マッドは、れろ、と指を舐めた。
なんとも、いやらしい舐め方ではあったが、別にマッドにそうした卑猥な目的があったかと言われ
れば、ない、と答えるだろう。マッドは単純に、自分の指に垂れてきた自分の血を舐めとっただけで
ある。
そもそも、マッドが手首に負った傷は存外に深い。血を舐めとったマッドが少し顔を顰めたのは、
血の鉄臭さ以外に、傷の痛みがあった所為だ。太い血管は幸いにして避けているが、しかしそう容易
く塞がりそうにない傷は、どんどん血を溢れさせている。
そんな状態なので、血を舐めとったマッドの姿が存外にいやらしかろうと、マッドにはそうした意
図はない。
大体、マッドのそんな姿を見ているのは、今のところマッドの愛馬のディオくらいしかいない。
「さて、どうしたもんかね。」
マッドは傍らにいる愛馬にだけ聞こえるように、誰に言うでもなく問いかけた。
血はどうやら止まらない。しかし周りにあるのは砂と岩と風ばかり。今すぐに傷をどうこうできる
状態にはない。
かといって、とマッドは周囲を見渡し、風が砂を渦巻いて通り過ぎたのを見送る。
「別に何か急いでるわけでもねぇしな。」
傷が今すぐに塞がってほしい、というわけでもない。確かに血は止まりそうにないが、けれども、
致命的というわけではないのだ。放っておいても、どうにかなるだろう。
それとも。
マッドは周囲を見渡すと同時に、そこかしこに孕む音に聞き耳を立てる。血の集まる獣ども。それ
らの気配がないかを探っているのだ。
ただ、冷静に考えれば、それは探り損というものだ。
マッドの傍らで佇立する、闇のような馬は、ひくりとも動かない。獣が近づけば、気の荒いこの馬
は、一瞬で臨戦態勢に入り、獣を蹴り飛ばす瞬間を今か今かと待ち焦がれるのだ。しかし、今のディ
オにはそのような気配は欠片もなかった。
つまり、獣を恐れるような状態にはない、ということだろう。
マッドは、もう一度、血を舐める。口の中に広がるその味は、お世辞にも美味いとは言い難かった。
けれども、これに魅せられた人間も大勢いるのは事実だ。人の血に限らず、肉を好むようになった
人間もこの世にはいることも。
人肉、というのは、非常に美味である、とある人は言っていた。その人が人肉を食ったのではなく、
人肉を食った連中がそう言っていたらしい。そしてある種の中毒性がある、とも。マッドも、ドナー
隊の悲劇を聞いた時に、食料があるにも拘らず、人肉を選んだ者がいるという事実も共に聞いていた
から、そういうものなのかもしれない、と思っていた。
それは、禁忌であるが故の、中毒性かもしれないが、とその人は言っていた。
精神科医である、というその人は、人肉を一度口にしたが故に、その味が忘れられないという患者
を受け持っていた。
「お前はどう思う?」
マッドは、自分の血の苦みに顔を顰めながら、愛馬に問いかける。
かつて憎しみを背負って人の姿をなした黒い馬は、黒々とした目でマッドを見ただけだった。おそ
ろしいほどに血を浴びたその馬は、血の味を多少なりとも知っているだろうが、けれどもそれを好む
には達しなかったようだ。
まあ、馬だしな。
飼葉のほうを好むであろう愛馬に、マッドはうっそりと笑った。
悪魔めいた存在が、人肉を好むとは限らないのだ。それこそ、一般の人間のほうが、先述したよう
に、人肉の虜となるのではないだろうか。
禁忌である故に、だからこそ禁忌を破りたいというのは、人の性だろう。
もしくは。
こんな人間を、マッドは知っている。賞金首の一人で、人を殺してその肉を口にした男だ。マッド
が撃ち殺したその男は、自分の恋人を殺し、口にすることで幸せを満たしていた。
愛していたから食ったのだ、と。
男は、笑いながらマッドに告げた。
マッドは、理解をしてやらないまま、その男の眉間を撃ち落とした。撃ち落とした後で、この男は
狂っていたのかどうなのか、とちらりと考えたが、感がるだけ無駄だったので、止めた。狂っていよ
うが狂っていまいが、マッドがそれを理解してやる必要はなかったし、マッドはその男の首にかかっ
ていた賞金で酒を買った、それだけだ。
食いたいほどに愛している、ということについて、マッドはいちいち成否を着けるつもりはなかっ
た。そういう人間も、この世にはいた、ということだろう。そして、マッドがそれと同じことを実践
することはないだろう。
不意に、ディオが身じろぎした。微かにその黒い体に緊張が走っている。今すぐに蹴りだそうとい
うのではなく、ただただ何かを窺っている。
風と砂と岩しかなかった風景。マッドが流す血は未だ止まらず、けれども血の匂いを嗅ぎつけた獣
はいない。
いや。
マッドは、遠くに血に誘われたように蠢く気配を感じ取る。ぞわ、ぞわ、といつもよりも何かを腹
の中に溜め込んだ気配がする。
蠢く気配は、マッドもよく知ったものだった。
遠くで、青い眼がゆっくりと瞬く音が響いた気がした。その眼差しが、ぽたりぽたりと垂れるマッ
ドの血を追いかけているのも。
ああ、厄介な獣が目を覚ました。
マッドは、思った。
ディオは緊張を孕んでいる、が、逃げ出す気配はない。いや、逃げ出しても無駄であると分かって
いるのか。逃げたら、むしろもっとのっぴきならぬ事態を引き起こすことは、マッドも悟っている。
あの、獣が。
マッドの気配が離れたと知るや、闇の淵に沈むであろうことは重々承知している。だからマッドは
この状況で、身を動かすこともできやしない。
れろ、とマッドはもう一度、血を舐めとった。その仕草は、見られているのだろうか。気配のざわ
めきが増したような気がした。
さて。
マッドの流れる血を見て、あの青い眼をした獣はどうするだろうか。うろたえるのか、それともい
つもの無表情のままか。表情を崩さないにしても、どんな行動に出るだろうか。
何もしないか、手当でもしようとするか、それとも、食いついてくるだろうか。
そうすれば。
撃ち殺した男が囁いていた。
ずっと一緒だ。