知恵の女神に噛みつくのだと言って憚らない狂犬を、サンダウンはそんな事する必要はあるのか
 と引き止めた。
  引き止める理由は、全く以て簡単だ。マッドがそんな事をする必要があるようには見えなかった
 からだ。
  ミネルバは、マッドが幼い頃に聞いたきりの曲を知っている。そしてその曲を、エリオが引き続
 けている。それはもしかしたら、マッドが幼い頃に聞いたっきりなだけで、本当は世の中では有名
 な曲であるのかもしれない。それならば、エリオが練習曲としてそれを選んで弾いていたとしても
 問題ではない。
  だが、たぶん、マッドが幼い頃に聞いてそれ以降は聞いていないという事は、きっと世に輩出さ
 れてはいないと考えて間違いないだろう。或いは、貴族の間でだけで話題になったか。そうである
 ならば、ミネルバはかつて何処かの貴族に――ベックフォード家のような貴族ではなく、南北戦争
 前の上流階級に仕えていたという事だ。
  そしてサンダウンとマッドが恐れているのは、ミネルバがかつて別の貴族に仕えていた時に、マ
 ッドの姿を目にしていたらという事だ。そして、成長したマッドを見て、あの子供であると気付い
 たなら。
  マッドの幼い頃の姿だけを見ていたというならば、マッドに気付く可能性は低い。けれども、荒
 野にやってくる前のマッドの姿を知っていたなら。
  この前の、マッドの友人だと名乗る輩の事も、ある。
  そう思って止めたのだが、マッドはむっつりとした表情で首を横に振った。




  Gentian





    「それだけじゃねぇんだよ。」

  マッドの声はそう言った。
  何、とサンダウンが顔を顰めると、

 「ミネルバについて考えられるのは、それだけじゃねぇんだ。」

  と続けて言った。

 「あんたはエリオが弾いた曲――要はミネルバがエリオに教えた曲について、二つの解釈をしたよ
  な。俺がガキの頃に聞いたっきりの、でも実は有名な曲。もう一つは貴族間だけで楽しまれてて
  世には輩出されなかった曲。でもあんたの考えじゃ、どっちの場合でもミネルバはそれをエリオ
  に教えて、エリオはそれを練習用に弾いてたって事だ。でも、そうじゃなかったら?」

  マッドの声から、殊更、感情が抜けた。

 「貴族間だけで楽しまれてきた音楽で、南北戦争の間に消え失せてしまった曲で、もしもそれをミ
  ネルバが自分の曲としてエリオに与えていたら?」

  南北戦争の間に、貴族達が持っていた財産はほとんどが分断されてしまった。財産だけではなく、
 マッドのように家族さえも分断してしまった事もある。
  その、分断されてそのまま消え失せてしまうはずだったものを、こっそりと誰かが手にしていた
 ら。それに乗じて自分のものにしてしまっていたら。

    「勿論、所有権のある貴族はもう生きちゃいねぇのかもしれねぇ。俺はそれについてとやかく言う
  つもりはねぇよ。でも、もしもミネルバ自身はそう思っていなかったなら。」

  あれは本当は自分の物ではないのだと、鬱々と感じていたとしたら。
  マッドがサンダウンの物ではないと、サンダウンが常々言い聞かせているように、ミネルバも本
 当はそう思っていたのなら。
  だが、それならば止めてしまえば良いだけの事だ。
  そう思って、サンダウンはそれは無理だと思いなおす。ミネルバはベックフォードに仕えている。
 本来は一般の召使として仕えていたのかもしれないが、けれどもエリオに楽譜を渡すようになって
 からは、そちらの任務のほうが重くなっていたの違いない。もしも、それを今更止めると言い出し
 たら、すぐさま暇を出される事だろう。
  ミネルバには、止める事は出来なかったし、真実も告げる事も出来ない。

 「三日後の音楽祭でエリオが出すとか言ってた新曲は、ミネルバが作ったんだろ。もしかしたら、
  また、何処かの貴族が作った曲だったのかもしれねぇ。」

  此処最近曲を出していなかったエリオの久々の新曲。長く新曲が出なかったというのは、ミネル
 バの才能の枯渇を意味していたのではないか。
  そしてその末の新曲というのは。
  そしてその折りに現れたマッドの姿。
  もしもミネルバがマッドに気付いたなら、それはどう思えたのか。

 「………ミネルバが、エリオの楽譜を盗んだと思っているのか?」

  その陰謀に関わっている者以外は入る事の出来ない小屋。そこから楽譜を盗む事が出来るのは、
 当然、この事に関わっている者達だけだ。けれども、一番疑いの濃いレオーネはマッドとサンダウ
 ンの監視下にあったし、他の人間にはそれをする意味がない。
  けれども、マッドにより罪の意識を刺激されたミネルバなら。

