考えられたが、し
 かしキースにそこまでの事を考える頭は、夜の靄の所為でなくなっていた。
  身仕度を整えたキースは、とりあえずナイフを懐に忍ばせる。キースが一度、人を刺した時に使
 ったナイフだ。象牙あ嵌め込まれた柄をすぐに取り出せるように仕込み、既にマッドの気配のなく
 なった扉を開いた。
  案の定、暗い廊下にはマッドの姿は何処にもない。何の躊躇いもなく、キースを置いて夜の道を
 歩いているのだ。
  ガランとした宿の廊下を通り、キースはマッドどころか誰の気配も感じられない廊下を下ってい
 く。安宿には、キース達以外にも誰か泊まっているはずだし、宿の主人もいるはずだ。だが、死に
 絶えたように静まり返った宿の中は、恐ろしく不気味であった。
  夜遅くまで遊び呆ける事は多々あったが、こんな不気味な色合いを見るのは、キースは初めてだ
 った。夜に恐怖に近いものを感じるのも。
  賭博師にとっては友人に近い夜に、そんな感情を抱く事を呆れながら、キースはひやりとした空
 気が漂う宿の中を進む。そこへ、いきなり黒い影がぬっと立ち塞がったのだから、堪らない。咄嗟
 に悲鳴を上げなかった事が不思議なくらいだ。
  闇に浮かび上がった、闇よりも尚も暗い影は、禿頭の下からキースを見下ろしている。鋭い剃刀
 色の眼差しと巌のような顔つきを見て、キースはようやくそれが誰なのかを悟った。
  ジェフリーだ。
  まるで、キースを見張るかのように昼間もサルーンにいる男に、キースは苦々しい視線で応じた。

 「こんな時間に何をしている。」

  重々しい声に、キースは苛立った声で答えた。

 「てめぇこそ何してやがんだ。まさか俺の後を付けてるわけじゃねぇだろうな。」
 「さっき、マッド・ドッグも出ていったな。何かやらかすつもりか。」

  こちらの質問を完全に無視して話をするジェフリーに、キースはますます苛立つ。というか、マ
 ッドは引き止めなかったのか、この男は。元保安官という事で、いざこざを回避させようとする本
 能が働くのかもしれないが、既に保安官ではない人間にあれこれと指図されるのは不愉快である。
  それとも。
  キースはジェフリーの行動が、どうもこちらを追いかけているように見える事について、ふと思
 う。
  まさかとは思うが、この男はこちらを見張っているのではないだろうか。この男も、ヴェニスの
 手下か何かなのではないか。
     ただ、手下と言い切ってしまうには、ヴェニスがジェフリーに対して怯えたような様子を見せた
 事を思い出し、しっくりと来ない。
  しかし今はそんな事よりも、マッドの後を追う事が先である。ジェフリーの巌のような体躯の脇
 をすり抜け、宿の外に出てマッドが向かったであろう先をキースも追いかける。マッドが言ってい
 た場末の酒場というのは、キースも心当たりがある。きっと、あの賞金首達が屯していそうな酒場
 の事だろう。
  道を確かめて歩いていると、背後でキースを追いかけてくる者がいる事に気づく。振り返ればジ
 ェフリーがいた。 

 「なんでついてくるんだ!」

    怒鳴ろうとするキースを無視して、ジェフリーはキースを追い越して、さっさと夜の闇へと進む。
 その方向は、紛れもなくキースが向かおうとする酒場のある方向で。キースの行動が読まれている
 のか、ジェフリー本人がその酒場に用があるのか、それとも、マッドをこの男も追いかけているの
 か。
  どうあれ、微かに不吉めいた色がする。
  本来ならば、キースは此処で引き返すべきなのかもしれない。だが、それをしなかったのは、単
 にマッドを追いかけなくてはならないと感じたからだった。別に追いかける必要など何処にもない
 のだが。
  不本意ながらジェフリーを追いかけるような恰好で、キースは酒場へと向かった。





