しゅうしゅうと、未だに蒸気が出る音のする穴の縁からは、穴の中が暗い闇で満たされている事
 しか分からない。
  突然の展開に口を挟む事も出来ず、ただ成り行きを見守るしかなかったレイは、穴の縁からパラ
 パラと砕けた瓦礫が零れ落ちた音で、ようやく我に返った。はっとして、傍らに立つ亡霊を見やり、
 眼を瞠った。
  鈍い色をした長い髪を肩に緩やかに垂らした魔術師は、その髪の隙間から除く唇に、はっきりと
 嗤笑を刻んでいたのだ。一瞬眼を疑いそうになるほどのおぞましい笑みに、レイが咄嗟に後退りし
 た時、ようやくレイの存在を思い出したかのように、亡者はその眼にレイを映した。

 『ああ、これで、やっと終わった。あの、魔王をやっと止める事が出来た。』
 「な、何言ってんだよ、あんた!」

  唐突に現れて、サンダウンを魔王となった青年の名で罵り、そして巨大な炎をぶつけた亡者に、
 レイは震える声で叫ぶ。サンダウンをオルステッドだと言い放った亡者の言い分は、咄嗟に理解出
 来るような類のものではなかったのだがら、当然だ。

 『理解できない、か。当然かもしれない。けれど、あの男だけがこの亡者の嘆きを受けて唯一無傷
  だった事こそ、あの男がオルステッドであるという一番の証拠だ。此処にいる亡者達は皆オルス
  テッドに殺された。それ故に、オルステッドを憎みながらも、怯えて手を出せない。』

  この国の人間は、そんな人間ばかりだ。

 『さて、俺は君を仲間のところに送り届けなければならない。君も、仲間に会いたいだろう?』

  そう告げて歩き出す亡者の身体は、もう、透けてなどいなかった。




  Recurve





  腹の底で、あの乾いた世界で眠りについていたはずの魔王が、眼を覚ました事にサンダウンは気
 付いた。だが、それが何を理由にして目覚めたのか、分からない。
  保安官を止めた時、自分の中に、どうしようもなく人に対して嘲りと不信を持つ化け物がいる事
 に気付いた。それは、保安官でありながらその銃の腕によって血を呼ぶサンダウンを、一度は英雄
 と褒め称えながらも最後は疫病神と罵った、守るべき者達の言葉によって生み出された、魔王だ。
  けれどもそれは、あの荒れ果てた、けれども美しい表情を浮かべる空のもとで静かに眠らされて
 いたはず。魔王の醜い牙は、繊細な指先に受け止められて、決して動かない。動く時は、その手が
 サンダウンから離れていく時だ。
  黒い瞳がサンダウン以外を追い求める時、魔王が口を開いてサンダウンを呑み込もうとする事が
 これまでも多々あった。だが、今はその眼も指も、サンダウンの魔王を受け止めているはず。 
  そのはずなのに、サンダウンの臓腑の裏側では魔王が眼を覚まして、その牙をちらつかせている。
  それも、サンダウンを呑み込もうとその隙を窺っているのではなく、サンダウンなど突き破って、
 何かを壊そうとするような。そう、何かに対して、酷く攻撃的だ。
  魔王の様子に眉を顰め、サンダウンは魔王が唸り声を上げる相手が、自分や牙を受け止める彼で
 はなく、自分に炎の球をぶつけた魔術師であることに気が付いた。
  サンダウンを、魔王――オルステッドだと糾弾し、そして攻撃を仕掛けてきた、オルステッドの
 友人だという亡者。
  もしかしたら、あの亡者もまた、サンダウンの中にいる魔王に気付いた一人なのかもしれない。
 だから、サンダウンをオルステッドだと思ったのか。もし、オルステッドの中にある魔王がサンダ
 ウンのそれと同じなら、理解できなくもない。
  しかし。

 『お前の中には確かに俺がいる。お前の中に俺がいる以上、俺は決して負ける事はない。』

  亡者の、あの台詞は、どういう意味なのだろうか。
  心の中にいる、という意味なのだろうか。オルステッドの心にまだ思う気持ちがあるからだ、と。
 しかしそう綺麗事に思うには、何故か酷く違和感があった。
  親友に勝ったと思った瞬間、殺されたという、あの、亡者。親友は今は魔王となり、亡者の全て
 から憎み、恨まれる存在となっている。
  嘆きの元凶となったオルステッドと、彼に勝ったが故に嫉妬により殺されたというストレイボウ。
  そしてそれは、ストレイボウから一方的に語られる言葉だ。
  一方的に語られる言葉であるが故に、サンダウンはストレイボウの言葉を信じる事ができない。
 例え、ストレイボウが、被害者なのだとしても。だから、ストレイボウの言葉を綺麗事として聞く
 事ができないのだ。

