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  青年は、眼を潤ませていた。
  ああ、もう少しで泣く、と自分でも分かった。
  けれども、だって仕方がない。久しぶりの再会で、泣かないほうがおかしい。惚れていた人間に、
 もう会えないのではないかと考えていた人間に、逢えたのだ。
  鼻を啜りそうになりながら、しかし同時に青年は広くも無い心の片隅で、やけに冷静に考えてい
 た。
  こんなに、再開に心揺さぶられて、物心ついてからはとうに忘れかけていた涙を今にも眼に浮か
 べそうになっているなんて。
  もう、誤魔化しきれやしない。
  いや、いつかは破綻していくだろうとは思っていた。結局のところ、時間に打ち勝つ術など何処
 にもないのだ。喪失の苦しみを癒す最良の薬が時間であると言うのなら、愛や恋を薄れさせる毒物
 もまた、時間であるのだ。
  時間に縛られて、そのまま過去に置き去りにされた感情が、延々とこの身体を蝕み続けるなんて
 事、有り得ないのだ。
  もしくは、或いは、もっと何らかの大きな出来事が起きていれば――例えば死という焼き鏝は忘
 却に対して尤も効果的だと言われている、それさえも時間の前には崩れ去ってしまうのだけれど―
 ―まだしばらくは、あの感情を引き摺っていられたのだろうか。
  だが、そんな事を今更思っても、もう遅い。
  熱くなった瞼と、潤んだ眼は、元に戻りそうにない。




  虎落笛





  追いかけている賞金首がいなくなったのは、突然だった。
  さっきまで普通に荒野を彷徨っていたはずの男が、不意にその足取りを消した。誰かに殺された
 という話も聞かない。国境を越えたという噂も聞かない。何処かで野垂れ死んだと言ってしまうに
 は、あの男は有名すぎる。その死体の行く末くらい、少しでも耳に届きそうなものだ。
  けれども、青年の持つありとあらゆる情報網を以てしても、5000ドルの賞金首の行方はようとし
 て知れなかった。
  まるで、地に沈んだよう、空に溶けたかのよう。
  つい先日、一緒にとある寂れた街をならず者達から守ったばかりだというのに。その時の記憶も
 褪せないうちに、あの男は消えてしまった。
  何処を捜しても見つからない賞金首に、青年は、何でだよ、と唇を噛み締める。
  なんなのだろうか、これは。自分には、惚れた相手と引き裂かれるとかいう、そういう運命でも
 背負わされているのか。しかも、今回は、何処かに行くとかそういう言葉さえ、なしか。
  薄情者、と、青年は別に付き合っていたわけでもなければ、まして友人ですらない、この場にい
 ない男に、毒づいた。けれども、せめて何か一言言ってくれたら、と思ったところで、賞金首と賞
 金稼ぎという関係を考えるに、そんな事は有り得ないと気付く。
  だが、その有り得なさを壊してでも、何か言ってくれたなら、と思うのだ。
  せめて、自分の事が好きか嫌いか、それくらい、言い残してくれさえすれば。鬱陶しいだとか、
 面倒臭いだとか、そんな言葉でも良かった。それを何処かで耳にしていれば、なんとなくであって
 も今此処にいない事実に対して諦めもついたのだ。
  なのに、自分が惚れた相手は、どちらもそれをしてくれない。
  青年に、肝心の言葉を残さずに、何処かに行ってしまう。それだけ、青年の事などどうでも良い
 と思っていたと言う事だろうか。
  いなくなってしまった奴の事なんか、どうでも良いじゃないか。
  こっそりと、自分自身に告げてみた。
  このまま、賞金首に心を流されて、肝心の捜し人から心が離れて行ってしまうなんて事、これで
 起こらないだろう、と。
  だが、それを言い聞かせている時点で、既に心奪われたと言っているようなものだ。そもそも、
 いなくなった事に対して、本気で安堵なんかしていない。むしろ、何処かに賞金首がいないかと、
 今も捜し回っている。
  どう考えても、以前のように、純粋に一人の男を捜す為に賞金首を追いかけているのではない。
 それが、完全に露呈してしまった。だって、もう、本来の捜し人よりも、あの賞金首のほうがいな
 くなる事に怯えている。そちらのほうを本気で捜している。
  なんでこんな事に、と言う暇さえ惜しい。
  あの賞金首を、捜し出さないと。
  置き去りにしてしまった恋情を、どうにかして自分のほうに引き寄せるよりも、つい最近まで傍
 にあった熱を捜すほうが、ずっと大切だった。砂の中から一粒の砂金を見つけるのを諦めたのだと
 嘲笑われても構わない。一粒の砂金よりも、手の中にあったはずの砂粒のほうが大切だった。
  そうとも、だから、再会の時に、泣きそうになったって、仕方がない。

