懐妊した王妃の為に、幾つもの馬車が王妃の故郷からやってきた。
彼女を溺愛する彼女の父は、激務の為領地を離れて娘の顔を見る事が出来ない。その代わりに、
たくさんの贈り物をルクレチアへと寄越したのだ。それは、世継ぎの誕生したルクレチアへの言祝
ぎの為ではなく、ほとんどが子を宿した娘への贈り物であった。
完全にルクレチアという国家を、娘を争いから隔離する為の箱庭と考え、それ以上の重要性を感
じていないような王妃の父の態度に対し、しかしルクレチアは何一つとして言わなかった。
理由の一つは、ルクレチアへの言祝ぎでなかろうと、このような立派な贈呈品が他国から贈られ
たという事実がルクレチアにはなかった為、非礼であるとは思わなかったからだ。
そしてもう一つは、大臣以下、王妃がルクレチアに嫁いだ理由を薄々と知っている者達は、これ
が非礼ではないかと考えていたものの、それを問いただす事で王妃の父の不興を買うのは彼らの立
場が危うくなる事も含めて決してルクレチアの為にはならないと判断したからだ。
これらの考えは、いずれにせよ、ルクレチア国民には何の変化も齎されなかった。ルクレチア国
民は、ただ他国から荷物を届けにやって来た、立派な馬車と逞しい馬に眼を丸くして、見惚れるだ
けだった。
一方、同じく異国からやって来た、そして王女懐妊という予言を告げた旅芸人達はといえば、木
の葉が色付き地に落ちる季節になってから、ようやく次の土地に移動する事を考え始めたようだっ
た。
王女懐妊の第一報があったのが、まだ木々の緑濃い時期であった事を考えれば、予言が当たるま
では此処にいると告げた彼らが未だにこの国に留まっているのは少し不思議な気もする。
しかしそれは、王妃懐妊の第一報を訝しむウラヌスと、そして小国の貴族でありながらも些か権
力志向のある大臣達が、まだ本当に懐妊したかどうか分からないと言い張り、この地に引き留めた
のだ。
厳粛なる教会の使徒であるウラヌスにしてみれば、不遜にして疑惑の強い旅芸人達をこのまま逃
がしてしまうのは惜しかったのだろう。何らかの処罰を、とまでは考えてはいなくとも、ささやか
な反省を感じさせる事をさせたかったのかもしれない。
一方で大臣達は、王妃のお気に入りとなった旅芸人達を、やはりおもしろくは感じていなかった
のだろう。ルクレチアという小国以外を治めた事がないにも拘わらず、権力に対する執念をちらち
らと見せる彼らにとって、広大な領地を持つ領主の娘という王妃は、まさに金のなる木に見えたに
違いない。結局そんな事は出来ないのだが、何らかの形で王妃に取り入って、いつかは広大な土地
を治めるようになりたいと子供じみた夢を見ていたとしてもおかしくはない。だが、そんな取り入
る隙を全て奪った旅芸人達に、なんらかの良いかがりをつけて処罰してしまうと浅はかに考えたの
だろう。
しかし、彼らの疑惑と期待とは裏腹に緑の木々が黄や赤に木の葉を変えていくにつれて、王妃の
腹は少しずつ膨れていった。
そして、もはや誰もが懐妊を疑う術もないほどに腹が膨れた日の事、旅芸人の長であるブライニ
クルは、暇乞いをしたのだ。
それは、折りしも初産となる王妃が、その不安の所為かお心が乱れている時でもあった。
「無責任な。」
それは、明らかに言いがかりであった。特定の宿を持たぬ旅芸人が、一国の王妃の懐妊に、如何
なる責任も持つわけがない。
しかし、大臣達は心乱す王妃を残して去りゆく旅芸人達を、無責任だと罵り始めた。
「あれほどまでに王妃殿下からご寵愛を受けておきながら、王妃殿下が苦しんでおられる時に、さ
っさと逃げ出すとは。」
嬉々として、自らが全く王妃の心を鎮める事に役立っていない事を話す大臣達に対して、自らの
首をかけて王妃懐妊の予言を下したブライニクルは、堂々としたものだった。
彼は口元に刷いた笑みを一つとして絶やす事なく、玉座の周りに連なる王侯貴族を見やり、一切
の躊躇いもなく言い放った。
「ご安心を。私どもの中で、尤も王妃殿下のご寵愛を受けております男を、吟遊詩人トルヴァを、
王妃殿下に献上いたしましょう。」
あっさりと仲間の一人を、まるで物か何かのように献上すると言ったブライニクルに、咄嗟に誰
もが声を失った。
だが、事実、王妃が悪阻の合間に呼ぶのはトルヴァだ。不安定な精神を、トルヴァの歌で治めて
いるのだ。その事は既に周知の事実。
女官達も兵士達も、かつてはトルヴァに対して王妃の閨を狙う間男といった蔑みを見せていたが、