 「…………私の中に、あの亡者と同じ部分があると、言う事か?」

  暗闇の中でそう問えば、微かに自分の中で首を傾げる気配がした。
  サンダウンは、あの亡者と自分が似ているようには思えなかった。むしろ、まだ、勇者と称えら
 れた後に魔王に転落したオルステッドに似ていると言われたほうが、まだ頷ける。
  あの剃刀色をした魔術師と、例え一部とはいえ、自分の中に同じものがあるとは到底思えない。
  ならば何を以てストレイボウは、サンダウンの中に自分がいる、と言ったのか。
  考えた瞬間に湧き起こるのは、言いようのない不快感だ。まるで、心臓の裏側を悪寒のしそうな
 手で触れられているような、何かを土足で荒らされているような、嫌悪感。それは紛れもなく、サ
 ンダウンの魔王が感じているものだ。
  その事に気付いた瞬間、サンダウンの中に途方もない不安が吹き荒ぶ。一人、闇の中にいる事が、
 恐ろしい事に思えてきたのだ。
  何かに縋りついて、熱を抱きこんで、飲み干して。その黒い眼が、微笑みを湛えて、こちらを覗
 き込んでくれたなら。
  その時、誰かの声がして、サンダウンは一気に意識を浮上させられた。




 「眼が醒めたのか!やったぜ!」

  何が『やったぜ!』なのか分からないが、眼を開くとそこにはガッツポーズをした日勝がいた。
 隣には跳ねて喜びを示すポゴがいる。
  蔦に襲われた時、置いてきてしまった二人が此処にいる事を疑問に思っていると、日勝が聞きも
 しないのに説明を始めた。

 「いや、驚いたぜ!眼が覚めたら、なんか草に絡まれてるし!ま、すぐに千切れちまったけどな!
  で、草を引き千切ってなんとか脱出したら、ポゴが急に走り出すし。どうもあんたの匂いがした
  みたいだな。で、ついてったらこの辺全部ボロボロだし、穴開いてるし、その穴ん中であんたは
  ぶっ倒れてるし。」

  いや、ほんと、心配したんだぜー!
  ばんばんと、眼を覚ましたばかりのサンダウンの肩を叩く日勝に、サンダウンはなんだか体力が
 一気に削げ落ちたような気がした。が、そんな事を言っている場合ではない。
  炎によって出来た穴の中から引き上げられたそこには、ストレイボウの姿も、レイの姿もない。
 ストレイボウがレイを連れて何処かに消えた事は、何かとてつもなく不吉な事である気がした。
  少し軋む身体を叱咤して立ち上がれば、日勝も続いて立ち上がる。

 「…………皆と、合流する。」
 「ああ、そうだな!」

  快活に言い放つ日勝と元気にジャンプするポゴとは対照的に、サンダウンの中には薄暗い気分が
 広がっている。それは、サンダウンの魔王の怒りが深まるのに比例している。
  理由は分からない。
  ただ、ストレイボウが何か禁忌を――サンダウンにとっての最大の禁忌を、犯そうとしている気
 がしてならない。それに対する苛立ちが表面に出ないように押し殺して、サンダウンは回廊を引き
 返す為に歩き出した。

 「……………行くぞ。」




  仲間がいると言って連れて来られたのは、水に浸された回廊だった。それは、レイが水に流され
 る前にいた場所だ。行き止まりの、瓦礫が崩れ落ちた部屋に通されて、レイはその場の光景に息を
 飲む。
  そこに広がっていたのは、瓦礫に脚を挟まれたおぼろ丸と、ひくひくと痙攣するばかりで動かな
 いアキラ、そしてその二人の間を右往左往するキューブの姿だった。

 「………っ大丈夫かい!」

  駆け寄るレイに、おぼろ丸が眼を瞠る。

 「レイ殿……?無事でござったか!」
 「ああ、あたいは大丈夫だよ!それよりも、あんた達は………!」

  手のつけられないほどの瓦礫に脚を呑まれたおぼろ丸と、その側に寝かされたアキラに駆け寄り、
 レイは絶句する。
  惨憺たる状況。だが、それでも、脚を挟まれたおぼろ丸は痛みを堪えてレイに問う。
 
