ディオは、荒野の砂埃を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
  それは、他の馬から見れば、酷く人間じみた様子に見えただろうが、きっと人間からは他の馬と
 大差ないように見えているだろう。馬からは分からないだろうが、馬と言うのは実に多彩な表情を
 持っている。
  怒る時、喜ぶ時、笑う時。
  人間達はそれを汲み取り、馬を扱っている。だから、ディオが鼻を鳴らしたところで、彼らがデ
 ィオの事を異常だと思う事はないだろう。
  ディオが、実は一度人間になった事がある馬なのだと、誰も想像しまい。
  他の馬達からは、人間ぶった馬だと言われる事が多々あるが。しかし、ディオはそんな馬どもの
 陰口など、気にはしない。
  ディオは、そのへんの馬と違い、あまりにも多くの事を経験してきた。
  生まれは北部の、少し肌寒い地域。そこにある名も無き牧場で、母馬の命と引き換えに生まれ落
 ちた。母馬は栗毛だったらしいが、ディオは見事なまでの黒馬だった。日に当たれば、いっそ漂白
 されているように見える毛並みは、今も変わらない。
  そして、その頃からディオの気性は荒かった。
  黒い馬を、と望んだ牧場主の息子が、その背に跨ろうとしたのを、蹴り飛ばした事もあれば、腕
 に噛みついた事もある。他の馬を蹴らぬようにと隔離された事もあるが、その時は薄い木の壁をぶ
 ち壊した。
  誰も近寄れぬ黒い馬。
  牧場主の息子は、ディオに何か名前を付けていたようだったが、一向に懐かず背に乗る事も叶わ
 ぬ馬に、嫌気が差したのか、一年も経たぬ内に、別の大人しい斑の馬に乗るようになった。
  大人しい斑の馬に乗る少年を小馬鹿にした事を、ディオは良く覚えている。所詮、その程度の人
 間だ。人参で釣り、その隙に背に乗ろうなど、おこがましい。結局、少し肥満気味の斑の馬に乗っ
 たところを見ると、そもそもその少年には乗馬の素質はなかったのだろう。ディオのような、体格
 の良い背の高い馬には乗らぬほうが良いだろう。背に乗せて、泣かれても困る。
  櫛を通す事さえ許さぬ鬣を一振りし、ディオは翌月、その牧場を後にした。手を拱いた牧場主が
 売り払ったのだ。
  そうしてやってきたのは、多くの男達が集まる牧場だった。
  いや、今にして思えば、あれは馬の競売場だったのだろう。その後、ディオが戦場に駆り立てら
 れる事になったので、兵士達が良い馬を求めていたのだろうと思う。
  ただ、その競売場でも、ディオはやはり暴れ馬だった。
  戦に行く為の馬を、売り買いしているのだ。そこに集う馬とて、一癖も二癖もある。通常の馬の
 ような繊細さは必要なく、しかし危機感知能力は高くなくてはならない。持久力は当然高く、他の
 馬を低きに置くような突出さが求められている。
  そんな馬は、基本的に我が強く、そんな馬を集めれば、どうなるかなど分かり切っている。
  激しく睨み合った後、それでも相手が引き下がらなければ、そのまま蹴り合い噛み合いである。
 もしも、そこに人間が止めに入ろうものなら、そのまま人間も蹴る。
  そんなわけで、競売場はいつも砂埃が舞っていた。
  砂舞うかの地にて、ディオは当然の如く王者に君臨した。
  あらゆる馬を蹴散らし、噛みつき、手を出す人間共を薙ぎ倒した。むろん、ディオの背に乗ろう
 とするものなどいない。近寄ろうものなら、ディオの蹄の跡が身体の何処かに刻まれる事は眼に見
 えていた。
  それ故、ディオは、ディオに恐れをなした馬が毛繕いをするより他は、誰の手も入らず、やはり
 黒い鬣は絡まったままだった。

  ディオのその姿に勇を見出したのか、それとも蛮を見出したのか、一人の初老の男がディオを買
 い取った。
  兵士としてインディオとの戦いに赴くと言う男は、荒れ狂うディオならば、インディオも恐れを
 抱くやもしれぬという期待を込めたのかもしれない。騎兵隊の隊長であるその男は、ディオを連れ
 て、インディオが犇く谷へと幾度も降りて行った。
  男に連れられるまま、ディオはインディオの中で暴れた。
  インディオを乗せた馬を蹴り飛ばし、馬から落ちた人間を踏み砕く。
