サンダウンから視線を逸らしたマッドの首筋は、マッドの黒い髪は項にかかっている事もあって
か、より白く見える。その白さに、噛みつきたい気分になっているサンダウンは、それが行き過ぎ
た感情である事を理解していた。
自分の元に引き寄せねば。
脳裏に閃いた言葉は、心臓が一つ脈打った後に、すぐに有り得ない考えだとすり替わる。若く先
のあるマッドを、自分の元に引き寄せてなんとする。これまでずっと、自分を追いかける事に人生
を費やしてはいけないと言ってきたではないか。
百歩譲って、長年、人と触れ合わずに生きてきたが故に、定期的に現れるこの青年との時間を何
にも替え難いものと感じているとしても。
すっと美しく伸びる首筋。日に焼けもせず、染み一つない肌は、サンダウンが眼にしたどの女よ
りも肌理細かい。
けれども、如何にマッドの肌が細やかであっても、男の首筋に釘付けになっているなんて、どう
考えてもおかしすぎる。まして、その首筋を掴んで引き寄せるなんて。
有り得ない妄想が、しかし一時とはいえ去来した以上、蹲った感情を否定できない。しかも、そ
の感情は消えるどころがサンダウンの腹の底に広がって、そしてサンダウンは今もマッドを押し倒
すその隙を窺っている。
Fragment of Mirror
マッドの首筋を見て、口元に酷薄な笑みが浮かびそうになった。それに気付いて、サンダウンは
慌てて唇を引き締める。
保安官だった頃、ならず者を撃ち取る時でさえ、そんなふうに感じた事はなかった。だが、マッ
ドを見てはっきりと獲物を狩り取る高揚感を覚えた。あの白い首筋に噛みついたら、一体どんな味
がするだろう。
違う、とサンダウンは首を一つ振った。
そんな事は望んでいない。マッドを狩り取って、自分のものにしたい等とは考えていない。いや、
仮に、そう仮に考えていたとしても、出来るわけがない。
勿論、サンダウンは賞金首で、マッドがサンダウンの前に膝を着いた以上、サンダウンにはマッ
ドを蹂躙する権利がある。だが、そんな事をしたいわけではない。
サンダウンは、この若者には、幸せであって欲しいと思っている。
だから、自分を追いかける事など止めれれば良いと思ったし、その思いはピアノに手を翳してい
る姿を見て、いっそう強くなった。どれだけサンダウンが、マッドに友情めいたものを感じたとし
ても、それ故に離れがたく思っているとしても、それはサンダウンの我儘であって、マッドを引き
止める言い訳にはならない。
が、どうやら、サンダウンの中にあるのは友情なんていう小奇麗なものではなかったらしい。
今も、引き結んだ唇が、再び酷薄なものに移り変わり、押し留めている指先がその白い首を捕え
て、高みを飛び続ける身体を引き寄せようとしている。
きっと、気持ちのままに笑みを浮かべた自分は、獲物を甚振る狩人のような――要するに、強者
が弱者を嬲るような――ものに近い表情をしているだろう。
そんな顔を、マッドの前でするわけにはいかなかった。マッドが顔を背けていて、本当に良かっ
た。
しかし、地面に引き下ろしたマッドが震えるのを見たいのも事実だ。そしてそんな気分を掘り起
こしたのは、紛れも無くマッドがサンダウンから眼を逸らした所為だった。
サンダウンは、自分の中で渦巻いている感情が、どうやら平穏から一番程遠いものである事に気
付いて、途方に暮れた。この感情は、明らかに友情を枠を超えており、しかもマッドを平然と傷つ
けるものだった。
マッドを傷つけるなんて、出来るわけがない。
それは、紛れも無くサンダウンの本心だ。サンダウンはマッドを傷つけるなど耐えがたい罪だと
思っている。だから、これまでの決闘でも、出来る限り怪我をしないようにマッドをあしらってき
た。白い肌に生える赤は例えようも無く美しいのだろうけれど、赤は血を連想させ、即ちマッドの
喪失を連想させる。故に、サンダウンの中では禁忌だった。
そう、サンダウンにとって、マッドは眼に見えなくとも、姿は近くになくとも、生きていればそ
れだけで良い存在だった。
そのはずだった。
なのに、今、サンダウンは、マッドを傷つけても良いから、傍におこうとしている。
マッドの顔を背けた仕草一つで、何か刺のようなものが心臓に突き刺さり、その一撃が冷たく広
がっていくようだ。それは、心臓の裏側に隠していた冷酷な自分が、じわりじわりと染み出ていく
