「なあ、知ってるか?」
笑い含みの声で囁かれた言葉は、しかしそれとは裏腹に、何処か真剣味を帯びていた。
笑みを孕まない黒い瞳は遠い星を何処までも見渡せる夜空のようで、その眼をサンダウンから逸
らさずに、彼はこう言った。
「人間ってのは、ぎりぎりまで殺意を隠せるもんらしいぜ。相手を殺すその直前まで、その対象の
前で笑っていられるんだと。」
そう告げた彼が、何の意図を持っていたのか、サンダウンには分からない。罠を黙々と仕掛ける
人々を見つめながらそう言った彼は、けれども何かを予感していたのかもしれない。
迫りくるならず者達の気配が濃い中で、皆が一様にそちらに気を向けている中、彼は一人、それ
よりももっと奥深くで波打つ、人智を越えた力を感じ取っていたのだろう。そして、サンダウンの
身に起こる不可解な出来事を、その類稀な感性で嗅ぎ取って、サンダウンに警告していたのかもし
れない。
Cross
びしゃり、と派手な水音が辺りに響いた。
凍えきった水路のような石造りの迷宮は、身体の芯どころか心の奥底から震え上がるほど冷たい。
氷の塊で出来ているのではないかと疑うほど、触れた石の壁は蒼褪めて冷ややかだった。
一歩脚を踏み出すほどに、こちらの体力を奪っていくようなその冷たさは、決して日が差さない
迷宮だからという事だけではないだろう。
サンダウンは、背中に担いでいる少年の身体が、人形のようにがくがくと震えているのを感じな
がら、周囲に欠片ほども気配がない事を確認しながら、水の溜まった廊下を歩いていく。
心の迷宮だというこの石作りの回廊は、あちこちで亡者達が呻き回る死者の箱庭でもある。本来
ならばサンダウンになど働きかける事さえ出来ない彼らは、サンダウンに背負われている人の心を
読む事が出来るという少年を介して、その怨嗟との呪詛ともつかない無念の心内を伝えてくる。
その内容のほとんどが、自分達は勇者の皮を被った魔王に殺されたのだという苦鳴だった。
何故、自分達が。
何故、こんなふうに殺されなくてはならないのか。
悔しい、勇者だと信じたばかりに。
我々は、こんな終わり方をするはずじゃなかったのに。
奴こそが魔王だ、奴こそが。
耳を塞ぎたくなるような呪いの言葉を延々と続ける亡者達に、サンダウンと同じく、このくすん
だ世界に飛ばされてきたのだという若者達は徐々に心を消耗させていった。
無理もない。
確かに負の感情は人として当然のものだが、此処にある感情は、それにしても度が過ぎている。
人間の生死に関わるような激しい感情――憎悪という名前のそれをぶつけられた事など、ほとん
どないであろう若者達が、死の間際に放つ人間の欲望を延々と聞かされて、平気であるはずがない。
時に他人に死を与えてきたサンダウンでさえ、冷や汗が浮かぶほどの、感情の奔流だ。
特に、媒介にされたアキラの消耗は激しかった。
人の心を読む事に慣れているはずの少年は、しかしこの激しい怨嗟を一度に流し込まされ、立つ
事もままならぬほど心が壊れかけている。
眼を見開いて身体を震わせるだけのアキラは、一体今何を見ているのか。
唐突に、水の流れる回廊の中に膝を折ってくずおれた少年の姿を思い出し、だが、とサンダウン
は眉を顰める。
しかし、この迷宮に迷い込んだばかりの時は、これほどまでに心を砕かれているふうではなかっ
た。確かに頭痛を堪えるような表情を時折するものの、こんなふうに気が狂う一歩手前の様相を見
せる事はなかった。
いや、そもそも、当初は亡者達もこれほどまで激しく感情をぶつけてくる事はなかった。
それが、唐突に翻ったのは、一体何が原因か。
サンダウンは、縺れそうなほど水が流れる廊下を歩きながら、なんとかしてその瞬間に何が起き
