夜の牧草地で、ディオは鼻歌を歌いながら、辺り一面に食べ物があるという非常に幸せこの上な
い状況に満足していた。地面に顔をつければ口の中に食べ物が入ってくるなんて、なんて素晴らし
い。
どうやら、以前ここに住んでいた牧場主が、生やした牧草が、しっかりと根付いたらしい。牧場
主が何処に行ったのか――経営が立ち行かなくなって手放してしまったのかどうかは知らないが―
―ご丁寧に杭まで打たれて囲われたそこを見て、ディオの主人であるマッドは今宵は此処で過ごす
事を決めたらしい。
最近走り詰めだったディオを休ませる意図もあったのかもしれない。ディオを牧草地に放し、柵
で囲われているから何処か遠くに行ってしまう事もないと、マッドは牧草地を駆けるディオから眼
を放して野営の準備を始めた。
勿論、例え柵に囲われていなくとも、ディオはマッドから逃げ出すつもりなど毛頭ない。しかし、
久しぶりに誰も乗せずに駆け回るのは、なかなか宜しいものがある。鞍さえ外して完全な裸馬で走
るディオは、その解放感にスキップしそうな勢いだった。
が、それに水を差すような冷静な声がすぐ近くから降ってくる。
『馬が、スキップなんぞ出来るはずがないだろう。』
淡々と指摘する栗色の馬は、ディオが歓喜の声を上げた牧草地を見ても、小憎らしいほど落ち着
いていた。可愛げのない奴め、と思ったが、あのおっさんの馬だし可愛げなんぞあるはずがないと
納得する。
そして、可愛くない馬の主人であるむさ苦しいおっさんは、ディオの愛くるしい主人との距離を、
じりじりと詰めていた。
動物達の謝肉祭
サンダウン・キッドに似て、寡黙な空気を醸し出す馬は、自分の主とディオの主がいる方向を一
瞥し、それからディオを見る。
『どうした?いつもなら私の主人がお前の主人に近付けば、鼻息を荒くして邪魔をするのに、今日
は随分と、大人しい。』
ディオが、マッドにサンダウンが近付く事を快く思っていない事は――何処でどう広まったのか
はディオでさえ分からない――西部の馬達の間では公然たる事実だ。しかも栗毛の馬は当事者の愛
馬である為、サンダウンがマッドに手を出した時のディオの立腹ぶりを良く知っている。
しかし、今日のディオはサンダウンがマッドとの距離を詰めても、何も言わない。もしゃもしゃ
と牧草に顔を突っ込んでいる。もしや、眼の前の食料に眼を奪われて主人の事を忘れてしまってい
るのだろうか。それほどまでに意地汚くなるとは、もしやマッドに食事療法でも通告されたか。
『違ぇよ。馬鹿。』
栗毛の馬の大概失礼な考えを、ディオは牧草を頬張りながら一蹴する。
『今日、御主人は酔い潰れる予定だからな。だから、俺がヒゲを警戒する必要はねぇ。』
『………どういう事だ?』
怪訝な顔をした栗毛に、死を背負ったかのような黒い馬は、ふふん、と自慢げに笑う。
『今日の御主人は機嫌が良いからな。酒も大量に買い込んでたし。ま、ヒゲもそのお零れに与る事
は出来るだろうけど。そんなわけで、御主人は今日は盛大に飲むつもりだ。』
『………それが、どうしてお前が警戒しない話になる?』
マッドが機嫌の良いのは、唐突に行方不明になったサンダウンが見つかったからなのだが、そこ
に敢えて馬二頭は突っ込まない。ついでに言うなれば、マッドの機嫌が良い事に、サンダウンがあ
わよくばと狙っている事にも、敢えて触れない。
それらの肝心な事からは出来る限り眼を背けて、ディオはまるでポーカーでロイヤルストレート
フラッシュを出したかのような顔で、とっておきの秘密を口にする。
『ふん、お前、自分の主人の事なのに分かってねぇな。あのおっさんは、御主人が泥酔した時には
手を出さねぇんだよ。』
ただしそれは、人としてどうかという考えではなく、単に泥酔していると反応がなくてつまらな
いからという、何処からどう見ても手前勝手な考えなのだが。