    「ただの推論だぜ?」

  ミネルバが、マッドを知っていた可能性は、低い。
  だが、罪悪感が楽譜を奪う理由になる可能性は、ある。

 「……それで、お前はどうしたいんだ。」

    ミネルバが楽譜を盗んだのだとして、マッドはそれをどうするつもりなのか。
  すると、マッドは何を言っているんだと言う表情を浮かべた。

 「あんた、俺達の仕事を忘れたのか?俺達の仕事は音楽祭が滞りなく進むようにする事じゃねぇの
  か?」
 「微妙に違う。」

  サンダウンがベックフォードから依頼された仕事はエリオの警護であって、音楽祭を成功させる
 事ではない。むしろ、サンダウンの本心としては、こんな音楽祭潰れてしまえ、というものである。

   「でも、基本的には同じだろ?」 

  エリオを守る事。それは肉体的になのか精神的になのか、エイブラハムは一言も言わなかった。
 今の状況を見れば、守るのはどう考えても精神――名誉のほうだろう。だが、それを守る謂れなど
 サンダウンにはない。
  これは、エリオの、ひいてはベックフォードが自ら溜めこんだ咎であり、澱だ。ミネルバが良心
 の呵責に耐えかねて楽譜を破り捨てたとしても、それについてサンダウンとマッドが何事かを言う
 権利はない。
  すると、マッドは、表情を微かに歪めた。そして、何かが喉に詰まったかのように、苦しそうに
 呟く。

 「ああ、そうだな。俺に、その権利はねぇよ。」
 「………マッド?」

  マッドの表情に、彼が幼い頃と同じ色を見つけて、サンダウンは自分が何かまずい事を言ってし
 まったのかと慌てた。貴族であったはずのマッドが、本当ならば持っていたはずの権利が、サンダ
 ウンの口にした何かで切り落とされてしまったのかもしれない。
  マッドが貴族に戻る事は、サンダウンにとっては喉の奥を塞がれるよりも苦しい事だ。だが、マ
 ッドがその時の権利を求めて戻りたいと願うのならば、それを止める権利は、それこそサンダウン
 にはない。
  権利はない、と否定してしまったマッドの横顔に、サンダウンが大いにうろたえていると、マッ
 ドはその黒い眼で、サンダウンをじっと見つめた。白い部屋に閉じ込められていた時と、同じ濡れ
 た眼で。
  その眼は、けれども今は憐憫よりも欲情を煽る。
  その欲情を堪えようとしたサンダウンの耳に、マッドが途方に暮れた声で呟いた。

 「ただ、そう、だたな。最初の晩に、エリオが弾いた曲があるだろ?」

  昔を思い出させる陰鬱な曲。
  マッドを白い部屋に閉じ込めた、マッドに良く似た女が白々しい屋敷の中で弾き続けていた音楽。
 彼女がその後どうなったのか、サンダウンには分からない。

 「あの曲は、俺の母親のものだ。」

    マッドの声は迷子の犬のように、いよいよ、途方に暮れていた。
  その声と言葉に、ようやくサンダウンはマッドが今この屋敷で起こっている事象に対して、これ
 ほどまでに関わりたがるのか理解できた。そして、それを今まで言わなかった心情も。
  きっと、マッドは出来る限り過去については触れたくなかったのだろう。それはマッド自身が過
 去を良と思っていなかった所為もあるが、同時にそれはサンダウンの過去にも触れる事になるから
 だ。マッドは、サンダウンがマッドに対して負い目を感じていると思っている。だから、その負い
 目を深めない為にも、口を閉ざしたのだろう。
  だが、自分の母親に類する事だ。どれだけ遠くに置き去りにしたとはいえ、いや、だからこそ。
 マッドは、通り過ぎ去る事が出来なかった。
  それをようやく理解して、サンダウンは自分の理解の遅さを罵ると同時にマッドを自分の腕の中
 に引き寄せた。ふらりと腕の中に倒れこむ身体は、あの部屋の中で横たわっていた時のように頼り
 ない。その身体にさえ欲情しそうな自分を叱咤して、サンダウンはマッドの髪を優しく撫でる。

 「分かった……マッド。お前が望むのなら。」

  いくらでも、この貴族の屋敷の澱に付き合おう。
  耳元で囁いて、その声が睦言のように響いていないだろうかと、サンダウンは微かに思った。け
 れども、それを聞き咎める余裕はマッドにはなかったのか、微かに頷く素振りがあっただけだった。




  が、サンダウンとマッドの思惑は外れる事となる。
  その日、ミネルバは屋敷から姿を消したのだ。