たのかを思い出そうとする。
しかし、それを阻んだのは、不自然に泡立つ水だった。
それを見た瞬間、サンダウンは腰に帯びたピースメーカーに手を伸ばした。
そこから何かが噴き出すように盛り上がっては、泡を水面に絶え間なく吐き出す、前方の水の動
き。それは、この回廊が牙を剥く合図でもある。
サンダウンはアキラを抱えていないほうの手で、ピースメーカーを引き抜くと、牽制するように
泡立つ水面に銃口を向ける。と同時に、間合いを測りつつ、じりじりとそこから離れようと隙を窺
う。
何せ、今はアキラを背負った状態だ。アキラを守りつつ、死者の手と戦う事は、如何にサンダウ
ンといえど困難を極める。
が、そんなサンダウンを嘲笑うかのように、泡立つ水面からは間髪入れずに水が一気に盛り上が
り、見る間に小高い丘のようになると、それは一本の巨大な鞭のように大きく撓った。サンダウン
を過たず狙ったそれを辛うじて避けるも、しかし、再び鎌首を擡げるそれに対して、サンダウンは
成す術がない。
多少の足止めにはなっても、この不浄な汚水に対して鉛の弾が効かない事は既に実証されている
からだ。
でなければ、やすやすと、年若い青年達を、この汚水の手によっていずこかへと連れ去られる事
はなかった。
そう、死者の感情が膨れ上がり、アキラがくずおれると同時に、死者の感情に呼応したのか回廊
の水が盛り上がり、今と同じように次々と、この世界に集められた異世界の住人達を打ち払ってい
ったのだ。
その勢いは正に津波の如く。耐え切れずに、7人のうち4人が水に呑まれて何処かに流された。辛
うじて流される事のなかったサンダウンは、傷を負った一人をもう一人に任せて、こうして流され
た青年達を探しているのだ。
そうしてようやく、最初の一人であるアキラを見つけたのだが、ちょうど死者の感情に呑み込ま
れたところを襲われた少年は、べったりと床に貼りつくように倒れていた。眼を見開いて、がくが
くと震えるだけの身体は、それだけで死者の感情がまだ昂ぶったままである事を伝える。
それは、未だに自分達が、危険極まりないところに置き去られているという事と同義だ。
そう思えば、他のまだ見つからない青年達も心配だ。けれども、こんな状態のアキラを連れて動
き回るわけにもいかない。
そこで、流される事がなかった残る2人のもとに戻ろうとしていたのだが。
その矢先の出来事に、サンダウンは舌打ちする。
波打つ水の塊は、いくら銃を撃ち込んでも、少し動きが鈍くなるだけで倒れる気配は見せない。
しかし、逃げ出そうにもアキラを背負っている今は、サンダウンの動きが制限されている。
ままならぬ状態に、サンダウンが苛立つのも無理もない。
が、それさえも異形には愉快な事なのか、透明な身体をぬらめかせて撓る水の塊は、徐々にサン
ダウンを回廊の壁際に追い詰めていく。勝ち誇るように身を捩る異形は、一際大きく身体を振り被
ると、サンダウンを弾き飛ばそうと降りかかってくる。
と、その時、キュルルルルという酷く人工的な音がサンダウンの耳朶を打った。それを聞くなり、
サンダウンは銃を構えて、降り落ちる水の塊に6発の鉛玉を撃ちこむ。
が、水の塊は一瞬動きを止めただけで、すぐに哄笑のような水音を立てて、サンダウンの頭上に
落ちてくる。
その一瞬の停止は、遥かなる未来の機械にとっては狙点を合わせるのには十分な時間だ
ったようだ。真っ白な光の帯が、じゅっという音すら立てずに、今にも轟音を上げて降りかかりそ
うだった水を、忽ちのうちに白い蒸気へと転じさせる。
もうもうと立ち昇る湯気を残して、消え失せた異形の後ろ側から、もう一度、キュルルルと音が
して、白くて丸い身体が、くるくると回転してみせた。