良く吠える犬がいる。
良く吠える犬は噛みつかないと言うが、この犬は吠える上に、何の躊躇いも無く、むしろ嬉々と
して噛みついてくる。
しかも、この犬、昔はそれほどでもなかったが、最近は喉笛ぎりぎりまでその牙を迫らせる事が
多くなった。それは自分が歳をとった所為なのか、それともこの犬が着実に自分に近付いている所
為なのか。
そのあたりは判然としないが、とにかく、真っ黒な毛並みの犬は、今日も尻尾を振りながら吠え
て、そして牙を剥き出しにして顎を開き、飛び付いてくるのだ。
飽きないのか、と思う。
だが、当分飽きなさそうだ、とも思う。
そして、最初こそ鬱陶しく思ったものの、最近ではこの犬の相手が、当分の間続きそうな単調な
人生の、恰好の暇つぶしとなっている。
Magic Mirror
賞金稼ぎマッド・ドッグ。
その名の通り、良く吠えて、人に噛みついて、その首を食いちぎっていく、やたらと気の強い男
である。
見た目は、アメリカ西部の荒野にはあるまじき、端正な体躯と顔と声をしている、優男風。だが、
ほっそりとした両脚は気に入らない相手の前では、相手を容赦なく蹴り上げるただの凶器と化すし、
叩けば壊れてしまいそうに繊細な手は、平気で厳めしい銃を手にして相手を撃ち抜く。
そして、その癇に一度触れれば、形の良い唇からは妙なる調べのように――圧倒的数量の罵詈雑
言が飛び出す。いっそ、その言語の多さに呆然とするほどだ。
天に二物も三物も与えられ過ぎた様子の男は、それらを武器とする事に一切の戸惑いを見せず、
その端正な顔身体で娼婦達を籠絡し、圧倒的な暴力でならず者達を屈服させ、名実共に西部一の賞
金稼ぎの座にいる。
そして、荒野の王者となった男は、けれどもそれだけでは飽き足らず、獲物を求めて西部中を駆
け巡っている――それは、賞金稼ぎとしての仕事も兼ねているので、別に道楽と言うわけではない
のだが。
けれども、現在、そんな賞金稼ぎマッド・ドッグに絶賛追いかけられ中の、これまた名実――要
するに賞金額と銃の腕前で――共に、西部一の賞金首であるサンダウン・キッドにしてみれば、道
楽以外の何物でもない。
名前の通り、尻尾を振りながら良く吠えて噛みつく賞金稼ぎは、何度負けても飽きもせずに追い
かけてくるのを見る限り、暇なんじゃないだろうかと思う。
どれだけマッドが、『てめぇみたいなおっさんに、かまけてる時間はねぇんだ』と言っても、説
得力がない。大体、時間がないのなら、サンダウンの事など放っておけば良い。だから、一度そう
言ってみたところ、
『てめぇ、勝ち逃げする気か!俺を負けたまんまにして馬鹿にする気だな!』
と怒鳴られた。
サンダウンはマッドの事を考えて言ったつもりなのに、何故だ。理不尽だ。
そもそも、以前からサンダウンは、マッドに自分を追わせる事を止めさせようと考えていた。マ
ッドはまだ若い。サンダウンのような、この先何もない、先行き短い男に時間を割かせるなど、心
苦しい。
サンダウンとしては、確かに当初は鬱陶しく思ったものの、陽気でお喋りなマッドは、決闘さえ
絡んでいなければ、話を聞く分としては楽しかったし、一緒にいる事は決して苦にはならない相手
だ。
ただ、マッドの事を考えれば、自分のような者に、その人生の大半を突き合わせるのは、どう考
えてもあってはならない事だ。
その思いが、特に強くなったのは、街中にいるマッドを見てからだろう。
普段、サンダウンと一緒にいる時は、決闘だのなんだの、きゃんきゃんと吠えて落ち着きがない
が、街中で、他の賞金稼ぎや娼婦達と一緒にいる時に見せる表情は、サンダウンが知るものとまる
で違っていた。
遠くから、硝子越しに眺めていた所為だろうか、マッドはサンダウンには気付かずに、酒場の端
のテーブルで、葉巻を燻らせていた。両側に娼婦を侍らせて、口元には薄い笑みを刷いて。手の中
では琥珀色の液体の入ったグラスを弄んで。
伏し目がちの瞼から落とされた睫毛の陰影が、信じられないくらい繊細だった。何事か呟く形の
良い唇も、サンダウンには聞こえないが、きっといつもの声とは全く別の色をしているような気が
する。
組んだ脚も、グラスを弄ぶ手も、一つ一つがそこだけ別世界のように上品だ。