 「マッド………?」

  久しぶりに聞いた低い声に、青年は身体を震わせた。葉巻の匂いも、少し眠たそうに見える眼差
 しも変わらない。
  ただ、耳朶を打つ低い声に、青年を気遣う色が含まれている。

 「………どうした?」

  会ってもすぐに銃を抜こうとしない青年を訝しんだのか、賞金首は無防備にもこちらに近付いて
 くる。今なら、きっと撃ち殺せる。けれどもそんな事はできない。卑怯である上に、卑怯者だなん
 て、一瞬でも思って欲しくない。
  青年が見ていられなくなって俯いていると、頬にかさついた大きな手が寄せられる。固い親指の
 腹で、目じりをそっとなぞられた。濡れている事に気付かれたのか。だが、だとしても、何故こん
 な事をするのか。これは、ただの年長者が若者に見せる情の一環なのだろうか。
  なんでもねぇよ、と身を離そうとすると、腕を掴まれた。

 「………そんな顔で、なんでもない、と言われてもな。」
 「あんたには、関係ねぇだろ。」

  いつもは、これまでもずっと、こんなふうに触れたりしなかったのに。何故急にこんな事をする
 ようになったのか。
  いや、違う。
  サクセズ・タウンで、惚れた男の事を口にした時も、こんなふうに触れられた。もしかして、同
 情されてるのか。そんなものは、いらないのに。
  惨めに思えて身体を離そうにも、やはり賞金首の手は青年の腕を離さない。

 「………そんな顔を、するな。」
 「なんで、てめぇにそんな事言われなきゃならねぇんだよ。」
 「………お前には、惚れた男がいるんだろう?だったら、私の前でそんな顔をするな。」

  それとも襲って欲しいのか。
  耳元で囁かれて、青年は眼を見開いた。と同時に、賞金首が手と一緒に身体を離す。その動きに
 つられるようにして、思わず離れていく手を引き止めてしまった。
  途端に、眼の前にいる賞金首が固まる。青年も、自分がした行動を自問して、凍りついた。そも
 そも、たった今、耳に吹き込まれた言葉が。そして自分の行動は、それを肯定しているかのよう。

 「………マッド?」

  男の声が、耳の奥からわんわんと反響するように聞こえた。

 「お前には、惚れた男がいるんだろう?」
 「ああ、そうだよ。」
 「捜しているんだろう?」
 「ああ。」
 「その男に気付いて貰う為に、私を追いかけているんだろう?」
 「そうだよ。」
 「だったら。」

  手を掴み直された。

 「その顔は、私の前でする顔ではないだろう。」
 「知るかよ、そんなの。」

  自分がどんな顔をしているのか、なんて知りたくもなかった。泣きそうな顔をしているのだろう
 とは思ったが、けれどもそれをこの男に指摘されなくてはならない理由が分からない。いや、それ
 以上に、先程のこの男の台詞のほうが。
  この男は何と言った?
  襲って欲しいのか。
  そう問うたのだ。
  それは、自分を揶揄しているのか嘲笑っているのか、それとも他に何か理由があるのか。

 「どうなんだ、マッド。」

  髪の毛を、一房掬われる。武骨な手つきは、青年の髪一筋を傷つける事さえ恐れているかのよう
 だ。

 「襲っていいのか?それとも、その表情の意味を、私は間違えたか?」

    間違ってなどいない。この男は、正しく、青年の表情の意味を読み取っている。その上で、そん
 な言葉を口にしているのだ。だが、それを問われたところで、青年には応えようがない。さっきま
 ではどうでも良かった過去の恋情が、再び突き刺さったままの刺のように疼きだす。
  いっそ、青年の言い分など聞かずに、襲ってくれたら良いのに。
  そうすれば、勝手に世界は回り始めるだろう。
    黙りこんだ青年に、何を思ったのか、賞金首は掴んでいた腕を強く引いて自分のほうに引き寄せ
 た。そのまま腕の中に閉じ込められてしまって、だが、抵抗して逃げる気力はない。ただ、これで
 置き去りにしてしまった恋情が、本当に遠くに行ってしまうのだろうなとだけ思った。
  そんな青年の予感を肯定するように、賞金首は耳元で囁く。

 「言っておくが、元に戻りたいと言っても、叶えてはやれん。」

    それに対して、青年は返事を返そうとはしなかった。