朝から降り続く雨は、夜になっても止みそうになかった。
おかげで、浅く馬でも渡れそうだった小川は、あれよあれよという間に増水し、いつの間にやら
生き物が渡り切るには少々厄介な、暴れ馬並みの猛威を奮う荒波と化していた。
深夜になっても降りやまない雨と、ひたひたと押し寄せる水に、近くの宿場町の人々が不安を抱
くのも無理ならぬことであった。
夜明けの晩
人の行き来の為だけに作られた町は、しかしだからこそ宿泊施設もそれなりのものがある。ゴー
ルド・ラッシュが過ぎ去っても、人の交流がある限り、その町はゴースト・タウンと化したりはし
ないものだ。
こうした町は、長旅を行く者達には勿論のことながら、例えばカウボーイや承認にとっても重宝
される。
また、行くあての決まっていない賞金稼ぎにとっても。
特に、雨の長いこの日、宿場町は先に進めぬ人々でごった返していた。例え雨が上がったとして
も、増水した川の所為でしばらくは滞在する事になるだろう。
そうしたごった返した人々の群れを、宿場町の人間が予期せぬ書き入れ時として喜ぶかと言えば、
そうではない。
人が多くなれば多くなるほど、騒ぎも起こりやすくなる。まして人が多くなりすぎて、泊まる部
屋もなくなり、宿の廊下にまで毛布を引っ張り出しているような状態である。いつ、どのような喧
嘩が起こるか分からないというものだ。
おまけに、酒が入れば、もはや目も当てられぬ惨事となるだろう。
その為、どこかぴりぴりとした空気を纏ったまま、宿場町は深夜を迎えようとしていた。
止まぬ雨の中、既に日付は変更しているというのに、未だに町からは明かりが絶えない。集う人
々が、それ故に積もる話でもあるのか、なかなか眠ろうとしないからだ。煌々と照らされたランプ
の下で語り合うのは、いつしか長雨に対する愚痴に代わり、不平不満がそこから噴出してくる。
不平不満が暴動に変わらぬようにと見張る宿の気苦労も、大変なものであろうことは容易に想像
がついた。
まるで火薬庫のような宿の食堂や廊下を見下ろしながら、運良く一人部屋を手に入れたマッドは、
そろそろ寝ようかな、とか思いながら欠伸を噛み殺す。
川が増水している以上、流石のマッドも動くことはできない。如何に愛馬のディオが雨に打たれ
ても何ら平気な顔をしていても、荒れ狂う川を泳ぎ切る事はできないだろう。マッドとて、そんな
無茶をして死にたいとは思わない。
しばらくはこの街に逗留か、と暇そうに思う。もしもこの町が宿場町として栄えていなかったら、
きっと退屈で腐っていたことだろう。幸いにして商人達が珍しいものを売り買いしているので、な
んとか気は紛れているが。
けれども、獲物を追いかけられないのはやはり退屈だ。
根っからの猟犬であるマッドは、賞金首を撃ち落している時が、一番生き生きとしている。だが、
宿場町で起こりかけている、人々のいざこざには巻き込まれたくはない。
怒鳴り声で睡眠の邪魔をされるなど、真っ平御免だ。
あと、一人部屋を確保しているという事をネタに、因縁つけられるのも。
そう考えると、この状態が続くのはマッドにとっても喜ばしいことではないのだ。とにかく、一
刻も早く雨が止むことを祈るばかりだ。マッドにも、それ以外に出来ることはない。
近くにいた、宿場町の人間を捕まえて、川の様子を聞いてみる。
すると、首を竦めて芳しくない答えが返ってくるだけだった。
川の水は相変わらず増え続けている。まだ此処にまでは到達しないだろうが、しかし雨が止んで
もしばらくは渡れないだろう。
案の定、といった答えに、マッドは小さく溜め息を吐く。
溜め息を吐きたいのはマッドだけではなく、宿場町の人間、いや、この町に留まる全ての人間に
言えることだろう。
だが、マッドが余りにも深々と溜め息を吐いたので、何か重要な用事が川の向こう側にでもあっ
たのかと思われたらしい。
確かに、それはマッドにとっては重要なことなのだが、この場にいるほとんどの人間にとっては
どうでも良い用事だろう。
この町に来る前、マッドは川の向こうにサンダウンがいるという情報を仕入れていたのだ。サン
ダウンがいる所になら何処へでも駆けつけるのがマッドだ。だから今回も、意気揚々とやって来た
のだが、この長雨と川の増水。
きっとサンダウンも身動き出来ないだろうから、逃げられる事を心配しているのではない。
あの男は、もしかしたら真夜中に、一人で雨に打たれて荒野を突き進んでいるかもしれないのだ。
下手をしたら、増水した川にさえ馬を進めるかもしれない。
サンダウンに、妙に何かを諦めた風情があることを、マッドは見抜いている。
