悲劇の幕開けが起きた後、ディオはそれら全てを背負う事となった。
  動物とは違い、人間は悲劇というものをすぐに起こす。その裏側にある憤怒、憎悪、悲嘆は、恐
 らく、最も人間的であると同時に動物的だ。だから、いとも簡単にディオの背中に乗り、ディオの
 中に取り込まれてしまったのだろう。

  オディオ、ね………。

  人間になった時分の事を思い出し、ディオはふん、と鼻を鳴らす。
  己の名前の元となったその言葉は、『憎しみ』だという。あらゆる時代にあらゆる場所に存在す
 るそれを飲みこんだ時、ディオはその他の『オディオ』についても若干の知識を得た。その際に、
 馬にはあるまじき知性も見に付けたのだが。
  しかし、それにしても、この『オディオ』というのは、全くもって度し難い。
  基本的には人間が持つ、特有の感情。
  悲劇の幕開けであり、時には生命そのものを捻じ曲げる。実際、ディオも馬から人間に変貌した。
 一体、憎しみという感情の何処に、それほどまでの力が存在しているのか。それは、人間になった
 経験があるディオとて、理解できるものではなかった。
  そもそも、人間になった事があると言っても、別にディオは人間に興味があったわけではない。
  元々暴れ馬で、人間を背に乗せる事は好きではなく、むしろ蹴り飛ばす事のほうが得意だった。
 人間になる前の何年かは、戦場馬として兵士を乗せたが、好き好んで乗せたわけではないし、その
 時は背に乗った人間を振り払うよりも、周りに群がる人間を蹴り飛ばすほうに必死だったのだ。
  ディオが人間になったのは、人間の感情を背負ったからであり、人間になりたくてなったわけで
 はない。
  そして、馬に戻った今現在も、人間が好きであるわけではない。
  にも拘わらず、ディオは一人の人間を背に乗せて、荒野を駆けている。

 「言っとくけどな。あの男を認めてるわけじゃねぇんだ。」

  一杯の飼葉に顔を突っ込みながら、ディオは羨ましそうな周りの馬どもにそう言う。
  今、ディオが背に乗せている男は、西部一の賞金稼ぎらしい。らしい、というのは、ディオが周
 りの馬から聞いただけの話であって、ディオ自身は男が賞金稼ぎとして仕事をしているところは、
 きちんと見た事がない。
  見た事があるのは、茶色い賞金首に負けているところだけだ。

 「俺は人間が好きなわけでもねぇ。その辺の馬みたいに、人間に飼い馴らされた事もねぇしな。」

  背に乗ろうとする牧場主やその子供は蹴り飛ばしてきた。戦場では、人を運ぶよりも人を蹴り殺
 す馬として投入された。時には、味方の兵でさえ殺してきた。人間など、ディオにとっては敵でも
 味方でもない。
  確かに、飼い主は存在した。先述した牧場主、ディオを買い取った壮年の兵士。だが、ディオは
 彼らに甘えた素振りを見せた事は一度としてない。どちらも、睨みつけるようにして見てきた。そ
 の眼を、牧場主は生意気だと感じ、兵士は蛮勇だと言った。
  そして、壮年の兵士が、リトル・ビッグホーンで戦死した後は、誰一人としてディオに乗った事
 はない。ディオが人間になった所為もあるが。
  人間になった期間も、とりたて人間が好きだったとは思わない。周りにはならず者達が集まった
 が、彼らに対して人間らしい情を傾けただろうか。
  確かに、怒りを当たり散らす為に殴りつけた事は、人間的だっただろうし、パイクの復讐の為に
 ガトリングを手にしたのは人間の感情だろうが。
  しかし、彼らに対してなんらかの執着があったかと言えば、それは否である。
  きっと、パイクの事もダットンの事も、次第に忘れて行くだろう。人間であった期間も、そんな
 気はしていた。
  彼らがディオの世話をしていたと言うのなら話はまた違ったかもしれない。馬が、仔馬の頃から
 世話をしてくれていた人間を覚えているというのは良くある話だ。
  だが、ディオにはそんな人間は存在しない。

 「憐れな。」

  そう言ったのは、茶色の馬だった。
  痩せたその馬は、とある賞金首の馬。そして、ディオが人間であった事を知る馬だ。ディオが人
 間から馬に戻る瞬間も、見ている。

   「まるで、お前は虚ろだ。だから『オディオ』などの力の介入を許したのだ。」

  賢しらな声。
  ディオと違い、人間になったわけでもないのに、この馬は分かり切ったような口を効く。小賢し
 い。

 「せめて、人間でなくとも、馬とでも良いから誰かと擦り合えば良かったのに、お前はそれさえし
  なかった。いや、出来なかったのか。お前は、馬として生きるにも逸脱し過ぎている。世界の枠
  には当てはまらない。」
 「褒め言葉と受け取っとくぜ。」
  
     小賢しい馬に、ディオは鼻先だけで返事をする。
  所詮は、荒野を駆けるだけの馬だ。如何に保安官だった主を持っていても、戦場を駆けた事はあ
 るまい。その脚で、人間を殺した事もないだろう。
  人間を踏み潰す感触を、この馬が知る事はないのだ。
  だが、茶色い馬は、賢しらな茶色の眼でディオを見ている。ディオが、小童が、と言っても表情
 一つ変化しない。

 「世界の枠に当てはまらないからこそ『オディオ』の器になったのか。それさえ、見越されていた
  のか。」

  低く、呟く声。
  その声は、もしかしたら懸念を孕んでいるのかもしれない。再び、ディオの中に『オディオ』が
 注がれて、台頭する日が来る事を。今回は、台頭するその前にその牙を挫かれたが、次がないとは
 言いきれない。
  それを、懸念しているのか。
  それは、主たる賞金首が元は保安官だった所為で、その性がこの馬にも流れたからか。
  どうやら本当に飼い馴らされた節のある馬に、ディオは、お前こそ憐れだ、と返した。人間の性
 を受け継ぐほど飼い馴らされているなんて。ディオならば絶対にごめんだ。
  けれども、その言葉を受け止めた馬は、やはり静かだった。彼の主と同じ色をした馬は、ひたり
 と双眸でディオを見据えると、その佇まいと同じくらい静かな声で告げた。

 「――主の考えが移った事は否定しない。だが――。」

  見つめる眼は飴色。

 「『オディオ』を受け止めたお前こそ、より、人間の性を引き継いだのではないか?」
 「だから、俺がまた、『オディオ』になるかもってか?」

  そう言い返すと、彼は首を、いや、と傾げる。

 「これから先、お前が再び牙を取り戻すとは思えん。」
 「ああ?」

  腑抜、と言われたような気がして、ディオは声を荒げた。
  しかし、茶色の馬は気にした様子もなく、淡々と答える。

 「お前と同じ、枠に当てはまらない人間が手綱を取っている以上、そんな事はなかろう。」

  含みを持った声は、今、ディオが背に乗せている人間の事を暗に仄めかしている。
  何を言うのかと見やれば、やはり表情は変わらない。

 「あの男は、お前を見て、何と言った?生意気と言ったか、蛮勇と言ったか。」

  ディオの眼を見て、かつての牧場主は生意気だと感じ、兵士は蛮勇だと言った。
  黒い賞金稼ぎは、なんと言っただろうか。
  自分よりも、なお深く暗く透明な眼でディオを見て。

  ――俺に似てるな。

  そう、言ったのだ。