溺愛されて我慢というものをしらないままに育った王妃の癇癪や気まぐれを抑える事が出来るトル
ヴァを、今は何よりも頼みとしていた。
それは、無理難題を押し付けられる事の多い大臣達も同じ事。
それを知っているからこそ、ブライニクルは言ったのだ。
トルヴァを献上する、と。
それはトルヴァとしても願ってもない事だろう。この国を足掛かりとして世界に名を轟かす事を
夢見ているのだから。
だが、それで良いのか。
ハッシュは、相変わらず笑みを湛えたままのブライニクルを王の背後で見下ろす。
トルヴァをこのまま置き去りにする事は、トルヴァの破滅を意味する。王妃に飽きられた吟遊詩
人の居場所は、この国には何処にもないのだ。
しかし、ブライニクルはそれ以上何も言わず、そのまま退出を許されたのだ。
「何か言いたそうだな?」
兄が自分の視線に気づいたのだ。
エスメラルダは、着々と退去の準備を始める仲間達の中、ただ一人何もせずに、兄を見つめる。
「無駄だ。」
しかし、兄はエスメラルダの考えなどとうに知っているのだろう。エスメラルダが何かを言う前
に一蹴した。
「これは変えられない未来だ。『夢見』は全てを見通す事は出来ないが、見たものは決して違えな
い。忌まわしいが、如何なる魔法よりも呪いよりも強い事実だ。お前がトルヴァを止めようと奔
走するのは良いが、しかし何をしても変わらない。」
「あたしの力を以てしても?」
低い声でエスメラルダは兄に問うた。
すらりと背の高い兄は、指輪だらけの指で剣を掴み、ゆっくりと腰に帯びようとしているところ
だった。それと同じくらい遅い動作で、ブライニクルはエスメラルダを振り返り、頷く。
「お前の力を以てしても、だ。」
見つめ合った黒い虹彩は、だが、兄の方が強かった。
眼を逸らした妹に、ブライニクルは追い打ちをかけるように囁く。
「気になるのなら、何度でもやってみるが良い。『夢見』の予言はお前を上回る。お前は決してそ
れを捻じ曲げる事は出来ない。俺達に出来る事は、それに関わらぬように避けて行く事だけだ。」
「だから、トルヴァを見捨てるのかい。」
「トルヴァは自ら選んでそこに行ったんだ。トルヴァが本気で破滅を逃れようと考えたなら、『夢
見』はトルヴァの破滅を見たりはしなかった。」
『夢見』とは未来を告げる力だ。
しかしその未来は、人間に限る。
人間の意志を、そのまま『夢見』は未来に反映させるのだ。
「意志とは性根だ。トルヴァが真剣に己の事を考えない限り、『夢見』は覆らない。そして己の事
を事実だけを見据えて考える事ほど、困難な事はない。」
故に、『夢見』は外れないのだ。
「エスメラルダ、お前もだ。いい加減に若い連中に自分の子供を重ねるのは止せ。お前の子供は、
此処にはいない。トルヴァもカサンドラも、お前の子供じゃない。」
でなければ。
「でなければ、あたしも、破滅する、と?」
兄の言葉に、エスメラルダは大きく笑った。
その笑みを、ブライニクルは静かに受け止めた。
「ああ、そうさ。あたしはあの子の事を、子供達に重ねてんのさ。あの、小さいあたしの子。ブラ
イニクル、あんたが止めなけりゃ、あの貴族を殺してあの子を取り戻せたのに!」
「お前には無理だ。あの貴族は、お前なんかよりもずっと強いぞ。」
「それがどうしたってのさ!」
エスメラルダは服の袖を翻し、髪の毛を振り乱して叫んだ。
「殺されたってあたしはあの子を取り戻したかったんだ!なのに、あんたが邪魔をした!だから、
あたしは他の子供達に、あの子を重ねる事にしたのさ!それの、何が悪いって言うんだい!あた
しが、カサンドラを、トルヴァを可愛がって何が悪い?」
叫ぶ妹にブライニクルは、静かな一瞥を送り、そっと眼を逸らした。
そして低く言い放つ。
「明日の朝、此処を立つ。トルヴァは置いていく。そうすることで、少なくともお前の愛する一人
の子供――カサンドラは救える。」
「そして、また『夢見』として生きていくのかい、あの子は?」
あの子には、そんな肩書きよりも、普通の娘として生きる方が幸せだというのに。
「だが、そうでもしなければ、生きていく事も出来なかっただろう?カサンドラを『夢見』とする
事は、お前も認めた事だ。」
これ以上の事は、俺には出来ない。
ブライニクルは、今の現状は己の限界を過ぎているのだと告げ、片づけられたテントを後にした。
残されたエスメラルダは、床に座り込んだまま遠くを見つめていた。