死にたいわけではないのだろう。でなければ、マッドの牙から逃げるわけがない。だが、一方で
芯から生きていたいわけではないようだ。でなければ、マッドを見逃すはずがない。どうも、死に
たいのか生きていたいのか、自分でもよく分かっていないという感じがする。
だから、こんな夜に雨に打たれることも、何ら躊躇しないだろう。そして、本当にどうしようも
なくなってから、まだ生きていたいと喚き始めるのだ。
面倒な男だな、と思う。
けれども、マッドの獲物である以上、放っておくわけにもいかない。
だから、マッドはこの雨が止んだら、何とかして川を渡る術を見つけ出そうと思うのだ。
サンダウンは、古びた部屋の窓から外を眺める。
雨脚は一向に止む気配がなく、何故か妙に気落ちした。
雨が止まないと、川の増水が止まらないと知っているからだろう。そして、川の向こう側に自分
を追いかける賞金稼ぎがいるから。
無理やりにでも、川を渡れば良かった。
だが、それをしようとすれば、この小屋の持ち主である老夫婦に止められることは目に見えてい
た。
小さな小屋で細々と暮らすのは、善良な老夫婦だった。
近々娘夫婦が孫の顔を見せにやってくるのだと、さも嬉しそうに語った老夫婦は、雨に打たれて
川をぼんやりと眺める男に何を思ったのか、自分達の小屋へと案内してくれた。
サンダウンと同じく雨に打たれた愛馬には、古びた厩を貸してくれた。
粗末ながらも温かいスープを差し出してくれた老夫婦の心を無碍にすることは、流石のサンダウ
ンもできなかった。
昔、息子が使っていたのだという部屋に通され、ありがたいと思うと同時に、けれども自分を見
つけ出してくれるのはマッドであれば良かったと思っている、あまりにも罰当たりな思考回路に、
サンダウンは低く自嘲した。
降りやまない雨の中、マッドが何処からか現れて、悪態を付きながらも手を引いてくれるのを待
っていたのだ。
だが、マッドが川の向こう側にいることをサンダウンは風の噂で知っていた。別の賞金首を捕え
ているのだ、と聞いていたのだ。だから、川が増水した今、マッドが自分を見つけに来てくれる事
は有り得ない。
いっその事、と荒れ狂い、茶色い泡を湧き立たせる川を見ながら思った。
いっその事、自分がこの川を渡り、マッドに会いに行けば良いのではないか、と。
ずぶ濡れになって、息も絶え絶えになって川を渡り切ってマッドに会いに行けば、マッドは果た
してなんと言うだろう。
呆れるか、怒るか。
だが、いずれにせよ最後はサンダウンを匿って、サンダウンが死んでしまわぬようにと心を砕い
てくれる事は明らかだった。
これまでも、そうだった。
マッドは、サンダウンがマッド以外の手によって――人間であれ自然現象であれ――死を目前に
している時、必ずと言っていいほどサンダウンを死の淵から奪い返そうと躍起になるのだ。賞金稼
ぎが賞金首の為に東奔西走する様は、おかしく滑稽であると共に、酷く可愛らしいようにも思える。
そしてサンダウンは、マッドがそうやって駆け回るたびに、自分はまだ生きていたいのかな、と
思うのだ。
けれども、今夜はマッド以外の人間に命を救われてしまった。
有り難い。
だが、惜しい。
暗い窓の外を見ながら、サンダウンは思う。窓に集まる水滴は、未だに残る、マッドに会えてい
た時の事への未練の数だ。
今でなくとも。
知ったかぶった人間はそう言うだろう。いつでも会えるのだから、と。だが、この荒野において
はそんな確約は何処にもない。サンダウンもマッドも、いつ死ぬかわからぬ身の上だ。だからマッ
ドはサンダウンから死を遠ざけようと躍起になっているのだし、サンダウンは猛る川を渡ってでも
マッドに会いたいと思う。
マッドは、もう眠っただろうか。
雨の中、どうしている事だろう。
マッドの事だから、死とは一番縁遠い場所で、毛布に包まって雨が止むのを待っているのかもし
れない。サンダウンの情報を集めながら、どうやって川を越えようと考えながら。
そしてサンダウンは。
此処で待ち続ければ良いのだろうか。それとも、雨が上がれば、マッドを探しに行くべきだろう
か。
ずぶ濡れのまま会いに行って、そして悪態を吐かれながらも甲斐甲斐しく世話を焼いてもらうと
いうのも、非常に楽しい考えに思えた。
雨が早く上がればいい。
普段は考えない思考が、緩やかに立ち上る。マッドの事が絡めば、いつも考えない事を考えるか
ら不思議だ。天気の事など、それほど気にしたこともないのに。だが、今は雨が上がれば良いと思
う。雨が上がれば、なんとしてでも川を渡って、マッドに会いに行くのだ。
その瞬間に、マッドの目が瞠れば良い。