 「……後を、つけられているぞ。」
 「知ってるさ。俺が気づかねぇとでも、思ったか?」

  場末の酒場の、完全に奥まった場所で、マッドは薄暗がりの下で蠢く賞金首を見下ろす。黒いぶ
 ら下がりの下で酒を飲んでいるのは、この男の趣味か何かかとも考えたが、何の事はない、ただ何
 かあった時にすぐに裏口から出ていける場所と言うだけの事だった。
  酒場に来るまでの間に、数人の視線を感じた。いずれも、堅気ではない、どうやらならず者に近
 い連中らしく、彼らはならず者の顔をして場末の酒場に今も入り込んでいる。
  尤も、彼らのほとんどはマッドの眼から見れば小物だ。こちらの姿に気づいて耳を凝らしている
 だろうが、実際にマッドの微かな唇だけを動かすだけのような声を聞き取る事は出来ないだろう。
  そんな、小物だ。
  まして、目の前で手酌で酒を飲んでいる男と比べれば。
  相変わらずの崩れた帽子と、薄汚れたポンチョに身を包み、その姿だけで顔を覗き込まなくとも
 もはや誰か分かってしまうのではないかと思うほど見知った格好。マッドは、この西部にいる全て
 の人間に、今後決して茶色の帽子とポンチョを羽織るなと言うべきではないだろうか、と思う。そ
 れほどに、この姿はこの男特有のものになりつつある。
  薄汚れた、しかしその首に掛けられた賞金は5000ドルという法外なものだ。10000ドルという賞金
 もあるにはあったのだが、それがあったからと言ってこの男の賞金が色褪せるわけでもない。
  マッドは白い犬歯を覗かせ、これ見よがしに腰のホルスターに収まっているバントラインを指で
 触れながら、男に語り掛ける。

 「それよりも賞金稼ぎであるこの俺様の身を心配してくれるってのか?なあ、キッド。」

  誰にも聞こえぬほどの、溜め息に混じらせるような声だったが、しかし微かに色めいた声は、男
 の耳にしっかりと届いている。
  5000ドルの賞金首サンダウン・キッドは、古びた帽子とポンチョの隙間から、きつい青空色の視
 線を覗かせてマッドを見た。

 「しかし、なんだってこんな所にあんたがいるんだ?遂に俺に撃ち抜かれに来たか?もしもあんた
  の意志じゃなかったとしたら、多分それは神の配剤ってやつだと思うぜ。」

  うらぶれて、据えた匂いのする酒場の、その部分だけがまるで何か別の場所のように色めいてい
 るのは、マッドの声が芳しい所為だろう。マッドの纏う香りも、上品な甘い葉巻の匂いで統一され
 ている。

 「………私に、何の用だ。」

  マッドの声など聞こえていないかのように、サンダウンは、こちらも誰にも聞こえないだろうと
 思うような、最低重音で呟いた。何処にも響かず、その場に留まるだけの声に、マッドは朗らかに
 笑う。

 「俺があんたに用があるなんて、一つしかねぇだろ?」
 「………今日は、その用ではないだろう。」

  未だに引き抜かれぬバントラインが、今宵は決闘には不向きだと告げている。

    「………人が増えた。早く言え………。」

  顔を上げもせず、しかし人が入ってきた事を当てた男に、マッドもそちらに顔を向けずに、構わ
 ねぇと答えた。

 「あいつらが誰なのか、俺は知ってる。むしろ、今此処にいるほうが好都合だ。俺があんたに聞き
  たいのは、あの二人のうち、禿げの男のほうだ。」

  酒場に新たに入ってきたのはキースとジェフリーだ。マッドを追って此処まで来たのだろう。
  そしてマッドが知りたいのは、ジェフリーの事だ。

 「元保安官のジェフリー。あんたは知ってるか?」
 「………何故、私に訊く?」
 「あの男が現役だった頃、俺はまだ駆け出しにもなってなくてね。噂しか知らねぇんだ。あんたな
  ら、知ってるだろ?」

