ところで、本気で怒ったマッドというのは、なかなか元には戻らない。
マッドは基本的に癇癪玉気質なので、すぐに怒りすぐに冷めるというふうに思われがちだが、け
れども本当に、本気で怒った時は、誰が何をどうしても、元に戻らない。
表情をすぅっと失くし、能面のようになったマッドは、端正な顔立ちである所為で本当に人形の
ようで、居心地の悪い凄味がある。普段、怒鳴っている時よりも、いっそ凍えるような威圧感があ
る。近寄りがたいその雰囲気に、本当に誰も近寄れないのだ。
唯一近付けるとすれば、それは賞金首サンダウン・キッドなのだが。
「てめぇなんか信用しねぇからな。」
冷ややかなマッドの表情と冷たい睨みを受けているのが、当のサンダウン・キッドなのだから、
もはやどうしようもない。
何故自分を殺さないのだと詰る賞金稼ぎに、いくらお前を殺したくないと言ったところで、話は
纏まらないであろう事は、サンダウンは承知済みだ。むしろ、ややこしくなる。そもそも、サンダ
ウン自身、マッドを殺したくない理由を上手く説明できない。
いや、理由は色々ある。マッドはまだ若い。それに賞金稼ぎなどという華やかなようでいて実は
薄汚れている職ではなく、本当に華やかな職に就く事もできるし、その能力もある。そんな若者を
殺したくない。それにサンダウンにとって、マッドは唯一対等に話が出来る存在だ。いくら追いか
けさせるのを止めようと思っても、なんだかんだで実行できてないあたり、サンダウンも本気で止
めさせようと思っていないのだ。
そんな複雑な感情を持った賞金首は、先程から全く機嫌の直っていない賞金稼ぎを見て、どうす
れば良いのか、と途方に暮れていた。
Castle of Thorn
別に、サンダウンが途方に暮れる必要もないのだが。
眼の前には、他の賞金稼ぎは殺すのに何で俺は殺さないんだ、と不貞腐れる賞金稼ぎが一人。
これで、頬がぷっくりと膨れていなのなら不貞腐れていると傍目に見ても分かるのだが、幸か不
幸か、マッドは小憎らしいくらい端正な様子を保っている。見かけ上は、平然と。
しかし、これが常ならば、すぐにこのまま決闘に雪崩れ込むのだが、それをしないという事は、
マッドの中で怒りが緩やかに続いているという事だ。いっそ、いつものようにすぐに着火して冷め
てしまえば良いのに、と思うのだが、そこはマッドの感情であるが故に、サンダウンは手出しが出
来ない。むしろ、下手に手出し口出しをすれば、噛みつかれそうだ。
いや、噛みつかれるのならば、まだ良い。噛みついたマッドなど、すぐに抱き込める。
問題は、噛みつかれずに振り払われた時だ。その繊細な手で、ぴしゃりと撥ね退けられたなら、
きっと痛いであろう事は眼に見えている。じくじくと蝕む痛みは、噛みつかれた時よりも傷は浅い
かもしれないが、直りは遅く、痛みもまた同じだろう。
触れる事が出来ない、というのは意外と辛いのだ、と、サンダウンはふと思った。
別に、これまでマッドに触れる事があったわけではない。いや、ほとんどないと言っても過言で
はない。そんな、触れたり触れなかったりという関係ではないのだ。サンダウンが、マッドに自分
を追いかけるなと説得した時でさえ、サンダウンはその手に触れようとも思わなかった。その傾向
は、マッドがピアノの鍵盤を叩いているのを見てから加速を辿っている。触れてはいけない。そん
な気になっていたのだ。
だが、その気になれば、サンダウンはいとも容易くマッドに触れる事が出来る。それは純然たる
事実だ。サンダウンはマッドに対して勝者であり強者だ。マッドを甚振る権利さえ持っている。恐
らくマッドも、そうした西部の掟は知っているから、サンダウンが本気で望めば傷つきながらもそ
の身体を差し出すだろう。
けれども、今は違っていた。
サンダウンは、マッドに触れる事が出来ない。触れる事が出来ても、あっさりと振り払われてし