いや、それくらいならば、どうでも良い。サンダウンの前でこそ、それほどまでにあからさまに
見せはしなかったが、マッドの仕草はどう考えても西部の荒野には一致しない事くらい、気付いて
いた。微かに南部の訛りこそ残るものの、洗練された発音からしても、マッドが本来は別の世界に
いるはずだった事くらい、分かっていた事だ。
ただ、不意に見せた、まるで愛おしそうに白と黒の鍵盤に指を降ろす仕草が。
偶々傍にあったピアノ。そちらに視線を映したマッドは、酔っているのか微かに頬を赤くして、
その鍵盤に触れたのだ。その手つきは、普段扱う銃よりも、ずっとしっくりとそこに落ち付いた。
それを見た瞬間、サンダウンは自分が酷い罪人になったような気がした。
保安官であるにも拘わらず、流血を呼び込んだ時以上に、罪悪感に駆られた。
そこにいるはずの賞金稼ぎの姿が、まるで鏡に映っているかのように感じたのだ。鏡に、賞金稼
ぎの本当の魂の形が映されたように感じたのだ。
勿論、そこにいる賞金稼ぎは本物だ。
銃を操っていた昼間の賞金稼ぎも本物だ。
ただ、どちらがマッドの根底に近いかと言われれば、恐らくピアノに触れたマッドのほうが、彼
の芯に近い。
マッドは、自分を姿見で見て、何も思わないのだろうか。自分の芯は賞金稼ぎの玉座ではないと、
鏡の中の時分に訴えかけられないのか。
そう思った瞬間、マッドはこんな所にいるべきではないと考えた。
勿論、ピアノ弾きは荒野にもいるし、堕ちた貴族だって西部にいる。だが、マッドのような、賞
金稼ぎの王になれるほどの人間が、賞金稼ぎとして終わっていくべきではないと思った。自分のよ
うな落ちぶれた男を追いかけて、それに人生の大半を費やす事など、あってはならない。
そう思った。
だから、マッドにそう言ってみた。
その瞬間のマッドの表情の変化は、見事なものだった。瞬きする間に顔を真っ赤にさせ、瞳を爛
々と輝かせ、眉間に皺を寄せてサンダウンを睨みつけたのだ。そのまま、口を開いて牙を見せて、
噛みついて来なかったのが不思議なくらいだった。
噛みつく代わりに、マッドは低い唸り声を上げた。
「てめぇは、俺の親父か何かになったつもりかよ。」
俺の生き方に、何の権利があって口出ししてやがるんだ。それだけの責任も負うつもりもねぇく
せに。
苦々しく言い放たれたマッドの声に、サンダウンは口籠る。マッドの言う通りだったからだ。マ
ッドに賞金稼ぎを止めさせたとしても、その後のマッドの人生に対して、サンダウンは責任を持つ
事が出来ない。賞金稼ぎを止めたマッドが食うに困っても――そんな状況想像も出来ないのだが―
―サンダウンには責任が取れない。
絶句したサンダウンに、更にマッドは追い打ちをかける。
「大体、俺の親父はてめぇみたいにむさ苦しくねぇぞ。」
少しだけショックだった。
そもそも、サンダウンには、マッドのような大きな子供はいない。そんな年齢ではない。
けれども、そう言い返すのは、少しばかり大人げがなかった。だから代わりに、お前の父親でも
同じ事を言っただろうと、控えめに主張してみた。
すると、マッドは形の良い眉を上げて、ふん、と鼻を鳴らす。
「俺が女だったらともかく、男にそんな事言うかよ。」
「…………。」
マッドが女だったら、サンダウンだって力ずくで賞金稼ぎなど止めさせている。女の賞金稼ぎだ
っているにはいるし、マッドなら女であっても王者として君臨するだろう。しかし見ているこちら
はハラハラしっぱなしだ。
いつならず者達に襲われるんじゃないかと、四六時中見張らずにはいられないだろう。良家の子
女らしく大人しくしていて欲しいものである。
ぶつぶつとマッドに聞こえない程度でサンダウンは呟き、相変わらず賞金稼ぎを止める気のない
マッドを見る。マッドは、今から決闘に雪崩れ込んでも構わないという表情をしている。あの夜、
遠目で見た表情は何処にもない。あれは見間違いだったんじゃないだろうかとさえ思うほど、見事
に狂犬の顔をしている。
「おい、キッド。俺の人生なんかどうだって良いんだよ。つーか、そんなに止めさせたきゃ、俺を
撃ち抜けば良いだけだろ。」
そんな事を言いながら、黒光りするバントラインを抜き放つマッド。
マッドの動きを見ながら、サンダウンは内心で溜め息を吐く。撃ち抜けたら、とうの昔にそうし
ている、と。