  何故知っていると思うのか、マッドは口にしなかった。サンダウンもそれ以上の問いは続けなか
 った。ちらりとジェフリーのほうへ青い視線を向ける。サンダウンの姿は、此処からはマッドに隠
 されてジェフリーには見えないだろう。

 「………厳しい男だったな。」

  己にも他人にも。
  賞金稼ぎという他人の不幸を飯にする輩を許せない男だった。売春婦という不道徳な女を許せな
 い男だった。賭博も人を堕落させるといって良い顔をしなかった。犯罪者への態度は苛烈であり、
 相対したほとんどの賞金首は血を流して斃れた。逮捕の際は必ず死者が出た。

 「………いっそ、聖職者になれば良かったのではないかと思うほどの男だった。」
 「そんな男、神父にも牧師にもなれねぇよ。信者が迷惑するだろ。」

  身勝手を体現したようなマッドは、サンダウンの言葉を一蹴する。その台詞に、サンダウンが微
 かに笑ったようだった。

 「それで無理がたたって、保安官を止めさせられたのか?」
 「そう聞いている。」

  賞金稼ぎも売春婦も賭博師も、西部が西部である要素を何一つとして認められない男が、この場
 所で保安官なんてやってられるはずがない。彼が疎んじているのは、西部で重要な役割を果たすも
 のばかりではないか。疎んじても排除できるものではない。

 「じゃあ、ヴェニスって保安官は知ってるか?この町の保安官なんだが?」
 「…………。」
 「知らねぇか。ヴェニス・ロウって男なんだけどな。」

  知らねぇならいい、と言いかけたマッドを、サンダウンは止めた。

 「……待て、知っている。それは恐らく、ジェフリーの弟だ。」

     弟と二人でいる所を、見た。
  そう告げるサンダウンに、マッドは目を細める。それは、手札が一つ増えた事についてではなく、
 サンダウンの過去が一瞬垣間見えたからだ。サンダウンは、ジェフリーとヴェニスに、逢った事が
 あるのだ。
  そんな事を口に出すつもりはなく、マッドは代わりに手札を増やすための言葉を小さく、背後で
 こちらに聞き耳を立てているであろう二人にも、誰にも聞こえぬよう唇だけを動かして問う。

   「兄貴と一緒で賞金稼ぎ嫌いは一緒って事か。兄貴ほど厳格じゃあなかったようだが。」
 「………さて、どうかな。」

  サンダウンが、意味深な台詞を呟く。

 「ジェフリーは保安官を止めた後、放浪生活に入った………。ヴェニスを頼らずに。」

  弟に頼りたくなかったのか。
  それとも、弟が兄を助けようとしなかったのか。
  それ以上はサンダウンは口を閉ざした。語るべき事はこれ以上はないらしい。ひらりとポンチョ
 を翻して立ち上がった男は、暗がりに紛れて裏口に立つ。このまま出ていくつもりらしい。
  ただ、裏口の前で一歩立ち止まり、呟く。

 「私がいた事は、ジェフリーには知られるところになる。」

  それはそうだろう。酒場の主人に口止めも何もしていないのだから。だが、その時にはもう遅い。
 マッドは知る事は知ってしまったし、サンダウンは遠く離れたところにいる。
  何よりも、サンダウンもマッドも、銃の腕は彼よりも上だ。

 「………お前、何を探っている?」

  ふと、サンダウンが問うた。
  賞金稼ぎの行方不明事件ではないのか、と。噂になっている事に苦笑し、マッドはだからこの男
 は此処に来たのか、と疑問に思う。そしてサンダウンの問いかけには笑うだけに答えを留めておい
 た。
     マッドの笑みを答えとしたのか、サンダウンはひらりとポンチョの裾を払い、裏口から夜よりも
 静かな物音だけを残して去っていった。
  残されたマッドは、何人かの見張りが立ち上がり、表口から出ていく音を背中で聞いていた。