静寂を一つの足音が破った。
  海の底のような青が映った床を、硬い足音が微かに震わせる。それ以外に、この暗い空気を伝わ
 るものはない。
  化学蛍光剤が塗られていた壁面は、役目を忘れてしまったかのように、微かな光も発する事をし
 ない。メンテナンス用の自律機械達も、今は床に転がったまま、動く気配がない。
  そんな濃紺色の闇の中で先程からずっと続いていた硬い足音が、不意に止まる。
  それと同時に、何かが起動するような小さな音が漏れたかと思うと、青白い光が小さく燈った。
 その光は忙しなく、震えるような明滅を繰り返し、闇に浸透するように動かない自律機械達の表面
 を、その忙しない光で照らし出した。
  そして、その光を生み出した、硬い足音の持ち主も。
  年齢で言えば、二十代前後。短く刈られた髪は誰も足跡をつけていない雪を思わせて白く、同じ
 く北欧出身のような白い顔の中では、新緑の木漏れ日を連想させる柔らかな緑の瞳が、何の感情も
 持たずに明滅する光の渦を見つめている。身体に密着した黒いシャツの上を覆うのは、マントにも
 見える白いコートだ。
  そこはかとなく漂うのは、あまりにも静寂に似た気配だ。白い睫毛が、定期的に瞬く様でさえ、
 睫毛から硝子の囀りが聞こえるのではないかと思うほど、静かだ。
  そして、圧倒的に、その造作は繊細だ。爪先一つ、髪の毛一本、薄っすらと浮び上った静脈一筋、
 信じられないくらい繊細で、そして何よりもその顔立ちは、見る者が眼を瞠るほど、美しい。
  おそらく、海底に沈んだ巨獣の骨と同じくらい、静かで美しいだろう。
  彼はその雰囲気と同じくらい静かな動作で、明滅する光に手を伸ばす。彼が今見ているのは、幾
 つもの巨大なモニタと、それらを接続するコード、そして、コンソール・パネルとキーボードであ
 る。そして、巨大なモニタの一番下にある、一番小さなモニタの前に彼は白い手を翳していた。
  そしてピアノに向かうピアニストさながらの滑らかさで、キーボードを打ち込み始めた。
  凄まじい勢いで、意味を成さないと思われる文字の羅列が、モニタの中に並んでいく。並ぶそれ
 ら文字列を、しかし彼は逐一見逃さずチェックしているようだった。澱みないその動きは、些かの
 揺らぎも、そして間違いもない。
  厳しい、まるで実験を見守る科学者のような姿を、明滅するモニタの光と、そして、いつの間に
 か天井の隙間に開いた赤い光だけが見つめている。
  それらの眼差しを一蹴して、青年は硬く白い顔の中で、唯一赤い唇を初めて動かした。とても、
 滑らかに。

 「システム、管理者モードへの移行を要請する。NE-BRD-SAF451-233に接続せよ。」

  その声は、酷く端正だったが、同時に無機質だった。美しい声音は、けれども同時に鋼鉄の塊が
 口を利いているようでもあった。
  しかし、青年は己のその声になんら執着はないのか、淡々と白い己の項に白い手を添えている。
  途端に、白い雪のような項に一筋、亀裂が入った。と思った瞬間、それは一気に開いて、中から
 金属臭が漂ってきそうな、金と銀と緑と黒の基盤と配線が剥き出しになった。
  白い皮膚と武骨な金属の対比。
  けれども、此処にはそれに戸惑う者は誰一人としていない。自らの内部を覗かせた青年も、なん
 ら躊躇う事なく、その中から一本のコードを引き抜き、モニタの隅にある接続孔に穿つ。

 『NE-BRD-SAF451-233に接続しました。』

  何処からともなく、誰の声とも分からぬ声が降ってくる。
  いや、もしかしたらそれは、現実に響いたものではなく、青年の頭の中だけで響いただけだった
 かもしれない。
  もの柔らかな女性の声に聞こえる、けれどもやはり無機質な声に、青年は淡々と命じる。

 「ガイノイド『エヴァ-K452』の設計に関するファイルを検索せよ。」
 『了解。検索開始―――終了。質問条件に該当するファイルは4792件あります。』
 「該当ファイル4792件の中から、更に思考中枢経路に関する設計ファイルを検索せよ」
 『了解。検索開始―――終了。質問条件に該当するファイルは1398件あります。』

  モニタ画面が更新され、1398件のファイルが映し出される。それを振り仰ぎ、彼は変わらぬ声音
 で、再度命じた。

   「1398件、全てNE-BRD-SAF451-233に移行せよ。」

  厳かに声が響いた。
  だが、対照的に、先程まで滑らかに答えていた声が、突然止まった。フリーズだろうか。しかし、
 別の作業は問題なく動いている。

 「システム?どうした?1398件のデータ・ファイルを………。」
 『………できません。』

  眼に見えない声が答えた。それは初めての拒絶だった。
  だが、その事に青年が訝しむ暇はない。青年は間髪入れず、腰に帯びていた銃を引き抜き、背後
 に迫っていた、自律機械を撃ち抜いている。
  いつの間にか動き始めた自律機械達。
  そして、深海のように動きを止めていた、化学蛍光剤を塗られた壁も、徐々に明るさを取り戻し
 ている。

 「……………。」

  無表情だった青年の顔に、初めて表情が浮かんだ。
  けれども、戸惑う暇などない。青年が此処に忍び込んだ事がばれたのだ。何の為に忍び込んだの
 か、それは先程のモニタに残された足跡を辿れば、遠くない未来に分かる事だろう。だが、その前
 に、全てを終わらせればよいのだ。
  その為には、此処から生きて帰る必要がある。
 『妹』を助ける為にも。
  青年はコードを引き抜くと、銃を構えたまま部屋から飛び出した。
  



  それは、機械が当然のように言葉を操る時代。
  けれども、生命体と機械の融合にまでは至らない時代。
  そして、コギトエルゴズム号の事件から幾許かの時間が過ぎた頃。