 「それよりも、レイ殿。サンダウン殿は?レイ殿や高原殿、ポゴ殿を捜しに行くと言っておったの
  だが………。」
 『残念ながら、残る二人は諦めたほうが良い。』

  地から響くような声が、おぼろ丸の声を遮る。振り返れば、鈍色の髪を背まで垂らした魔術師が、
 沈痛な表情を浮かべていた。

 『すまない。俺がもっと早く気付いていれば良かった。あの、サンダウンという男は、オルステッ
  ドの仮の姿だ。英雄と呼ばれる君達に嫉妬したオルステッドは、君達を殺す為に、あの姿を使っ
  て、君達を惑わせた。奴は、君達をばらばらにして殺すつもりだったようだ。彼女は何とか助け
  だせたが、後の二人は…………。』

  苦しげにそう告げる亡者に、おぼろ丸は、何を言っているのかと表情を顰める。
  だが、ストレイボウは、これは事実だ、と告げた。

 『現に、彼女は、あの男が誘発した蔦に襲われ、殺されそうになった。』

  そうだろう、と同意を求めるストレイボウに、レイは床に倒れたままのアキラを膝に乗せながら、
 俯いた。確かに、あの蔦が、サンダウンを襲わずにレイを襲ったのは事実だ。だが。

 『奴は、此処にいる亡者達が自分に手を出せない事を知っていた。知っていた上で、その気配を現
  わし、亡者達を激昂させた。しかし激昂の行く当ては、奴ではない。奴を恐れる亡者達は、その
  捌け口として、生ある君達を襲った。それらは全て、奴の目論見通りの事だ………。』
 「…………おかしくはござらんか?」

  酔ったように話すストレイボウの声を、今度はおぼろ丸が遮った。

 「もしも、そなたの言う通りなら、何故拙者達は生きている?皆をばらばらにしてから殺すつもり
  だと言うのなら、身動きとれぬ拙者は一番最初に殺されていたはず。」
 『…………そこにいる金属の塊がいたから殺せなかったんだろう。』
 「キューブ殿がいるから?では、それならアキラ殿は?サンダウン殿がアキラ殿を見つけた時は、
  キューブ殿はいなかった。殺めるには、またとない好機ではござらんか?」

  捲し立てるように魔術師の言葉の不備を突く闇の世界で生きてきた少年に対して、魔術師の眼は
 徐々に鋭く細くなっていく。そこには先程まであった沈痛な表情は何処にもない。あるのは、眼の
 前を飛び回る虫を、煩そうに見る人間の表情だけだ。
  その変貌ぶりに、レイは魔術師の口元に浮かんだおぞましい笑みを思い出す。
  あのおぞましさが身に迫っているような気がして、思わず身震いした時、膝の上に乗せていたア
 キラの喉の奥から、呻くような声が零れた。

 「ざけんじゃねぇぞ………てめぇ………!」

  がくがくと震える身体から脂汗を滴らせながら、心が読める少年は少女の温かい膝の上で、魔術
 師を睨みつけている。

 「アキラ!気が付いたのかい!」
 「ああ………、おかげさんでな………。」

  冷え切った身体に、ようやく人の温もりが触れた事で――何よりも健全な心がまた一つ近くに触
 れた事で、亡者の激昂の渦に翻弄されていたアキラの心は、ようやく正常の色を取り戻した。
  しかし、待ちうけていたのは、何よりも醜くおぞましい一つの心だった。
  その心の持ち主を、アキラはまだ震えている身体を抱えながらも、睨みつける。
 
 「てめぇ………どんだけ、卑怯なんだよ!自分自身まで偽って、他の亡霊達を壊してまで、オルス
  テッドとかいう奴を苦しめたかったのかよ!」

  吐き捨てるようなアキラの声に、レイもおぼろ丸も眉を顰めた。

 「………どういう事だい、それ?」
 「亡者達が急に正気を失くしたのは、俺達の所為じゃねぇ。俺に心を読ませねぇようにする為に、
  こいつが魔法を使って心を壊させたんだよ!俺に心を読まれたら、これからの『作戦』が全部台
  無しになっちまうからな!『一番最初』は俺も偽れるほど自分を偽れたけど、ずっと続ける自信
  がなかったから、早いとこ俺を潰そうとしたんだろ!」
 
  アキラの能力さえも、騙し通せるほどの、偽り。それは、単に、オルステッドへの憎悪が深かっ
 たからに他ならない。その憎悪を隠し通せるほどに。
  指摘されたストレイボウの顔は真っ白だった。そしてそこからは表情らしいものが消えている。
 しかし、一瞬にしてその仮面は剥がれた。