そんな事実からは、やはり眼を逸らしてディオは続ける。
『だから、今日はあのヒゲは御主人に手を出さねぇ。』
『……お前の主人が、泥酔するとは限らんだろう。』
マッドもサンダウンも、大概ザルだ。ザルと言うよりもワクだ。酒など水にも等しいような身体
をしているのに、普段よりもアルコールの摂取量が増えたところで、簡単に泥酔などするだろうか。
『そこは、こう、ちょっと細工を。』
腐っても、かつては憎しみを背負って人間にまでなった馬である。未だに残る憎しみの力を使え
ば、酒にちょっとした細工をするなど、容易い事である。
憎しみの使い方を間違えているような気もするが。
『いや、俺だって御主人を騙すような形になるのは心苦しいぜ。でも、俺も久しぶりの休みを楽し
みてぇ。けど、あのおっさんから御主人を守る必要もある。それなら、あのおっさんが御主人に
手を出せねぇような状況を作り出せば良いんだ。』
だから今夜、御主人には琥珀色の夢の中を漂って貰う。
『明日になったら、俺はもとの献身的な馬に戻るから、今夜一晩だけは許してくれ!』
そう誰に聞かせるわけでもなく嘶いて、ディオは再び牧草の中に顔を突っ込む。
その様子を見たサンダウンの馬は、明日は献身的な馬に戻ると言っても、その勢いで食べ続けた
ら胃がもたれて逆に面倒な事になるんじゃないのかと思いもしたが、それはディオの問題なので口
出ししない事にした。
眼の前で、幸せそのものの表情でアルコールを摂取していく賞金稼ぎを見て、サンダウンはいつ
手を出そうかと機会を窺っていた。
一ヶ月ぶりくらいに逢った賞金稼ぎは、相変わらず色気を振り撒いて、放っておいたら誰かにお
いしく頂かれてしまうのではないかという危険を孕んでいる。いや、その前にそれに当てられたサ
ンダウンが一番危険だ。
何せ、一ヶ月間変な土地に放り込まれて、おかしな格好をした少年少女に囲まれていた。彼らは
世間一般で言えば端正な部類に入るのだろうが、如何せん色気はない――仮にあったとしてもマッ
ドに敵うだろうか、いや敵わない。
マッドがいなければ、おいしくなさそうでも手を出すだろうかとも思いもしたが、流石に腹が減
れば嫌いな物でも食べるという食欲のようにはいかなかった。肉付きの薄そうで骨ばった少年少女
からは、そそるような匂いもせず、一向に食指は動かされなかった。
結果、サンダウンは一人悶々としてマッドを想像しては溜め息を吐くしかなかった。
そして、溜まりに溜まった欲を持て余したところに、待ち望んだマッドの身体がある。すんなり
と細身ではあるが綺麗な肉付きをした身体。緩めたタイの隙間から覗く喉仏が、アルコールの所為
で赤く染まって、マッドの身体が程良く解けている事を示している。薫るような色気も、マッドが
食べ頃である事を告げている。
が。
「ふあ……。」
可愛らしい欠伸に、サンダウンは焦った。
とろとろと閉じてしまいそうな眼を擦るマッドは、いつもより飲んでいないにも拘わらず、酔い
が回ってしまったようだ。疲れもあったのかもしれないが、それにしても早い。
慌てて止めようと、マッドが手にしている酒瓶を奪い取ったが、その時にはマッドの身体はずり
ずりと、ずり下がっている。眼を閉じて身体を傾けたマッドは、気持ち良さそうに酔いに身を任せ
て、このまま眠ってしまいそうだ。
「マッド、マッド。」
名前を呼んで、どうにか意識を戻そうと試みるが、マッドは幸せそうに眼を閉じている。
いや、そんな、せっかくの一ヶ月ぶりの逢瀬なのに、泥酔してしまうなんて。何も出来ないじゃ
ないか。
がくがくと揺さぶって、マッドの眠りを遠ざけようとする。すると、マッドが薄っすらと眼を開
いた。それにほっとしたのも束の間、マッドは身体をふにゃりと崩してサンダウンに凭れかかり、
