「凄いじゃないか!」

  最初に話しかけてきたのは、そう、いつもオルステッドからだった。
  最期に、ストレイボウが魔王山に向かうオルステッドに声を掛けた時を除けば、会話はいつもオ
 ルステッドから始まっていた。
  一番最初の出会いの時もそうだった。
  ストレイボウは、オルステッドの事は知っていた。並々ならぬ剣の腕を持った子供。そして、多
 分オルステッドもストレイボウの事を知っていた。忌み嫌われた魔法使いの子供として。
  にも拘わらず、オルステッドはストレイボウを声を掛けてきたのだ。
  他の子供達などつまらない。
  そう言って。
  ストレイボウは、その時、父親に教えて貰ったばかりの小さな魔法を密かに森の奥で練習してい
 た。
  魔王山の麓に広がる森は、昼間であろうとも誰も近付かない。森の中を動いているのは、異形と、
 ストレイボウの両親くらいのものだろう。  
  忌み嫌われる魔法使いが、唯一誰の眼も気にせずに、魔術に勤しむ事が出来るのは、この場所を
 おいて他にない。
  だから、唐突に背後から聞こえた子供の声に、ストレイボウが飛び上がるほど驚いたのは、当然
 の事だった。
  慌てて振り返り、睨みつければ、そこには鬱金色の髪をした子供が立っている。

 「凄いね、君は!魔法が使えるなんて!」

  爛漫に言う子供に、ストレイボウは警戒を深くした。
  子供――オルステッドが、並々ならぬ剣の腕を持っている事は、ストレイボウも知っている。だ
 が、だからと言って、オルステッドがストレイボウと同じ思慮深さを持っているとは限らない。魔
 法使いが異形の山で魔法を使っていたと、オルステッドが一言でも口にしようものなら、ストレイ
 ボウは、彼の両親も含め、すぐに教会の前に吊るされるだろう。
  だが、警戒して身を固くしたストレイボウの杞憂を一蹴するように、オルステッドは笑う。

 「安心してよ。誰にも言わないから。二人だけの秘密さ。」

  朗らかに告げるオルステッドの声には、些かの翳りもない。木漏れ日を受け止める鬱金色の髪も、
 気兼ねなく輝いている。

 「広場から見ていて君の姿が何処にもなかったから探したんだ。でも、こんな所にいるなんて。此
  処は、入る事が禁止されてるはずだけど。」

  まあ、私も入ってるから、人の事は言えないけど。
  気負いのないオルステッドは、大きく伸びをすると、ゆっくりと首を傾げて微笑んだ。

 「誰にも言わないよ。その代わりに、また、此処に来ても良いかい?」

    君と友達になりたいんだよ。
  木漏れ日のように降り注いだ言葉に、唐突に背を向けて逃げ出した理由は、ストレイボウにも分
 からなかった。
  恥ずかしかったのか、それともあまりにも想定外の事過ぎて、受け止めきれなかったのか。
  一人である事に、子供ながらに慣れていたストレイボウは、二人になった後、再び一人になった
 時の事を考えると、そこから逃げ出すしかなかった。
  オルステッドの声が、遠くで聞こえた。その声は、しっかりと自分の名前を紡いでいる。だが、
 ストレイボウには止まれない。いつだって、そうだった。オルステッドの言葉は、確かにいつかス
 トレイボウが望んだものだったけれども、しかしそれを実際に手渡されたとしても、ストレイボウ
 にはそれを受け止める勇気はない。
  オルステッドの声には、ストレイボウを引き止める力はない。
  いつだって、そうだった。




  オルステッドの声を振り切るようにして、森の奥へ奥へと駆けていく。
  二十年前、王妃を攫ったと魔王が住む山を、取り囲む異形の森。ストレイボウは、そこで産み落
 とされた。ならば、ストレイボウ自身が、異形なのだろうか。
  そう思った瞬間に、手を取られる。
  はっとして振り返れば、ストレイボウと同じ髪色をした男が立っていた。
  父だ。
  魔法使いである父は、息を切らせて走る息子を見て、首を傾げる。どうした、と問う声には、し
 かし気遣う色はない。ストレイボウが何かから逃げるのは、今に始まった事ではないからだ。父は、
 ストレイボウの愚かさを良く知っていた。
  逃げる事しかしらない息子の手を引き、父親は、再び自分の作業に戻る。
  森の奥に描かれた魔法陣。それは、以前父が描いたものだが、所々消えかかっている。それを、
 元に戻そうというのだろう。
  ストレイボウは、その魔法陣の意味を良く知らない。
  父も、それについて教えてくれようとはしない。まだ、早い、と言うのだ。子供が知るには、ま
 だ早い、秘術だ、と。
  ただ、父がこれを描き終わった後は、異形が少しだけ大人しくなる。
  きっと結界だったのだろう。そう思い至ったのは、父が死んで随分と経った後だった。そして、
 ストレイボウはそれを継ごうともしなかった。それどころか、掻き消した。
  友人を、殺す為に。

  ごめんなさい。

  手を引いて歩く父に、そう言いたかった。父は、人知れず、自分に出来る範囲でルクレチアとい
 う国を守っていたのだろう。誰からも敬われず、顧みられる事もなかった。けれども、それでも、
 守り続けた。
  それを、自分が粉々に砕いてしまった。
  自分は、父のようにはなれなかった。何故父が、蔑まれながらも、黙々と魔法陣を描き続けたの
 か。
  父に手を引かれて、明りの灯った小屋の前に来た。それは、ストレイボウの家だ。今では誰もい
 ない。けれども確かにそこには母がいた。質素だが、それでも温かそうなシチューの匂いがした。
 母は、父よりも先に帰って、夕飯の準備をしていたらしかった。
  父も、母も、町には出歩く事がほとんどない。
  それでも、ストレイボウの行く先々は良く知っているようだった。父に手を引かれて帰ってきた
 ストレイボウを見て、母は穏やかな声でこう言ったからだ。

  ――森の奥で魔法の練習をしていたのね。

  もしかしたら、母の眼は、そういう眼だったのかもしれない。そう思うようになったのも、やは
 り母が死んだ後だった。
  多分、ストレイボウは、あまりにも多くの事を見逃し過ぎていたのだろう。
  父の事も、母の事も、全く知らないままで。彼らの事を、もう少しでも知っていたなら、こんな
 結末にはならなかったのかもしれない。
  国を守り続けた父の矜持も、ストレイボウが森の奥へ奥へと進みながらも口を挟まなかった母の
 眼差しも。
  けれども、それを振り返るには、もう遅過ぎた。
  死の間際になって、それを思い出すなんて。
  振り子のように落ちてきた白い刃を見つめ、ストレイボウは眼を閉じた。