 『せっかく殺さずに、心を壊すだけにしといてやろうかと思ったのに、手間のかかるガキだな、て
  めぇはよぉ……。』

  はっきりと禍々しい笑みを浮かべ、がらりと変わった口調に、レイはアキラの言葉が、そして自
 分自身が感じていたおぞましさが正しかったのだと知る。

 「なんで………!?」
 
 『なんで?決まってるだろ、オルステッドにもう一度、絶望を贈る為さ。絶望してさっさとおっ死
  んだら良いものを、だらだらと生き続けやがって。この俺が死んで、あいつが生きてるなんざ、
  有り得ねぇだろ。』
 「だったら、あんた一人でやれば良かったんじゃないか!なんであたい達を襲うのさ!」
 『てめぇらの中に、オルステッドの野郎に似てる奴がいたからさ。気にくわねぇんだよ。あいつと
  同じ魂の色をしてる奴がよぉ!』

  喚くストレイボウの顔は、いよいよ醜く歪んでいる。喉の奥まで見えそうな哄笑は割れ鐘のよう
 で、聞いているだけで不快感を煽る。そして叫ぶその身体は、最初に見た時の半透明ではなく、し
 っかりを実体を持ちつつあるのか、影を床に落とし始めている。

 『だから、奴にもオルステッドと同じようにどん底に突き落としたのさ。その為に、心が読めるっ
  ていうそこのガキが邪魔だったから最初に潰した。そしてちょろちょろ動き回るガキを瓦礫で潰
  した!残る馬鹿共は操って、女は嬲ってやった。その責任全てをなすりつけて、疑われながら死
  なせてやりたかったのさ!』

  しかも、

 『笑える事に、オルステッドの同じ魂をしたあいつは、俺と同じ魂をした奴を思っているときたも
  んだ!』

  大袈裟な身振りで驚きを表わす魔術師に、レイは、あの時の言葉の意味をようやく理解した。
  お前の中には確かに俺がいる、とはそういう意味だったのか。では、お前の中に俺がいる以上、
 俺は決して負ける事はない、というのは。

 『此処は心の迷宮だ。思う心だけじゃなく、思われている心だって存在出来るんだぜ?そして強く
  思われた心ほど、その力も強くなる。そしてこの俺は、その心と同じ魂を持っている。ならば、
  それを取り込む事は可能だ!』

  そう言い終えた時には、実体化しつつあったストレイボウの姿は、完全に別の形を取っていた。
  長い鈍色の髪は短い黒色に、剃刀色の瞳もやはり全てを呑み込む黒に。
  端正な顔立ちのその身体は、けれども刻まれた笑みだけがストレイボウの時のまま、醜い。

 「さて、と。てめぇらも邪魔なだけだしな。片付けるとするか。」

  音楽的な旋律さえ帯びた声音は、しかしやはり何処かひび割れている。そして放たれた言葉が、
 レイを身構えさせるには十分だった。
  だが、眼の前にいる男に、勝てる自信がどうしても、ない。思われた分だけ強くなる心の形が、
 眼の前のそれなのだとしたら、この男――ストレイボウではなく、この形の本当の持ち主は、一体
 どれほど、思われているのか。
  死者を実体化するほどの力を出せるほど思われるのだと言うのなら、そんな思いを孕むこの身体
 に勝てるはずがない。
  影を揺らめかせて近付いてくる男に、それでもレイはアキラとおぼろ丸を庇うように、立ちはだ
 かった。それを見て、男の顔に刻まれていた嗤笑が、いっそう深くなる。

 「レイ!」
 「あいぃいいい!」

  その時、聞いた事のある声が、男の肩越しに聞こえてきた。そこから覗くのは、ツンツンと逆立
 った緑の髪と、赤い鉢巻だ。
  無事に現れた二人の姿に、けれどもレイが安堵する事はなかった。そして、駆け寄ろうとしてい
 た日勝もポゴも、背後から漂う気配に表情を強張らせて凍りついている。

  日勝とポゴの後ろからは、ゆっくりと、しかし非情なまでに確かな足取りで、乾いた風が近付い
 ていた。その風が巻き起こしている気配が、敵味方関係なく、掛け値なしに恐ろしい。
  ストレイボウも気付いて、若く精悍な男の顔のまま、振り返った。
  その瞬間、荒野の化身のような男の気配が、はっきりと怒りを露わにして、噴き上げた。