  はっきり言っておこう。ディオは、そのへんの人間などよりも、ずっと多くの人間を殺している。
 意図的であれ事故であれ、ディオは確かに人間を殺している。ディオはそれを卑下するつもりはな
 い。事実は事実だ。馬にとって――と言うよりも、動物にとって、生命を砕く事は決して悪ではな
 い。悪であると感じるのは、せいぜい人間だけだ。
  そして、殺した人間と同じくらいの数の死体を、ディオはその背に背負って連れて帰ってきた。
 戦場で死んだ兵士を連れ帰るのも、また、馬の役目であったのだ。もしも死んだ騎手の馬が生き残
 っていたなら、その馬が連れて帰る。けれども、馬もまた死んでいたならば、騎手と親しい者が自
 分の馬に乗せて連れて帰るのだ。
  騎手のいなくなった馬が、その後どうなるのか、それはディオも良く知らない。恐らく、他の誰
 かが飼うか、或いは何処かで殺されるのだろう。その二択しか、馬には残されていない。
  だが、殺す人間も、飼う人間もいない場合は。
  スー族、シャイアン族の連合隊と、第七騎兵隊が、リトル・ビッグホーンにて戦い、そして第七
 騎兵隊が全滅したあの時。確かに、何人か生き残った騎兵隊もいたはずだ。後々聞けば、リーノ少
 佐達は生き残っていたらしいが、けれども早々と逃げ去っていたのだろう。少なくとも、ディオが
 辺りを見回した時は、誰一人としていなかったのだから。
  無数の屍を見下ろして、これを一人で運ぶのは億劫だと、ディオは思った。放置しておけば、ハ
 ゲワシどもがやってくる。或いは、インディオ達が勝利を誇示する為に、屍を掲げるか。
  遠くで蠢くインディオ――ディオの眼で見れば、所詮それも人間だ、第七騎兵隊と同じ――達が
 勝利の声を上げている。それをちらりと見てから、身体に付着した血糊を払い落すように、ディオ
 は身震いした。
  彼らが何の為に戦ったのか。
  それはディオには窺い知る事しかできない。
  尤も、ディオにとってそれはどうでも良い事だ。ディオは一頭の馬にしか過ぎず、戦争で人を蹴
 り殺す事にも屍を背に乗せる事にも、些かの躊躇もないからだ。
  ただ、頭上を旋回するハゲワシどもが、生命にとって不吉である事は分かっている。
  また、この光景が、人間にとっては酸鼻を極める情景である事も知っている。戦場ならば幾つも
 見て回ってきた。死体を見た若い兵士が、胃の中の物を全部吐き戻していた事があった。或いは、
 引き裂かれた身体を大事そうに抱き締める兵士がいた事も。
  ディオは馬だ。
  人間の心の機微などは分からない。ただ、この光景は人間にとっては好ましいものではないだろ
 う事は分かる。そして、同時に、別の誰かにとっては喜ぶべき光景である事も、理解している。
  遠くで聞こえる鬨の声。
  インディオ達が、歓声に近い声を上げている。
  この光景を、喜ぶものが、必ず何処かにいる。
  ディオは、ふん、と鼻を鳴らし、頭上を旋回するハゲワシを見上げた。不吉の前兆。彼らは常に
 そう呼ばれている。だから、今回もそうだろう。
  第七騎兵隊が全滅して、それで誰かの勝利という事で幕が閉じるとは思えない。いつだて、勝利
 の後には更なる戦が待ち構えている。勝利の裏側で泣き叫ぶ人の声は、戦火を呼び起こす。きっと、
 今回も同じだ。
  これは、更なる悲劇の幕開け。
  今、歓声を上げる人々は、今回流された血が、更なる血を呼び起こす事を知らない。輝かしい戦
 歴は、その輝きと同じくらい薄暗い憎しみを呼び起こすのだ。インディオ達は、白人に勝利した事
 に酔いしれているかもしれないが、負けた側の恨みと恐怖は計り知れない。今まで以上の激しい弾
 圧が、始まろうとしている。
  彼らの勝鬨は、悲劇がこの世に姿を表わす足音だ。
  憎しみが、この、乾いた大地を押しつぶそうとしている。
  それに、気付かないのか。

  ずっと、西日がディオの横顔を照らした。ディオは、眩しそうに眼を背け、代わりに足元に落ち
 た血みどろの手を見下ろした。
  屍の中で、歓声を聞きながら、ディオはこれから始まる血の争いを薄っすらと見つめていた。