よう。
人間とは思えないくらい酷薄で、けれどもその感情はあまりにも人間的だ。
いや、そんな事は今更だ。人間的でないはずがない。マッドと関わる度に、否が応にも、置き去
りにしたはずの人間らしさが戻っていったではないか。マッドが現れるまで、他人を大切に思う事
さえ億劫になっていた。マッドの声が通るたびに、忘れていた他者への温もりが思い出されて、失
ってはならないと思うようになった。何もかもを失ったサンダウンに、それを呼び起こさせたマッ
ドが、日差しの中で無邪気に跳ねる度に、愛しいと思った。
そうとも、サンダウンは、マッドが愛しかったのだ。
だから、喪失の瞬間に、一番激しく冷酷で残酷な感情が蘇り、身体を揺さぶった。
「マッド。」
失うくらいなら傷つけても良いと思うのは、至極当然の事だ。想いが深ければ深いほど、その衝
動も大きくなる。
それが嫌だから、追うのは止めろと言ったのだ。サンダウンはマッドに手を伸ばしながら思う。
愛しいから、自分に関わって不幸になって欲しくなかった。煌びやかな世界が似合う彼が、荒野で
自分のように朽ち果てていくなんて、駄目だと思った。
けれども、それを実践するには、あまりにも長く傍にいすぎた。
最初に、マッドを元の世界に戻そうと、サンダウンを追うのを止めさせようとした時なら、まだ
間に合ったのだ。サンダウンも、マッドを諦められた。だが、マッドがサンダウンを諦めなかった
所為で、サンダウンもマッドを諦められなくなってしまった。
だから、手を伸ばす事に躊躇はなかった。
いきなり眼の前に伸びた腕に驚いたのか、マッドがはっとしてサンダウンを振り返った。黒い眼
が一気に見開かれ、その中にサンダウンが映り込む。その一瞬に満足して、けれどもまだ足りない。
だからサンダウンはそのままマッドを腕の中に囲い込む。
「何すんだ、キッド!」
マッドが怒鳴るよりも早く、サンダウンはマッドの身体を捕えて引き寄せている。だから、マッ
ドの声は、半分以上がサンダウンのシャツに押し付けられた所為でくぐもったものとなっていた。
しかし、それでもマッドは首を捻って顔を上げ、サンダウンを睨み上げた。
「キッド!何の真似だ!放せよ!」
綺麗な唇が動く。
だが、サンダウンは返事をしない。無視しているのではなく、サンダウンも何を言うべきか迷っ
ているのだ。失いたくないと吠えるのは簡単だった。けれども、吠えたところでサンダウンの言葉
がマッドに届くかは別だった。
マッドの言葉は、いとも容易く、ありとあらゆるものを乗り越えてサンダウンのもとに届くが、
その逆はあまりにも困難だった。いつでもそうだったし、今もそうだろう。
だから、サンダウンは何も言わずに、ずっと魅せられていた白い首筋に顔を埋めた。
「ぅあっ?!」
マッドの喉がひくりと動いて、裏返ったような声が上がった。
身を捩る度に喉仏が動くのが、嗜虐心をそそる。顔を埋めるだけでは飽き足らず、噛みついて吸
い付いて舐めて、その反応を堪能したい。
一度火が着いたら、後は止まらない。何よりも、腕の中で逃げようと身を捩るマッドの動きが、
更にサンダウンを煽る。
だから、サンダウンはその瞬間は何の戸惑いも無く、マッドの腕に抱え込んだまま地面に倒れた。
マッドの後頭部に腕を回し、傷つかないように地面に引き摺り落とす。
「なっ……。」
視界が反転したマッドは、地面に倒れてからようやく事態を理解したのか、更に激しく暴れた。
腕を突っぱねて、サンダウンを押し戻そうとしているが、細い腕ではそれは無理だ。マッドの繊細
な細い指が肩に食い込むのを感じながら、サンダウンはマッドの首筋に鼻先を擦りつける。
「止めろよ!あんた、こんな趣味があったのかよ!」
「…………私を追うのは止めろ、と言ったはずだ。」
それは、こうなる事を防ぐ為だったのだ、と。
サンダウンも自分がマッドを遠ざけようとした一番の理由はそれだろうと、今更ながらに理解し
た。傍にいれば、何が何でも手に入れたくなる。こんなふうに。だから、遠ざけようとした。
けれどもマッドは此処に居続けた。そして、唐突にサンダウンから眼を背けた。それが、サンダ
ウンを変貌させる破片だとも思いもせずに。だから、サンダウンはマッドを手に入れようとしてい
る。
マッドの眼が悔しそうに、傷ついたように光ったが、サンダウンはそれを見なかった。