まう。今のマッドは、サンダウンを撥ね退ける事に一切の躊躇をしない。
試しに、頬でも突ついてみようか。
思わず、不安のあまり、そんな事を考えた。ちょっと突いてみて、マッドが受け入れたなら、次
はもう少し触れて見れれば良い。
しかし、冷静なサンダウンは、それがあまりにもおかしな行為である事も理解している。大体、
これまで手を触れた事もない人間が、いきなり頬を突つけば、絶対に不審に思われる。
ぶつぶつとそんな事を思うサンダウンを見るマッドの眼は、冷ややかだ。未だに冷ややかで、そ
の眼でサンダウンを睨みつけている。その眼が憎しみに染まっていない事が、唯一の救いだろうか。
が、その救いは、マッドの眼が、ふいとサンダウンから逸れた事ですぐに絶たれた。
何故、そんな諦めたように視線を外すのか。
慌てるサンダウンは、しかし同時に、やはり冷静に思い出す。そういえば、マッドがサンダウン
から視線を外す事はなかった。視線を逸らすのは、今まではずっとサンダウンからだった。サンダ
ウンがマッドの視線に耐えられず、眼を逸らし、逃げ出すのが日常で、繰り返す事だった。それが、
今、完全に覆されようとしている。
眼を背けたマッドから、怒りよりも悄然とした気配が強まったのを見て、ますますサンダウンは
慌てた。
悄然が諦観に切り替わるのは、時に風よりも早い。マッドがサンダウンを諦める。いや、それは
マッドの為を思えば喜ばしい事だ。繰り返し言い聞かせる事だが、喜ばしい事なのだ。マッドが真
っ当に咲き誇るには、こんな賞金首に関わる仕事など止めるべきだ。
が、サンダウンにとっては全く喜ばしくない。唯一の、もはや友と呼べる存在は愛馬以外にない
男にとって、この若者の到来がなくなるのは、死に匹敵する。けれども若者の未来とを天秤にかけ
るには、あまりにも軽すぎる。
サンダウンは、顔を背けたマッドを、様々な物を飲みこんだ表情で見やった。頤から首筋にかけ
ての線は、西部の男にしてはあまりにも繊細で、遠い国の彫刻を思わせる優美さがあった。その首
筋を掴んで、そのまま押し倒してやったらどうなるだろう。驚きでこちらを振り向くかもしれない。
焦りのあまり浮かんだ考えは、途方もないものだった。
これまでだって、マッドの視線が別の方向を向いている事はあった。別の賞金首を狙っている研
ぎ澄まされた視線だって、遠目に見てきた。けれども、その時はこんなふうに思わなかった。押し
倒すなどという暴挙を考えるほど、マッドから視線を逸らされる事が不快だなんて。
思ってから、違う、とぼんやりと考え直した。
いつだって不快だった。マッドの眼が別の方を見ているのは、何故か不満だった。別の賞金首を
追いかけるのも、賞金稼ぎ仲間に笑いかけるのも、仕方ない事だと噛み殺していたが、愉快ではな
かった。ピアノの鍵盤に眼を向けていた時だって、見てはいけないものを見たと思うと同時に、何
処かで苦く思っていた。自分の傍にはない者だ、と、苦々しかった。
分別と経験で抑え込んでいただけだ。
もしかしたら、単なる臆病であったのかもしれないが。
それを、こんな事態になってから気付くなんて。マッドの眼が逸らされてしまって、近付けない
ように茨で囲まれてしまってから慌てるだなんて。けれども、この期に及んでも、触れる事に躊躇
しているのだ。
もしも、マッドがこのまま馬に乗って去ってしまったら、二度と逢えないかもしれないのに。そ
うだ、そもそも、これまでだってもう一度逢える保証は何処にもなかった。この広い荒野の何処で
マッドが斃れても、サンダウンには分からない。
そんな事に、今更気がついた。
マッドは、そういう仕事をしている。
なのに、その瞬間にサンダウンの脳裏に閃いたのは、何としてでもマッドに賞金稼ぎを止めさせ
ねばという事ではなく。
マッドを自分の手元に引き寄せる方法だった。