そして、むにゃむにゃと何事か呟く。完全に寝言の様相をした声に肩を落とすサンダウンの眼の前
には、マッドの赤く熟れた項がある。
なんだ、この、生殺し状態は。
無意味に色気を放つ項に、サンダウンは噛み付きたくなった。が、それをしたところでマッドか
らは反応がない。サンダウンとしては、責め立てた時のマッドの反応が見たいのであって、なんの
反応もしないマッドを抱いても、つまらない。
一ヶ月間夢にまで見たマッドの喘ぎ声が、眼の前で失われた事に、サンダウンは真剣に泣きたく
なった。
が、サンダウンを生殺しの眼に合わせている賞金稼ぎは、幸せそうに笑みを湛えてふにゃふにゃ
としている。
「うきゅ………。」
人の気も知らず可愛らしい声を上げるマッドに、サンダウンは暴発しそうだった。
マッドが完全にくったりとしたのを満足そうに見て、ディオは口の中にある牧草を呑みこむ。こ
れでサンダウンが、マッドに手を出す事はない。
心なしか、がっかりしたようなサンダウンの後姿を、ふふんと鼻先で笑い飛ばし、ディオはその
姿に背を向ける。
『さて、と、いっちょ遠駆けと行くかね。』
『………良いのか?』
がっかりした自分の主人を見ながらサンダウンの馬が問うと、ディオは当たり前だろ、と答える。
『あのおっさんにはこれくらいしてやったほうが良いんだ。いつだって御主人をおいしく頂けるだ
なんて思うなよ!』
くけけけけ、と笑い、ディオは牧草を揺らして走り去る。勢いよく走り抜ける様は、これから魂
を狩りに行くのだと言わんばかりだ。夜の闇に今にも溶け込みそうな後ろ姿をしばらく眺め、そし
てもう一度、憮然とした主人の後姿を見やる。主人の腕の中では、マッドがふにゃふにゃとしてい
る。
きっと、今のマッドでは主が望むような反応はしないだろう。主人の性癖は良く知っている。サ
ンダウンは、マッドが理性を必死で繋ぎとめようとしている様を見るのが好きだ。
むろん、その趣味に口出ししようなどとは思わない。理解はできないが、人間には人間の、馬に
は馬の、性癖というものが存在する。ならば異種族の性癖には口出ししないのが良策というものだ。
そう頷いて、栗毛の馬は黒馬の後を追った。
がっかりしたサンダウンの腕の中では、マッドが偶に可愛い声を漏らしながら、くったりとして
いる。
赤く染まった頬も首筋も、無駄に男を煽る色香が漂っているが、しかし今責め立ててもおもしろ
くない事は眼に見えている。
サンダウンが見たいのは、快感に戸惑いながら必死に理性を繋ぎとめ、しかし流されていくマッ
ドの姿だ。泣きながら必死に声を堪え、けれども激しい責めに耐え切れずに上げる嬌声は、信じら
れないくらい甘い色をしている。
けれど、今のマッドに理性はなく、責めてもふにゃふにゃとした反応しかしないだろう。それは
つまらない。
そんな我儘な事を思っている男の腕の中で、賞金稼ぎはふにゃっと腕を動かしてサンダウンをぺ
たぺたと触り始める。子供が泥遊びでもしているような手つきには色気も何もなく、そんな手つき
でサンダウンの頬に触れてくる。
何だ、と顔を顰めていると、マッドがサンダウンの頬に手をぺたりと貼り付けたまま、とろんと
した眼で見上げてくる。物凄く、眠そうだ。
その寝ぼけた眼差しをしたまま、マッドは酒の所為でいつもよりも赤く染まった唇を小さく動か
す。
「キッド…………。」
眠たそうな、掻き消えそうな声で。
「………寂しかったんだ。」
お前がいなくて。
その瞬間、サンダウンの頭の中から、反応がないとつまらないとか、理性が鬩ぎ合う姿が見たい
だとか、そういう甘ったれた考えが、宇宙の彼方にすっ飛んで行った。
それは、理性線が切れた音、とも言う。
もはやサンダウンの頭の中には、『誘い受』という言葉しかない。
そしてそれは、ディオが丁寧に張り巡らせた防御壁が、内側から壊れた事も意味していた。